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上村松園の「静御前」(昭和十九年)
上村松園の「静御前」

以前にも一度、静御前(しずかごぜん)について書かせていただいたのですが、惜春の候ということで、すこし切り口を変えてもう一度御前のことを書いてみたいと思います。
以前書いた記事より、数段良くなっていると思います。
時は、文治二(1186)年4月8日です。


当時、鎌倉に幽閉されていた静御前は、この日頼朝の指示で舞を舞いました。
場所は鎌倉、桜が満開の鶴岡八幡宮です。
舞台の前には、正装した鎌倉の武士達が、場内を埋め尽くしていました。
全員が、頼朝の配下たちです。
静御前は、義経方です。つまり、敵です。
静御前は、鶴岡八幡宮を埋め尽くす満座の敵の武将たちの中に引き出された、たったひとりの女性だったわけです。
静御前は、大和の吉野山まで逮捕され、厳しい取り調べのあと、鎌倉へ護送されました。
牢に入れられ、毎日厳しい取り調べを受けました。
静御前は、前年の飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせる事ができた「神に届く舞」を舞う白拍子として、後白河法皇から「都一」のお墨付きをいただいている女性でもあります。
当時は、文化の中心地は京の都でしたから、「都一」は、当代随一、日本一の舞を舞う女性とされていたのです。
だから鎌倉で行われる鶴岡八幡宮の花見の席で「舞え」と命じられました。
御前にしてみれば、できる相談ではありません。
「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。
いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇をあれこれ言う事は出来ません。
けれど、義経の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です」
八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断りました。
静御前が、舞わないとと聞いた将軍の妻北条政子は、たいへん残念に思いました。
新興勢力である鎌倉幕府記念の鶴岡八幡宮での大花見会なのです。
「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」
政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるよう頼みます。
頼朝は、「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう指示しました。
単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するのとでは、意味が違います。
神への奉納となれば、これは神事だからです。
神に捧げる舞を持つ白拍子として静御前は、そう言われれば断ることはできません。
静御前は、着替えを済まし、舞台に出ます。
あたり一面を埋め尽くした鎌倉武将達の前です。
静御前は、一礼すると、扇子をとります。
そして、舞を舞いはじめる。
曲目は、「しんむしょう」という、謡曲です。
歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとる。
満員の境内の中に桜が舞います。
その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。
素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。
ただ、ものたりない。
何か心ここにあらず、です。
続けて静御前は「君が代」を舞います。
舞に、いまひとつ心がこもらない。
ちょっと脱線しますが義経記には、ここでたしかに静御前が「君が代」を舞ったという記載があります。
日教組に代表される戦後左翼は、ずっと「君が代」は軍国主義のための天皇礼賛、戦争礼賛の曲であると主張し続けているけれど、とんでもないいいがかりです。
大東亜戦争よりも800年以上前に、静御前がこうして君が代を舞っています。
君が代が我が国に歌として登場するのは、醍醐天皇が勅命で編纂した「古今和歌集」(延喜5(905年)が初出です。
この巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」で掲載されています。
もっといえば、君が代の「きみ」とは、漢字で書いたら「君」ですが、そもそも日本語は、一音一音に深い意味を込める言語で、「き」は男性、「み」は女性を表す言葉です。
ですからイザナ「キ」、イザナ「ミ」、おきな(翁)、おみな(嫗)だし、そもそも「おんな(女)」は、「おみな→おうな」が「おみなご」→女子となったものです。
つまり「きみがよ」の「きみ」とは、き(男)み(女)であり、貴方と私、君とボク、の意ととることもできます。
ですから、「君が代は千代に八千代に」は、「貴女と私の世は、未来永劫に」と読めるわけで、だからこそ君が代は江戸時代から明治初期にかけて、婚礼の際の祝い歌として歌い継がれてもきたのです。
さて、話がだいぶ脱線しました。
鶴岡八幡宮です。
場内から声が飛びました。
「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」
「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?それとも静御前がたいしたことないのか?」
会場が騒然となります。
敵の中にたったひとりいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭のたちのうなり声のようにさえ聞こえたかもしれない。
二曲を舞い終わった静御前は、床に手をつき、礼をしたまま舞台でかたまってしまいます。
そのまま、じっと動かない。
「なんだ、どうしたんだ」
会場のざわめきが大きくなります。
けれど静御前は動かない。
このとき御前は何を思っていたのでしょう。
遠く、離ればなれになった愛する夫の義経。
二度と逢えない義経。
自分は、もうすぐ殺されるかもしれない。
これが最後の舞となる。
逢いたい、逢いたい。
義経さまに、もういちど逢いたい。
舞台でピクリとも動かなくなった静御前のこのときの脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。
「義経記」ではこのくだりを、
「詮ずる所敵の前の舞ぞかし、思ふ事を歌はばやと思ひて」とあります。
どうせ敵の前じゃないか。
いっそのこと、思うことを歌ってやろう!
そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がります。
それまでざわついていた鎌倉武士たちが、何が始まるのだろうと、徐々に静まりかえって行きます。
そして、しわぶきひとつ聞こえなくなったとき、静御前が手にした扇子を、両手で前に差し、歌いはじめます。
 いつも私を、静、静、
 苧環(をだまき)の花のように美しい静
 そう呼んでくださった義経様
 幸せだったあのときに戻りたい
 吉野山で雪を踏み分け
 山に去って行かれた愛する義経様
 残されたあのときの義経様の足跡が、
 いまも愛しくてたまらない。
~~~~~~~
♪しづやしづ
 しづの苧環(をだまき)繰り返し
 むかしを今に なすよしもがな♪
 吉野山 嶺の白雪 ふみわけて
 入りにし人の 跡ぞ恋しき
~~~~~~~~
歌いながら、舞う。舞いながら歌う。
まさにその姿は、神です。
美しい。あまりにも美しい。
まさに おだまきの花が舞っているようです。

苧環 (をだまき)の花
4月から5月にかけて咲く花です。
苧環(おだまき)

この「しづやしづ」を、静御前が白拍子だったから賤(しず)である、などと書いている最近の学者さんの本があるけれど、とんでもない話です。
義経は、静御前を「苧環(おだまき)の花」に例えているのです。
映画やドラマなどでは、静御前はいろいろな女優さんが演じ、私たちはその映像を観ます。
けれど物語は千年前です。映像なんてない。
だから昔の人は、文字にできない部分を、背景や花でイメージさせます。
静御前は、苧環(おだまき)の花に例えられます。
背景は、満開の桜の花です。
薄桃色一色に染まった背景の中で、おだまきの青い花が舞う。
このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。
「賤」なんて、とんでもない。
さて、鶴岡八幡宮を埋め尽くした鎌倉御家人たちの前で、静御前はたったひとりの戦いを、この舞で挑みました。
その勇気と愛と壮絶な美しさは、千年経ったいまでも私たちの胸に深い感動を呼び起こします。
歌は、あまりにも激しい慕情です。
舞は、ゆっくりと、まるで風にそよぐ柔らかな春の花のようです。
場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、ただ呆然とみとれた。
声もでなかった。
あまりの美しさ、神々しさに、静御前が舞い終わったあとに、拍手さえも忘れてしまった。
拍手をすることも忘れてしまうほど、武者たちは御前の神々しさに打たれてしまっていたのです。
御前が舞を舞い終わります。
扇子を閉じ、舞台の真ん中に、座り、頭を垂れます。
およそプロの芸能を行う人というのは、瞬時にして視聴者の心をぎゅっと掴んでしまう凄味を持っています。
中でも神に通じる当代随一と呼ばれた静御前です。
しかもその御前が、愛する人のために舞ったのです。
その舞の凄味はいかばかりだったでしょう。
想像するだけで、体が震えるほどの凄味を感じます。
しかも、舞った場所は敵の武将達のド真ん中。
その中で、女一人でたったひとりの戦いを挑んだのです。
すごいです。
あまりにもすごい。
会場は、まるで一本の糸がピンと張ったように静まり返った緊張につつまれる。
その静寂を破って、最初に声をあげたのは、将軍の頼朝でした。
「ここは鶴岡八幡である。その神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきである。にも関わらず、謀反人である義経に恋する歌を歌うとは、その方、不届き至極である!」
日ごろは冷静な頼朝が、めずらしく怒りを爆発させました。
将軍が怒りをあらわにしたのです。
そのままでは、静御前は、即刻死罪となる。
これを制したのが、頼朝の妻の北条政子です。
「将軍様、私には彼女の気持ちがよくわかります。
私も同じ立場であれば、静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
「ならば」と頼朝は言います。
「敵将の子を生かしておけば、のちに自分の命取りになる。そのことは、自分がいちばんよく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」と命じます。
実は、このとき静御前は妊娠6ヶ月だったのです。
お腹の子は、もちろん愛する義経の子です。
母親となる身にとって、産まれて来る子を殺されることは、自分が殺されるより辛い。
北条政子は言います。
「では、産まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」
おなじ女として、政子のせめてもの心遣いです。
頼朝は、これには、「ならばそのようにせよ」と言うしかありませんでした。
それから4ヶ月半経っ7月29日、静御前は、男子を出産しました。
元気な男の子でした。
その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやってきます。
お腹を痛めた、愛する人の子です。
静御前は、子を衣にまとい抱き臥し、頑に子を引き渡すことを拒みます。
