
今日はすこし私の思いです。あくまで「ひとりごと」です。
何をいいたいのかというと「歴史を学ぶ」ということです。
戦後日本の教育は、常に歴史は評価するものと教えて来ました。
特に近代史においては、戦争=いけないこと、悲惨な歴史などと、いきなり評価からはじまる。
戦争論が善悪論にすり替わっています。
なるほど確かに戦争は多くの人の命を奪います。それはとても悲しいことです。
けれど平和な時代に生きる我々時代背景と、戦争があった当時の時代背景では、その環境がまるで違います。
誰だって死にたくはありません。
けれど、戦わざるをえない。
戦わなければ、自分だけでなく身内や家族までもが筆舌に尽くし難い悲惨な眼に遭ってしまう。
そういう厳しい環境下が目前に迫っていた時代と、とりあえずは平和を享受できている時代では、その背景となるものがまるで違うのです。
そのことは、終戦直後、国家のゼロ時、すなわち国家が崩壊し、国家の庇護を失った私たちと同じ血をもつ日本人が、大陸でどれだけ酷い眼に遭わされたかをみればよくわかります。
もしわからないなら、拙ブログの「通化事件(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1325.htmlをご一読されることをお勧めします。
国を失うことが、どれだけ大きな厄災を人々にもたらすのか。
簡単に日本なんてなくなればいいんだとか、日本から独立しようとか、そういう重大事を、得意げに語る人たちには、是非、知っていただきたい事実です。
九条などというのがいかに幻影にすぎないか、事実の前には屁理屈など消し飛んでしまう。
白昼堂々、往来の真ん中で幼子を連れた若い女性が複数の外国人によって強姦される。
止めにはいった警察官が逆に銃殺される。
日本人だというだけで、不当に逮捕投獄され、狭い部屋に何十人も押し込まれた挙げ句、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間も立ったままにされ、出るときは全身の骨を一本一本へし折られる。
そのひとつひとつが、すべて現実なのです。
まるでマンガの北斗の拳に出て来る荒廃した社会さながらの地獄絵図ですが、そこにケンシロウはいません。
日本人には、名前があります。
名前があるということは、私たちは日本という国家から「人」として認識され、庇護されているということです。
国家を失うということは、その庇護が亡くなるということです。
つまり、名前さえなくなるのです。
人間でありながら、そこらの野良猫と同じになる。
殺されても、暴行されても、誰も助けてなどくれなくなる。
嘘のような話だけれど、そういうことが現実の世の中にあるのです。
だからこそ、世界中どこでも民族毎に独立し、民族共同体としての国家を営んできました。
国家を営むことは、私たちひとりひとりの生命と財産と安全を守ることに繋がるからです。
では、なぜそれが「民族毎」なのか。
答えは、民族毎に価値観を同じくするからです。
ではなぜ民族が「同じ価値観を共有」するかといえば、それはその民族が民族としての歴史を持つからです。
つまり、民族が共有する価値観は、その民族の歴史によって育まれたものである、ということです。
たとえばある国では、子供達に次のような寓話を教えています。
我が家で子供が生まれた。
人数が増えた分、生活が苦しくなった。
そこで隣の家の牛を奪ってきて飼うことにした。
けれどそのとき、その隣の家の子供がかわいそうだったので、殺さずに生かしておいた。
そのため、その子が成長したとき、一家は皆殺しにあった。
この民話は、生きるためには、奪うこと、殺すことは正義と教えています。
そして奪うときは皆殺しにせよと、教えています。
モンゴルは、それだけ厳しい環境にあった民族であり、その厳しい環境の中で生き残る術をそうした民話に託し、その結果その民族は、世界を征服するという壮大な事業にかつて成功した歴史を持ちます。
アラジンは48人の盗賊から財宝を奪い、贅沢な暮らしと絶世の美女を手に入れました。
アラジンは民族的ヒーローです。
けれどアラジンは盗賊です。
奪わなければ生きて行けない、そういう歴史を持った民族であったわけです。
ハリウッド映画では、失われた財宝をめぐって、ヒーローが大活躍し、最期にその財宝を奪います。
それは他国の遺産であり、他国の財産です。
他国の財産を奪うことは、彼らにとって英雄的行動です。
