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まずみなさんにご覧いただきたいのは、↓の写真です。

この写真は、生活保護と住民税免除を要求して長田区役所を襲撃する在日朝鮮人集団の写真です。
昭和25(1950)年11月27日のものです。
昨今、河本準一に絡む一連の生活保護不正受給の問題が世間を騒がせていますが、彼ら不逞在日朝鮮人のやり口は、いまも昔もまったく変わっていないことが、この1枚の写真からもお分かりいただけようかと思います。
昭和25年当時は全国で多数の不逞在日朝鮮人による「朝鮮人生活擁護闘争」の騒乱事件が起こりました。
背景となったのは、前年の昭和24年から始まったドッジ・ラインによるデフレがあったと言われています。
このデフレで、在日朝鮮人にも失業者が激増したのです。
このため不逞在日朝鮮人たちは、地方税の減免や生活保護の適用を求めて全国各地の役所に押しかけました。
大きな事件となったものには、写真の長田区役所襲撃事件や、昭和26(1951)年の下里村役場集団恐喝事件、昭和27(1952)年の万来町事件などがあります。
かつて朝鮮半島は日本であり、日本国内と同じ法律、同じ教育が行なわれました。
私達日本人は、朝鮮半島のために日本国内向けの国家予算の3倍もの費用を投じて朝鮮半島内の社会インフラの整備を行い、支那事変や大東亜戦争で多くの日本人青年が戦地に向かった際も、あとから日本人となった朝鮮族は、軍役そのものを終戦の前年まで免除するという大慈悲を施しました。
さらに朝鮮戦争勃発後は、朝鮮半島から渡来した多くの朝鮮人難民たちを風呂にいれ、食べ物や住居与え、お金まで渡してあげたのです。
要するに私達日本人は、彼ら朝鮮人のために、とことん誠実な友情を示し続けてきたわけです。
「平和外交」どころではありません。
彼らを同胞の日本人として高めようと努力し続けてきたのです。
ところが日本が戦争に負けた瞬間、彼ら朝鮮人は「自分たちは戦勝国民族だ」と言い出しました。
私達日本人は、戦前の朝鮮族を日本人として、朝鮮人という言葉は、東北人、関東人、関西人、九州人、四国人などとと同じ語感として、彼らを日本人と同じ日本族として処遇してきたにもかかわらず、です。
戦争が終わると、彼ら朝鮮人は、なぜか自分たちだけは戦勝国民族だ、と名乗りました。
そして朝鮮進駐軍を名乗り、日本国内で強姦や暴行、窃盗、不動産の占拠、横領、傷害、殺人など、好き放題の不始末を働き出しました。
なかには、幼子を連れた若く美しい日本人のご夫人が、白昼の往来の人々が見ている前でまる裸にされ、彼ら不逞朝鮮人たちによって輪姦されたうえ、最後にはナイフで鼻を削がれるという事件までありました。
そして「自分たちは戦勝国民族であり日本人に対する支配者層である」と言ってさんざん大きな顔をしておきながら、ドッチラインによって日本が不況になると、とたんに手のひらを返して、「生活保護をよこせ」とやった。
それが冒頭の写真です。
こういう図々しさは、すくなくとも我々日本人には、まったくありません。
それだけじゃなく、世界中どこに行っても、通用しない。
実際、私もカナダや米国、東南アジアなどを訪問した際、現地の人からよく、
「あなたは支那人か、朝鮮人か、日本人か」と聞かれました。
「日本人ですよ」と答えると、彼らはとたんにホッとした顔つきになる。
世界の人は知っているのです。
ところで、ちょうど1年前になりますが、昨年の5月23日、韓国の聯合ニュースが、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領が登山に同行した警護要員を押しのけるようにして投身自殺を図ったことを報じました。
同月24日、韓国政府は臨時閣議を開き、前日に自殺した盧武鉉前大統領の葬儀を、哀悼と敬意を表するため国葬に次ぐ国民葬で執り行うことを決めています。
韓国でいう国民葬というのは、葬式期間が最大7日間。葬式費用の一部が国庫負担となるものです。
前職大統領の韓国国民葬は、2006年10月に死亡した崔圭夏氏に次いで2人目です。
この盧武鉉前大統領の国民葬は、たいへんな葬儀となりました。
なんと弔問の群衆で、ソウルの町が埋め尽くされたのです。
↓ ↓ ↓

さて、その盧武鉉前大統領が生前残した言葉に、次のようなものがあります。
~~~~~~~~~
◆韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞(在日韓国人)にそんなことを言う資格などない。