武者数名がかりで子を取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放さなかったのです。
数刻のやり取りの後、安達清常らが、あきらめていったん引きあげます。
静御前は、疲れて寝入ってしまう。
そりゃそうです。
初産を終えたばかりなのです。体力も限界です。
けれど御前が寝入ったすきに、母の磯野禅尼が赤子を取り上げ、使いに渡してしまいます。
子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を海に漬けて、殺してしまいます。
目覚めて、子がいないことに気がついた静御前の気持ちはいかばかりだったでしょう。
「どうせ殺すなら、私を殺してほしかった」
気も狂わんばかりとなった御前の悲しみが、まるで手に取るように伝わってきます。
産褥の期間を終えた静御前は、9月16日、鎌倉から放逐されることになりました。
このとき、御前を憐れんだ北条政子は、たくさんの重宝を御前に渡し、京へと旅出するよう言ったといいます。
その後の静御前については諸々の伝承があり、はっきりしたものはありません。
北海道乙部町で投身自殺したというもの。由比ヶ浜で入水したというもの。
義経を追って奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたって死んだというもの等々、列挙すればキリがないほど、たくさんの物語が存在します。
もうひとつ申し上げますと、「母の磯野禅尼が赤ちゃんを渡した」というところに、義経記のヒントがあると思います。
磯野禅尼は、静御前の母です。
孫が誕生して、嬉しくないはずがありません。
その孫を、果たして役人に渡すでしょうか。
ありえないことです。
ということは、実際には、赤ちゃんは、別な形で保護され、後日、鎌倉を離れてから静御前にちゃんと引き渡されたのであろうと思います。
そもそも赤子を殺すのに、海に浸けて殺したという描写自体があやしすぎます。
そういう手がかりから、形の上ではそのようにしておいて、実際にはちゃんと人の命を大切に扱った、昔の人の察する文化を、私たちも知ることができるのです。
ヒトリシズカ
ヒトリシズカ
静御前が吉野山で舞う姿をなぞらえて名づけられた花とされています。花言葉は、隠された美、愛にこたえて。

静御前には、たくさんの逸話が残されています。
有名なお話としては、鶴岡八幡宮の舞の物語の他に、「吉野山の別れ」があります。
義経と静御前出会いは、先に述べた「雨乞い神事」の舞のときのことでした。
後白河法皇のお側で神事を観た義経は、静御前のあまりの美しさに、その場で御前を妻に娶ることを願い出て、許されました。
以来、二人は、ずっと寝起きをともにします。
けれど京の都で雅な生活をする義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝に疎まれ、ついに京を追われてしまいます。
京を出た義経一行は、尼崎から船に乗って四国を目指すのですが、海上で暴風雨に遭い、船が難破してしまいます。
一行は散り散りになってしまう。
その嵐の中でも、決して手を離さなかった二人は、一夜開けて、芦屋の里に漂着する。
そしてそこから陸路で、大和へ、そして吉野を目指します。
このとき義経と一緒にいたのは、源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶、そして静御前、および数名の雑役夫です。
たくさんいた義経の一行は、わずか10名ばかりになってしまっていたのです。
吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。
そこからは、大峰山の山越え路です。
ところが大峰山は、女人禁制なのです。
神聖な山とされていたのです。
やむなく義経は、吉野山で、静御前に「都へ帰りなさい」と告げます。
ここからなら、都もさほど遠くない。
これから先は、酷く苦しい旅路ともなろう。
そのたは都の生まれ。
必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ。
それを聞いた静御前は、ここで「私は義経さまの子を身ごもっています」と打ちあけます。
そして、「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。
このときの静御前の服装は、鎧に身を包み、大薙刀を持った姿です。
御前は、薙刀の名手でもあったのです。
鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、静御前。泣かせる場面です。
義経は、泣いている静御前に、そっと、いつも自分が使っている鏡を差し出します。
「静よ、これを私だと思って使ってくおくれ。
そして私の前で、もういちど、静の舞をみせておくれ」
愛する人の前で、静御前は、最後の別れの舞を舞います。
眼に涙を浮かべ、いまにも崩れ落ちそうな心で、静御前は、美しく舞を舞います。
それを見ながら涙する義経。
名場面です。
このとき静御前が舞った歌の歌詞です。
♪見るとても 嬉しくもなし 増鏡
  恋しき人の 影を止めねば