米国はそういう歴史を経て形成された国です。
お隣の韓国北朝鮮では、Korean建国の伝説として檀君神話(たんくんしんわ)とよばれるものがあります。
万物の支配者の子である桓雄(ファンウン)がChinaと満州との国境にある白頭山に降り立ちます。
そこには虎と熊の夫婦が住んでいた。
そこで桓雄(ファンウン)は、夫の虎を追い払い、妻である熊を祭壇の上で強姦します。
合意の上での性交ではありません。強姦です。
その結果産まれたのが檀君で、祭壇の上で授かった子だから檀君と呼ばれます。
建国の始祖が、強姦によって産まれた子なのです。
ですから半島人にとって、過去何百年もの間、女性に人権はありません。
日本が支配するまで、国王の妻でさえ、名前を与えられなかったのです。
韓流ドラマでは、宮廷女官で女医のチャングチムが活躍したドラマがヒットしたそうですが、当時の朝鮮では、宮廷の女官というのは、全員が国王の妻と仮定されています。
現代韓国風にいえば、宮廷女官とは、強制連行された王宮付き慰安婦です。
女医という言葉は、日本では優秀な女性医師を意味しますが、李氏朝鮮の時代のの女医は、いまの日本でいえば宮廷付きソープ嬢を意味します。
いまでも半島では強姦が、まるで日常の出来事となっていますが、まさにそれが彼の国の歴史と伝統に基づく韓流文化です。
これはもう、そういう国柄、そういう民族的価値観としか言いようがないことです。
我々日本人とは違うのです。
では日本はどうかというと、日本神話に登場する最初の男神、女神はイザナキ、イザナミです。
二人は天地をつなぐ天の御柱の前で出会い、男性の方から「我、成り成りて」と声をかける。
「成り成りて」というのは、心も体も知性も完全に成長したという意味です。
従って、子のうちはしっかりと学問や体育に励み、完全に成長してはじめて男女が結合して子を産み育てるとしています。
男性も、女性も、互いに完全に成長してからと言っているのです。
ですから、男性も女性も、性差による役割分担こそあれ、人としては完全に同等です。
だからこそ、古来日本では、男女ともに名を持ち、結婚すれば女性は「かみさん」で神です。
そして男は男らしく、弱きを扶け、強きをくじき、世のため人のために生きよと教えられました。
女性は、やさしく愛らしく、立派に内助の功に励めと教えられた。
騙す者と騙される者がいれば、騙す方が悪いというのも、日本人の価値観です。
日本人は、争いよりも和を求めます。
ですから常に「話せばわかる」と考えます。
施政者も民衆も、根本には仁政を求めます。
日本人は、約束したら、ペナルティの有無にかかわらず、守らなければならないと考えます。
時間を正確に守ります。
喧嘩して上下関係をはっきりさせることより、たがいに仲良くわかりあうことを大切にします。
何も言われなくても、相手に尽くそうとサービスに勤めます。
駅のホームでは、電車が停まるまできちんとホームで並んで待ちます。
人にやさしくすれば、きっといいことがあると信じています。
真面目にコツコツと仕事をすることが、幸せなことだと思います。
国債を買ったら、ちゃんと国は利息を払ってくれると信じています。
それらはみんな、世界の60億分の1億の民にだけ通用する日本の常識であり、日本人の日本人的価値観です。
私たちは、それらをまるで空気のように「あたりまえのこと、普通のこと」して生活しています。
なぜならそれが、日本という国が長い歴史の中で育んだ、日本の民族的価値観だからです。
保守思想と呼ばれるものがあります。
日本でいま、保守派を自認する人々は、おそらく誰もが「日本国憲法」なる日本の最高法規に疑問を持っていることと思います。
憲法9条など、その最たるもので、自分たちの身を自分たちで守ることを否定する法など、古今東西、おそらくまったくあり得ない。
つまり、これは駄法です。
そう考えるということは保守を自認する人たちは、成文化された憲法よりももっと前に、もっともっと大切な法(これを仮に「慣習法」と呼びます」があると信じているということです。
つまり、慣習法>成文憲法 の関係です。
日の丸の旗が、法律で日本の国旗と定められたのは、平成にはいってからのことですが、明治、大正、昭和と、誰もが日の丸は日本の国旗と信じて疑いませんでした。
成文化された法がなくても、日の丸は日本の国旗だったのです。
つまり、成文法よりも前に、慣習法としての不文法がちゃんとあった、ということです。