◆私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、いいとこどりではないか。
◆私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞の連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。
◆僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。
~~~~~~~~
なるほど韓国に住む韓国人からすると、日本にいる在日朝鮮人は、よく差別されていると聞きます。
たいへん評判が悪い。
ひとつ不思議なことがあります。
北朝鮮に無理やり拉致された日本人について、日本に住む日本人の多くは、拉致被害者の一日もはやい帰還を願います。
拉致されたのです。
ならば一日も早い帰郷を願う。
それが万国共通の普通の国民感情です。
ところが不思議なことに、在日朝鮮人は、「自分たちは戦前、日本政府によって無理やり強制連行されてきた被害者である」と声高に主張するのだけれど、韓国に住む韓国人たちは、誰も彼ら在日韓国人の帰還を喜ばない。
喜ばないどころか、韓国民からこれだけ圧倒的な支持を集めた盧武鉉元大統領が、堂々と在日韓国人に対して、「僑胞は僑胞だ。韓国人ではない」と発言しているのです。
なぜでしょう?
一般的に、戦前の法律である国家総動員法によって、多くの朝鮮族の方々が日本に連れてこられたとされています。
事実、国民徴用令によって、多くの朝鮮人の方が日本工業の基盤となる各種業務をこなしてくれました。
しかし、この法律によって来日していただいた朝鮮人の方々は、実は戦争が終わると故郷へと帰っているという事実が、意外にも無視されています。
帝国政府は、日本の為に働いてもらった朝鮮人の方々を放置する事なく、その責任を以て帰郷の事業を行なっているのです。
その過程で発生した最も有名な事件が「浮島丸事件」です。
終戦直後の昭和20年8月24日の出来事です。
京都府舞鶴港で日本海軍の輸送艦「浮島丸」が米軍の設置した機雷に接触し撃沈され、乗員乗客ら500名以上が死亡したのです。
輸送艦の乗客は朝鮮人の方々です。
というのも、日本政府は8月21日の次官級会議で、日本の為に協力してくれた朝鮮人達の帰郷方針を決定し、22日には専門委員会を発足させていました。
浮島丸事件は、その過程で発生した痛ましい事件だったのです。
まだ戦闘終結直後であり、米軍の敷設した各種機雷が依然として海上を漂っていたため、それに触雷しての結果でした。
そして、この事件から浮かび上がる真実は、「日本政府は朝鮮人の方々をちゃんと帰郷させていた」という事実です。
日本政府は、朝鮮半島から来ていただいていた朝鮮人の方々を、じつは、戦争が終わると全員帰郷できるよう、旅費やその他全ての経費を政府が負担した上で、責任をもって送迎しています。
終戦直後で、日本中が焼け野原になり、とても貧しく、食べる物もろくにないという情況にあり、政府の歳入などもほとんどゼロに近い状態の中でさえ、日本は、戦時徴用した彼ら朝鮮族の人々をちゃんと故郷に送り返しているのです。
このとき日本にいた朝鮮族の方々は「半島に帰るか、それとも日本にとどまるか」という選択肢を与えられたのです。
そして故郷に帰りたい者は帰郷し、既に日本で事業に成功して財産を蓄え或いは家族をつくった人達は、自分の意志で日本にとどまることを決意しています。
明治40年の日韓併合条約締結以後、日本の内務省によって朝鮮人の日本移住が許可されました。
その直後、朝鮮半島と日本本土の経済落差から出稼ぎ労働の憧れの対象となり、昭和5年には298,091人の朝鮮人が移住してきています。
昭和10年には62万人もの朝鮮人が日本へ移住しました。
国民徴用令がだされたのは昭和14年ですが、これさえもあくまで朝鮮族に対しては「志願制」です。
現在、朝鮮半島に住む韓国人の方は、日本国内に住む在日韓国人へ対して、多かれ少なかれ一定の感情を持っているといいます。
それは、同じ韓国民でありながら、韓国軍への徴兵がない等、顕著な行政上の差別があるからです。
そして、「なぜ同胞なのに差別を?」という疑問の答えは、
「強制的に連れてこられてそのまま帰れないでいる」ということに対してではなく、