鏡など見たって嬉しくありません。
なぜなら鏡には愛する貴方の姿を映してくれません
義経一行は、雪の吉野山を旅立ちます。
その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。
一行の姿が見えなくなった山道には、義経の足跡が、転々と、ずっと向こうの方まで続いています。
文治元(1186)年11月の山中のことでした。
この月の17日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の修行僧たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行います。
夜10時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけました。
そして執行坊に連れてきて尋問します。
荒ぶる僧兵達を前にして、静御前はしっかりと顔をあげ、
「私は九郎判官義経の妻です。私たちは、一緒にこの山に来ました。しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、義経様御一行はは、山伏の姿をして山を越えて行かれました。
そのとき、数多くの金銀類を私に与え、雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に、私を捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです」と述べます。
翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいます。
そして静御前は、鎌倉へと護送されます。
鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行方は、知りません。
知らないから答えようもありません。
やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女は妊娠5ヶ月の身重であることを知ります。
このため、やむを得ず出産の日まで、静御前は鎌倉にとどめ置くことになったのです。
そして4月8日、鎌倉幕府で将軍ご出席の花見の席で、静御前は舞を舞うことになったわけです。
けれど、愛する人を想う歌を歌い、舞を舞った御前は、頼朝の怒りを買い、子を殺されることになりました。
権力者の前で、それをすることがどんなに危険なことなのか、静御前も当然にわかったことであろうと思います。
けれど、並みいる鎌倉御家人たちの前で、彼らを釘付けにする舞を舞うことが、愛する義経の名誉を守ることとになる。
逆に、たいした舞などできないじゃないかとなれば、それだけ義経は軽い存在でしかなくなる。
彼女は、我が身が殺されることになることを覚悟の上で、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
この物語は、いまから千年も昔の物語です。
そして実話です。
愛する人を慕う静御前の心、戦う勇気、子を思う親としての気持ち。
敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せる北条政子。
義経の物語は、千年の時を越えて、いまも昔も日本人の心は変わらないものであることを教えてくれます。
いやあ、それにしても日本の女性は強いですね。
~~~~~~~~~~
<閑話休題>
 正直なところ、以前静か御前の記事をかいたときは、NHKの大河ドラマでの静御前の扱いに、少々腹を立てていて、その怒りの延長線上で記事を書いただけに、いまいち内容の薄いものになってしまっていました。
けれど、ボク的にはこの静御前の物語は、もう大好きなお話で、いつかもういちど書き直して再掲したいと思っていたものです。けど、また今日の記事を読み直すと、書き直したくなるんだろうなあ。
 それからもうひとつ。
NHKが大河ドラマの源義経で石原さとみ演じる静御前を秋の紅葉の下で踊らせているのですが、たぶんボクはこのことにいらだちを覚えたのだと思うのです。それは番組の構成上、放送が秋頃だったからという都合もあったためかもしれないけれど、やはり静御前の鶴岡八幡宮の舞は、満開の桜の下だと思うのですね。
なぜかというと、静御前は苧環(おだまき)の花の雰囲気を持つ女性です。澄み切った春の青空。桜舞う鶴岡八幡宮。そこに舞う青紫の一輪の花。ものすごく美しい世界です。そういう色彩性を花とともに語り継いだのが日本文学の特徴で、その文学性の深みを、NHKにはもっと大事にしてほしかったと思うのです。
 あと、冒頭の絵の上村松園の静御前、素晴らしいです。
上村松園は、明治生まれの女性日本画家で、この「静」は最晩年、お亡くなりになった年に書かれた作品なんです。
それが昭和19年。戦争末期で、空襲や艦砲射撃があり、電力食料が統制された厳しい社会情勢の中にあってさえ、このようにに美しい絵が、しかも女性の手によって描かれ書かれていたという事実。それってなんだかとっても深くて、感動的って思います。
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