ではその慣習法とは何かといえば、それはまさに、日本人の日本人による日本人のための日本人が共有する価値観です。
そしてその価値観は、我が国の長い歴史と伝統と文化によって育まれたものです。
もっといえば、私たち日本人が共有する価値観とは「日本人が日本の歴史と伝統と文化によって築き上げた、日本人にとって成文法よりも深い意義と価値を持つ、不文律の規範」ということができます。
ですから、私たちが私たちの国の歴史を学ぶということは、私たちの社会が共有する価値観を学ぶということになります。
中共は、沖縄を琉球共和国という名で日本から独立させようと企んでいると言われています。
その琉球共和国の憲章を見ると、「歴史教育は重要だ」と書いてあります。
おおかた反日排日を刷り込むデタラメな歴史教育をしようと目論んでいるのでしょうが、このことは実に面白い事実を私たちに見せつけてくれています。
中共という国は、成立したのが昭和24(1949)年です。
まだ、設立から63年の歴史しかない。
日本は、日本国が成立したのが紀元前660年で、成立から2672年の世界最古の歴史を持った国です。
日本から見たら、中共などという国は、まるで赤子同然の国家です。
けれどその中共が、もっとも大事にしているのが、実は「歴史」である、ということです。
なぜかといえば、歴史によって、その国とその国に住む国民の共有する価値観が形成されるからです。
彼らはそれを良く分かっているから、間違っていようがデタラメであろうが、とにかくそれを「正しい歴史認識だ」といって、国民を欺き、騙し、デタラメを刷り込もうとしているわけです。
その点、日本人は実はとっても幸せだと思います。
謙虚に、虚心坦懐に、自国の歴史を素直に学べば、そこに誇りあふれる素晴らしい歴史が、まるで湧き出る泉のように次から次へと蘇ってきます。
ねずブロでは、これまでさまざまな日本の歴史物語を、ご紹介してきました。
ご紹介した物語は、大小合わせて約1300余話になります。
どちらかというと、世の中に広く知られた歴史物語ではなく、あまり知られていない歴史を書いて来ています。
けれど、汲めども尽きぬ井戸の水とはこのことで、まだまだ学びたい歴史挿話は、日本の歴史の中に数限りない泉となって広がっています。
日本は、それだけ古くて長い歴史を持った国です。
そして歴史の物語のひとつひとつが、日本人としての明確な価値観を具現化して生き抜いた歴史の証人となっています。
私たちの国、日本は、それだけ深みのある歴史を持った国なのです。
「歴史を失った民族は滅びる」といいます。
なぜ滅びるのか。
答えは簡単です。
歴史を失うということは成文法以前に民族が共有すべき、民族的価値観を失うということだからです。
民族的価値観を失うということは、民族としての紐帯を失うということなのです。
紐帯を失った民族は、バラバラです。
となりにいる人が、自分とはまったく別な価値観を持っている。
その価値観は、となりにいる男をぶん殴って財布を奪うことは自分が贅沢ができるからいいことだ、というものなのかもしれない、なんて思うような時代になったら、最早安心して暮らすことなどできません。
駅のホームで後ろに立っている人が殺人嗜好の持ち主かもしれないなんて思ったら、こわくて駅のホームに立てなくなる。
そうなったら、安心して駅のホームに立つことなどできません。
民族が紐帯を失い、誰もがバラバラになってしまうということ、つまり日本が歴史を失い、個人主義が蔓延すれば、日本は民族としての結束を失い、民族が崩壊し、国家が崩壊するのです。
そして国家を失った民族が、どのような現実に遭遇することになるか。
そこをしっかりと再認識したいのです。
いまの日本は、まさにそういう社会へと一直線に突き進んでいるように思えます。
そんなことはないよ、成文法でそういうことが起こらないように規制しているではないか、と考える人がいるのかもしれません。
けれど、そんなことは戯れ言です。嘘です。
成文化された規則やきまりというものは、世の中のマニュアルも含めて、基本、世の中の規範を犯さないきちんとしたエリートが作ります。
けれど世の中は、かならずしも、そういう立派な人たちばかりではないのです。
立派なエリートが考えもつかないような、デタラメが起こるのが世の中なのです。
にもかかわらず、そういう事態が起こる都度、戦後の日本は「規制が足りない、規制を強化すべき」と慌てふためいてきました。