「日本住む在日韓国人は、自分の意志で朝鮮半島を捨てて日本に住むこと決意した」
という歴史的背景によるものだという点にあります。
ちなみに、国民徴用令は大東亜戦争開戦前の1939年に施行されましたが、朝鮮半島での施行は、戦争末期の1944年です。
日本のにいる在日朝鮮人への徴兵も1944年からです。
当時の状況は、日本人ならば主婦や学生までが総動員態勢で工業生産に従事していました。
当時は同じ日本国民と認識された朝鮮人だけが、何もせずに遊んでいなけれはならないという理由はありません。むしろ、その方が差別だし、悪質というものです。公平を欠きます。
ですからむしろ「朝鮮人だけ強制をするな」という主張のほうが、「朝鮮人は無能だから仕事もできないので強制する必要がない」という、極めて悪質な人種差別・朝鮮人差別的発言であろうかと思われます。
戦前の日本では、朝鮮は日本の一地方という認識がありました。同じ日本という国の一部だったのです。
ではなぜ、半島に住む韓国の人々が、在日韓国人の人を蔑む発言をするのか。
実は、現在日本に住む在日韓国人の多くが日本に来日してきた時期は、朝鮮戦争(1950年~)の時期とほぼ一致しています。
朝鮮半島では、新しくできた韓国を守ろうと多くの人達が必死に戦いました。
その中で、「戦うのは嫌だ」と日本へ避難してきた朝鮮の人達が存在します。
この行動が、現在も根強く残る朝鮮半島内の在日者に対する差別の根拠となっている。
自分たちが必死に戦って守った国が平和になったら、のこのこやってきて、自分たちも韓国人であると主張する。
半島に住む人々が、「なんなんだ、おまえら!」という気持ちになっても、なんら不思議はありません。
「他のみんなが頑張っているのに、自分だけは楽をしたい」
この精神性を持つ人達が朝鮮戦争のさなか、祖国を裏切って戦後に来日し、現在も在日朝鮮人としての身分を得ているのです。
在日朝鮮人が本国に帰国すると、「差別」をうけるといいますが、ある意味、それは当然といえようかと思います。
さて、このような「自分さえよければ良い」という考えの持ち主が、現代では国民年金を払っていないにもかかわらず、年金の支給を要求したり、生活保護を不正受給したりする不逞在日朝鮮人の思考に派生しています。
そして彼らの特徴は、自分に都合の悪い事が起きれば、
「私たちは強制的に連れてこられたんだ」
の一点張りをし、全ての責任追及を回避しようとする点に明確にあらわれます。
こうした姿勢も、「朝鮮人だから」ということではなく、そういう精神性の持ち主達の集まりだから、ということに起因するように思えます。
ちなみに、戦後の在日韓国人の方の戸籍は、大半が役所に存在しないか、あるいは男が女だったり、兄弟が夫婦だったりと間違った登録がされています。
理由は、朝鮮戦争当時に密入国してきた為、行方不明人として扱われた結果です。
さて、差別とは、不当な条件によって不当な扱いをする行為を指す言葉です。
従って、人種・門地・性別といった、本人の意思とは全く関係のない情報によって、その者を不当に扱うことが差別です。
しかし、不正や不法行為や重大犯罪をしでかすヤカラを警戒することは、はたして差別といえることなのでしょうか。
不逞朝鮮人の犯罪の第一歩は初代内閣総理大臣の殺害から始まりました。
これは誰もがよくご存じだと思うので割愛致します。
そして、昭和7年には桜田門事件が発生します。朝鮮人テロリストの李奉昌が、爆弾を昭和天皇へめがけて投げつけ、暗殺未遂を起こしたのです。
昭和天皇の暗殺は幸いなことに失敗しましたが、警備をしていた人達に重傷を負わせました。
この事件によって、当時の日本国民はとても大きな不安を覚えました。
しかし、昭和天皇はこれを李奉昌個人の犯罪とし、朝鮮の人民にその責任を負わせることをしませんでした。
このことは、セルビア人青年がオーストリア皇太子を殺害したことによって発生した第一次世界大戦を考えれば、とても寛大な処置といえます。
なぜならもしこれが西洋や支那で起こった事件なら、おそらくいま朝鮮族はこの世にひとりも存在していないからです。
また、同じ年の4月29日の天皇誕生日に、また朝鮮人テロリストが爆弾殺傷事件を起こしました。
天皇誕生日の記念祝典に参加していた日本人を狙って、尹奉吉が爆弾を使用し、多くの日本人を殺傷しました。
このテロでは、白川義則上海派遣軍司令官と河端貞次居留民団長が殺害され、重光葵、植田謙吉、野村吉三郎らが重傷を負い、多くの日本人が殺傷されました。
