
写真の花は「アッツ桜」といいます。
ちょうど今頃の季節に咲く花です。
この花は、本当の名前はロードヒポキシスです。
「アッツ桜」という名は、日本でだけ、そう呼ばれています。
原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原です。
北の外れのベーリング海峡に浮かぶ、アッツ島ではありません。
なぜこの花が日本で「アッツ桜」と呼ばれているのか。
時は70年ほどさかのぼります。
昭和18(1943)年5月のことです。
カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々があります。
北米に近い方の島々がラット諸島、アジアに近い方の島々がニア諸島です。
ニア諸島の西のはずれ、つまりアジアに近い方にある大きな島がキスカ島で、それよりもうすこし西側、(アジア寄り)にある小さな島が、アッツ島です。
とっても寒い、北のはずれの島です。
いまから70年ほど前、そのアッツ島を守っていた日本軍守備隊2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いの末、全員お亡くなりになりました。
その報に接したとき、ある園芸店の店主が、アッツ島守備隊の方々の死を悼んで、この花に「アッツ桜」と名付けました。
アッツ桜は、桜科の植物ではありません。
ユリ科の球根植物です。
ひとつの球根から伸びた茎の先に、一輪の美しい花を咲かせます。
けれどきっと、アッツ桜と命名した園芸店主は、国を想い北の果てで散って行かれた島の守備隊の面々に、この花を捧げたかったのでしょう。
花は、瞬く間に「アッツ桜」の名で日本中に広がり、いまも、この花は、花屋さんの店頭で、「アッツ桜」として売られ、多くの人々に愛されています。
アッツの戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いでした。
当時のアッツ島は、国際連盟の決議で、日本が統治をしている日本の領土です。
日本は、この島に昭和17(1942)年9月18日に進出しました。
人数は、2,650名です。
ここに飛行場を建設するためでした。
けれどアッツは、米軍にとっても、要衝の島です。
米軍はたびたび建設途中のアッツ島に空襲をしてきました。
そして昭和18年には、大艦隊を率いて、この島を攻めてきたのです。
アッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)大佐(没後二階級特進で中将)でした。
彼は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった、昭和18(1943)年4月18日、アッツ島にご自身、赴任されています。
山崎中将は、山梨県都留市のご出身の方です。
家は代々僧侶の家柄だったそうです。
子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を25期生として卒業なさいました。
陸軍に任官後は、シベリアに出兵され、斉南事件の際にも出動しています。
※斉南事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-597.html
潜水艦でアッツに到着した山崎大佐は、守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じく、敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。

彼は、もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊と大部隊編成でくるだろうと予測していたのです。
その米軍を、一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にないと、読んだのです。
はたして、守備隊の前に、5月5日、米軍はあらわれました。
まさに大艦隊です。
米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました。
上陸部隊だけで、11,000人という大部隊です。
守る日本軍は、わずか2,650名しかいません。
しかもこのうち、純粋な地上戦戦闘要員は、半数もいません。
米軍は、洋上で天候回復を待って、12日から、島への上陸作戦を行いました。
小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行い、大部隊を上陸させてきました。
山崎大佐率いる守備隊は、見事なまでの大奮戦をしました。
島の奥深くまで侵入して来た米軍第17連隊を壊滅させ、また一個大隊押し寄せた米軍と真っ向から対峙し、これを海岸線にまで後退させました。
しかし衆寡敵せず、約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。
この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。
辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。
18日間の短い日記です。
5月29日の最後の日記を引用します。
~~~~~~~~~
夜20時、地区隊本部前に集合あり。
野戰病院も参加す。
最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。
僅かに33年の生命にして、私はまさに死せんとす。
但し何等の遺憾なし。
天皇陛下萬歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。
18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。
私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。
どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。
美佐江様 やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。
睦子様 貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。
政様 お大事に。
こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、さようなら。
~~~~~~~~~
辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎中将と、最後までご一緒においでだったものと思います。