気がつけば、世の中、成文法だらけです。
子供達まで、何か悪さをして見つかると、「やっちゃいけないって、どこに書いてあるんだよ」などとひらきなおります。
いまの日本には、そうやって出来上がった成文法(法律、政令、省令、通達、規則、規程、マニュアルなど)が、まさに馬に食べさせるほど沢山あります。
おそらくは、その全てを読破した人など、この世に誰もいません。
誰もいないのに、それでもなお、新しい成文法が、次々と誕生しています。
それで世の中が良くなったかといえば、ちっとも良くなっていない。
なぜ良くならないのか。
これも答えは簡単です。
大切なことが抜け落ちているからです。
成文法の前に、人の世にはもっと大切な価値観の共有化が必要だからです。
明治のはじめに来日して紀行文を書いたイザベラバードは、次のような一文を残しました。
「警察の話では、港に2万2千人も他所から来ているという。
しかも祭りに浮かれている3万2千の人々に対し、25人の警官で充分であった。
私はそこを午後3時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。
私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。」
この当時、祭りの際に酒を飲んではいけないとか、乱暴な態度や失礼な振る舞いをしてはならないとかいう成文法があったわけではない。
けれど当時の日本人は、成文法なんかなくたって、ちゃんと社会規範を持っていたのです。
その規範が、ではどこからきたのかといえば、日本民族が共有化する価値観からです。
そしてその価値観は、日本という国の持つ、縦糸と横糸、すなわち、過去現在未来という縦の時間軸と、地域共同体、家族共同体としての水平方向の広がり(横糸)からくる集団的意思によって形成されています。
そしてその集団的意思(価値観)は、日本民族としての歴史によって育まれたものです。
つまり、歴史を学ぶことは、民族が共有する価値観を学ぶことなのです。
共有する価値観を失うということは、すなわち「歴史を失うこと」です。
それがまさに、民族崩壊の第一歩なのです。
戦後サヨクは、日本人に歴史を批判するものと刷り込み、歴史を評価させ、その一方でデタラメな歴史観を日本人の子女に刷り込んできました。
目的は簡単です。
日本を崩壊させるためです。
逆にいえば、私たち日本人が、本気で日本を取り戻そうと思うなら、私たちは私たちの本当の歴史を取り戻し、この世に蘇らせることです。
そしてもうひとつ、大切なファクターがあります。
人は頭で「理解」しただけでは動かない、ということです。
人は「感動」したときに、動きます。
これまでと違った行動が生まれます。
いままで「日本なんて、政治なんて」と言っていた人が、ある日突然、愛国心に目覚める。
それは、その人がなにかを感じたときに、目覚める。動くということです。
人は「感じて、動く」のです。
「理解して動く」のではありません。
なぜなら、理解して動く=理動という言葉はありません。
日本語だけじゃなく、世界中どこの国の言語にも「理動」という言葉はありません。
「感じて」「動く」のです。
ですから人を動かすのは、「感動」です。
つまり、歴史を取り戻し、歴史を動かすのは「感動だ」と、私は思います。
歴史を学ぶ、それは学究的に理屈でわかる、理解するということではなく、そこから何かを感じること、感じた感動を学ぶことなのではいかと思うのです。
おいしいラーメン屋さんがあるとします。
私たちには、そんなおいしいラーメンは作ることはできません。
レシピをいくら教わったところで、長年培われた麺職人さんの腕前にはかなわない。
けれど、あの店はおいしかったよ、と感じることはできます。
その感動を人に伝えることならできる。
そして感動は連鎖します。
だから、おいしいラーメン屋さんは、口コミでどんどんお客さんが増えて行く。
それと同じではないかと思うのです。
私たちは、日本の歴史に登場する偉人さん達のような立派な生き方はなかなかできません。
けれど、某という人は、すごい人なんだ、感動したよ、と感じ、伝えることはできる。
その蓄積と連鎖が、回りくどいようだけれど、日本を変える、日本を取り戻す大きな原動力となって行くものだと、私は信じています。
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