ちなみに爆弾が投下されたときは、会場で全員が起立して、国旗に向かい、国歌斉唱を行なっているときでした。
このとき、重光葵氏は、爆弾によって片足を失う大怪我を負いながら、朗々と君が代を最後まで歌い続けました。
国旗に向かい、国歌斉唱をしている瞬間というのは、陛下に向かって起立しているときと同じことだからです。
実に胆の座った立派な人だと思います。
こうして不逞朝鮮人による犯罪が度重なる事によって、日本人の心の中には多くの不安が蓄積していきました。
なるほど全ての在日朝鮮人がこのような悪質な犯罪をしているわけではありません。
しかし、韓国も北朝鮮も、在日半島人の誰もがこれらの犯罪へ対して謝罪の意を表していない事は事実です。
それどころか、全ての朝鮮人が教科書等で、上記に挙げた犯罪者を「英雄」として賞賛してさえいます。
こんな馬鹿げた異常はありません。
戦争が終わると、朝鮮人達は「準戦勝国民」という地位を連合国から与えられました。
文の最初の方で、その一部をご紹介しましたが、もういくつかもご紹介してみます。
最初は昭和21(1946)年の「首相官邸暴動事件」です。
約2000人の不逞在日朝鮮人が「戦勝国民」の権利を謳って首相官邸に乱入し、警官隊や米軍憲兵隊と戦闘を行いました。
昭和23(1948)年には同じく「戦勝国民」の地位に酔った朝鮮人3万人が一斉蜂起し、様々な破壊行動を行い、米軍憲兵隊(MP:ミリタリーポリス)の指揮下で鎮圧され、約1000人の逮捕者が出ました。
また大阪と神戸では府県庁を襲撃して知事や役人に暴力を行った上で監禁しました。
この事件でGHQは緊急事態命令を発し、累計2000名におよぶ朝鮮人を逮捕しています。
昭和26(1951)年、滋賀県では「日野事件」が勃発しました。
朝鮮戦争の戦禍から逃亡してきた朝鮮人50名が武装集団となり、警察署を襲撃したのです。
昭和27(1952)年の「吹田事件」では、朝鮮戦争の開戦をお祝いしていた「在日朝鮮統一戦線」の学生達およそ1100名が「革命思想」をもとに興奮し、警察や街の工場施設を襲撃した上で拳銃を奪って逃走しました。この事件では113名が逮捕されています。
昭和29(1954)年に起きた第二の神戸事件では、900名の在日朝鮮人が区役所や税務署を襲撃して破壊し、警官隊と戦闘を繰り広げ、188名の逮捕者が出ました。
このようにして数々の犯罪を繰り返し、米国の占領中に発生した朝鮮人犯罪を米軍が統計したところ、1947年から50年までの間の朝鮮人による犯罪での朝鮮人の検挙数は、
殺人・強盗 4656件
レイプ 224件
放火 57件
傷害 17,552件
窃盗 44,494件
です。この他、集団での蜂起ではない朝鮮人個人の犯罪は、ここに表れた数字の3000倍あったとも言われています。
鉄道公安という制度(これはいまは警察官が兼任となりましたが)が、戦後復活したのも、あまりにも不逞朝鮮人による電車内での痴漢、強姦、暴行、傷害、強盗事件が頻発したことで、GHQが直接指揮して復活させたものです。
さらに驚くべき事件は、昭和33(1958)年8月20日に起こりました。
東京都江戸川区の進学高校である小松川高校に通っていた太田芳江さんが何者かによって強姦され殺害されたのです。
犯人は、なんと犯行後に遺体から遺品を盗り、その遺品を遺族に送りつけて遺族の悲しみを煽ることで楽しみ、また警察へ対しては自分の犯行を楽しそうに語る電話をかけたのです。
この様子は、全国的にラジオで報道され、犯人の残虐性に多くの日本人が恐怖しました。
後に逮捕された犯人である在日朝鮮人の李珍宇は、逮捕後に別の女性も強姦して殺した事を自供しています。
通行中であった田中せつ子さん(当時23才)を突き飛ばして怪我をさせ、動けなくして強姦し、その後殺害していたのです。
犯人の李珍宇は死刑判決を受けました。
ここまでは、まともな国ならあたりまえのことです。
ところが事件は、裁判後も後をひきました。
犯人の母親が、「息子の行いに対して死刑は重すぎる」と主張し、控訴・上告をしたのです。
もちろん、判決は棄却です。
けれど在日朝鮮人らは「差別されているのだから強姦や殺人を行っても仕方ないのだ」と公然と主張し、在日朝鮮人による数万人の減刑嘆願署名を集め、また裁判にかかる莫大な費用も在日朝鮮人団体によって賄われていたのです。
いまでも朝鮮総連関係者や、大韓民国民団は、「我々は植民地統治されていたのだから、日本人を拉致したり、日本人を殺害したとしても、それは差別に対する当然の仕打ちである」という論を張っています。