文中にあるように、29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎大佐は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させました。
集まった兵は、この時点でわずか150名です。
山崎大佐は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりの兵のねぎらいました。
次に、通信兵に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」と本部への打電をお命じになりました。
そして山崎大佐は、「いざ!」と声をかけると、右手に抜き放った軍刀を、左手に日の丸を持ちました。
このとき、山崎大佐は、みんなにニコッと笑顔を向けました。
そして攻撃部隊の先頭に立つと、生き残った全員を引き連れ、先頭に立って山の斜面を駆け上って行かれました。
生き残った全員があとに続きました。
死ぬ、とわかって、最後の特攻攻撃を行ったのです。
この突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
米軍は大混乱に陥り、日本軍は、次々と米軍陣地を突破したのです。
米軍の死体がそこらじゅうに転がった。
それでも日本軍の進撃は止まりません。
そしてついに、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄します。
あと一歩で、上陸部隊の本陣を抜くところまで、迫ったのです。
しかし、ここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。
味方の兵が、バタバタと倒れました。
そして我が軍は、全員、散華されました。
戦いが終わった後、累々と横たわる我が軍の遺体の一番先頭に、山崎中将のご遺体がありました。
これは米軍が確認した事実です。
山崎中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。
先頭は、いちばん弾を受ける位置です。
おそらく、山崎大佐は、途中で何発も銃弾を受け、倒れられたことでしょう。
けれど彼は、撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がり、そしてついに、味方の兵が全員玉砕したとき、山崎中将は、攻撃隊の先頭にまで這い出て、そこでこときれたのです。
享年51歳でした。
山崎大佐以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史において、次のように書かれています。
~~~~~~~~~
突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。
~~~~~~~~~
そしてさらに米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えています。

このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。
~~~~~~~~
アッツ島部隊は非常によく戦いました。
アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。
それでも、やはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに、次のような電報が届きました。
「こういうふうに戦闘をやりましたが、衆寡敵せず、明日払暁を期して、全軍総攻撃をいたします。アッツ島守備の任務を果たしえなかったことをお詫びをいたします。武官将兵の遺族に対しては、、特別のご配慮をお願いします」
その悲痛な電報は、「この電報発電と共に、一切の無電機を破壊をいたします」と、結ばれていました。
当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。
この種の電報の配布第一号は天皇です。
第二号が参謀総長、
第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。
そして、翌日九時に、参謀総長・杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって、参謀総長のお供をして、参内いたしました。
私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。
それで杉山元帥は、アッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、「瀬島、終わったから帰ろう」と、こうおっしゃる。
参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。
この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
「今日の御下問のお言葉は、どういうお言葉がありましたか。どうお答えになりましたか。」
ということを聞いて、それをメモして、役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。
車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。
それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」と、重ねてお伺いしました。
そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、
「瀬島、役所に帰ったら、すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」と、いきなりそう言われた。
それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、
「閣下、電報を打ちましても、残念ながらもう通じません」と、お答えした。
そうしたら、元帥は、「たしかに、その通りだ」と、うなずかれ、
「しかし、陛下は、自分に対し『アッツ島部隊は、最後までよく戦った。そういう電報を、杉山、打て』とおっしゃった。だから、瀬島、電報を打て」と、言われた。
その瞬間、ほんとに涙があふれて……。
母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。
それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、
「本日参内して奏上いたしたところ、天皇陛下におかせられては、アッツ島部隊は最後までよく戦ったとのご沙汰があった。右謹んで伝達する」
という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、電波を送りました。
~~~~~~~~
アッツ島で、立派に戦い、勇敢に散って行かれた日本人がいて、その死を悼んだ園芸店主がいて、この花に「アッツ桜」と名前をつけた園芸店主がいて、その名前に、何かをちゃんと感じてくれる人たちがいて、そして70年経った今でも、この花が、アッツ桜と呼ばれている。
戦後、日本政府は、アッツ島をはじめ、外地で国のために戦い、散って行かれた幾多の亡骸を、いまだ放置したままにしています。
けれど、民間にいる日本人は、心のどこかでちゃんとわかっていて、いまでもこうして、この花をアッツ桜と呼んでいる。
私は、アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。
そして同時に、この赤い小さな花に、彼らへの追悼の心をこめて「アッツ桜」と命名し、その名前を今に伝えている日本人という民族を、とっても誇りに思うのす。
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