このことで注意すべき点は「一人の異常者が朝鮮人の中に存在した」という事ではなく、朝鮮人が総体として一人の異常者を擁護し、同調している、という事実です。
この事実をどう受け止めるかは各々によって違いうと思いますが、すくなくとも我々日本人からすると、異常と断じざるを得ません。
昭和43(1968)年には、同じく在日朝鮮人の金嬉老がライフル銃で日本人男性二人を射殺した上で旅館に立て篭もり、女性一人と九才以下の児童三人を含む九人を人質にとるという事件がありました。
この時もはやり同様に、金達寿らによって「差別されていたのだから、女性と子供を人質として虐待しても仕方がない。差別されていたのだから男性二人を殺害しても仕方ない」といった主張がされました。
このときは韓国では金嬉老は「日本人を殺した英雄」としてメディアは一斉に賞賛をしています。
このような惨劇の延長線上にあるのが、極めつけの拉致事件です。
やはり、過去と同様多くの在日朝鮮人は「植民地統治の問題があるのに、拉致ばかり言うのはおかしい」といった主張を繰り広げています。
まだ拉致被害者が帰国できていないのにもかかわらず、国際空間では「拉致問題は解決済み」という発言をしています。
朝鮮人に対して差別をせず、深い理解を示すことはとても大切なことです。
しかし、理解と盲目になる事は別です。
また、差別することと、不逞な犯罪集団に対してあたりまえの警戒をすることとは、違います。
彼らがどのような歴史をもっており、過去から現在に至るまでどのような姿勢をとり続けるのかという事を我々は認識しなければなりません。
戦争が終わったとき、日本国内に約60万人いた在日台湾人へ対しては何も負の感情が無いのに、朝鮮人へ対してだけは何故存在するのか。
我々はそのことを深く省みる必要性があります。
数々の重大犯罪を積み重ねてきて、都合が悪くなると「差別された」と開き直り、普通の人間ならあたりまえにする「警戒」を「差別」だとすり替えて、様々な反社会的行動を正当化するためのレトリックに利用する。
こうしたことは、けっして許されることではありません。
私は、朝鮮人(韓国人、北朝鮮人を含む)全部が、異常者であるなどと決めつけるつもりは毛頭ありません。
ただ、世界に通じる一般常識として、犯罪者を賞賛し、褒め、称え、なおかつその罪を罪と思わず、教科書にまで載せて「誇り」にしているという歪んだ思考を、国是としたり、助けて貰ったのに、被害を受けたと強弁して事実をねじ曲げ、それをネタに他の人々に迷惑をかけるというのは、許すことができないと申し上げています。
最後にひとつ、朝鮮・韓国人による日本人虐殺事件-『和夫一家殺害事件』を紹介します。ものすごく残酷なので、以下は、女性の方は読まないでください。
引用:http://bbs.jpcanada.com/log/6/2950.html
~~~~~~~~~
日帝時代、慶尚道地域の日本人地主であった『和夫一家』は、日本政府の朝鮮移住政策によって、朝鮮生活を始める事になった。
普段から人情に厚かった和夫さんは、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。
貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与えてあげ、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。
和夫さんはとても人間への暖かい愛情を持った人であった。
また、和夫さんの家族は、周囲に孤児がいると連れて帰って面倒を見ていたが、一人、二人と増えていき、1945年にはいつの間にか施設孤児院の規模にまで増えてしまっていた。
しかも、和夫夫婦はこの孤児達を家族のように愛し、自ら喜んでその子達の父母と名乗った。
和夫一家は日頃から朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。
だが、天皇の降伏宣言後、自ら育てた朝鮮人孤児達によって、むごたらしく虐殺された。
<和夫の孤児キム・ソンス君の報告>
和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。
和夫:(優しい目で)何故こんなことを、お前たち。
朝鮮人A:チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!
和夫:(わざと怒り声で)「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ?
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい? お前たちが望むんなら、帰ってやろう
朝鮮人A:意味深長な目配せをBに送る。(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)
朝鮮人B:死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!
次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。
和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。
それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた”。
彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。
朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。
普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。
当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。
その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。
結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
「ひみこ」は小学六年生だった。
和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった』
~~~~~~~~~
どこかの学校で、教師による生徒へのわいせつ事件が起これば、多くの子女を持つ親御さんは、その学校へ進学させることに躊躇します。
あたりまえのことです。
同様に、小学校の正門に、生徒の生首を置かれたら、日本中の小中学校が、放課後の校門を閉ざし、不審者の排除をします。
住んでいるマンションに泥棒が入れば、そのマンションに住む多くのご家族が、不審者に対する警戒をします。
あたりまえのことです。
たったひとりの犯罪者が出ただけで、多くの人々は、自分や自分の子供たちが同種の事件に遭わないように「警戒」するのです。
それが世界の常識です。
そういうあたりまえの「警戒」を、「差別」だと言葉を置き換えて自己を正当化する。
さらに出自の同じ人々が総体として一人の異常者を擁護し、同調する。
これこそが異常です。
太平洋側の多くの都市は、駅前の一等地にパチンコ店があります。
戦時中、艦砲射撃や、空襲で焼け野原になったその一等地に、半島から逃げてきた朝鮮人たちが、縄張りを張り、その土地を占拠した。
その土地の本来の所有者は、空襲ですでに死亡しています。
そしてその土地の所有者のご家族が、土地に戻ると、すでに半島人がその土地を占拠していた。
交渉し、立ち退きを要求すると火病を起こして抵抗しました。
それだけでなく、仲間を集めて、遺族に悲惨なまでの暴力をふるいました。
そうやって占拠した土地が、いま、駅前一等地のパチンコ店です。
そうした戦前戦後の多くの事件を目の当たりにしてきた日本人が、彼らを「警戒」するのはあたりまえのことです。
上に示した和夫一家の事件は、たまたま和夫さんが、多くの半島孤児をひきとっていて、なかにまともな子供もいて、それを手記に残したから、いまでもその事実が伝えられています。
しかし、事件はこれだけではないのです。
和夫さんのご家族同様の被害に遭われた日本人ご家族は、数万世帯にのぼっています。
もちろん、満州や支那から日本に逃げ帰る途中で、日本人を助けてくれた良心的な朝鮮人もたくさんいます。
そうした人がいてくれたからこそ、多くの日本人が帰還することができたのです。
けれどその一方で、理由もなく復讐心に燃えて、日本人を憎み、日本人を貶めることに喜びと使命を感じている不逞朝鮮人もたくさんいる、という事実を、私達は忘れてはなりません。
私達日本人は、彼らのいう「差別」が、あたりまえの「警戒」に対する言葉のすり替えにすぎないことをきちんと認識し、許せないものは許せないと、凛とした態度で接するべきであると私は思います。
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