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長岡半太郎
長岡半太郎

長崎の大村藩といえば、このブログでも幕末に活躍した渡邉清、その娘さんで障碍者教育に生涯を捧げた石井筆子のことを以前ご紹介しました。
そして今日ご紹介しようと思うのは、同じく大村藩士の長岡半太郎(ながおかはんたろう)です。
長岡半太郎は、世界ではじめて、土星型の原子模型を提唱した人で、ノーベル物理学者の湯川秀樹を育てた人としても有名です。


原子模型といえば、下の図のようなものは、ご覧になったことがある方が多いかと思います。

原子模型

図の真ん中の、青と赤のつぶつぶのところが原子核で、原子核の中には、陽子と中性子(赤と青のつぶつぶ)が詰まっています。
そしてその周りを、電子(図の黒い丸)が飛び回っているわけです。
図ではちっちゃいですが、実際には、たとえば赤と青のつぶつぶ(陽子と中性子)を直系1cmの大きさと仮定すると、原子核は、ちょうど野球場くらいの大きさになるのだそうです。
つまり、野球場に1円玉(の半分くらいの大きさ)が数枚、というのが原子核の姿です。
そしてその野球場を中心に飛び回る電子は、どのあたりを周回しているかというと、なんと月も火星もはるかに越えて、ちょうど土星と木星の間くらいのところを周回している。
なんだか気の遠くなるような話です。
カバンも机も鉄も、それを構成する物質は、分子の結合によって出来ています。
その分子は、原子の結合によってできている。
その原子は、まるで宇宙空間のような広大な空間を作っているというのだから、すごい。
長岡半太郎は、世界がまだ「物質というのは、分子からできていて、その分子はどうやら原子からできているらしい」という時代に、「原子は土星型をしており、原子核の周りを電子が回っているのだ」というモデルを発表した人です。
明治37(1904)年のことです。
ところがいまでは、一般常識にさえなっているこの理論は、当時の学会ではまるで注目されません。
それどころか長岡半太郎は上の人たちから、
「そんな研究は実証的でないから止めた方がいい」とまで言われて、研究を断念してしまっています。
おかげで10年後の大正2(1913)年には、デンマーク、コペンハーゲン大学のニールス・ボーアが、長岡と同様の原子模型を提唱し、だから上図のような原子模型は、いまでは「ボーアの原子模型」と呼ばれています。
長岡は、研究を途中で断念したことが余程くやしかったようです。
ボーアの原子模型の10年後(大正12(1923)年)、長岡半太郎は、教え子の仁科芳雄(にしなよしお)を、コペンハーゲン大学に送り込みました。
仁科は5年間、コペンハーゲン大で過ごし、同大学の自由な校風を日本に持ち帰ります。
そして、そこで学んだのが湯川秀樹で、長岡半太郎は湯川秀樹をノーベル賞候補に推薦し、10年の歳月をかけて、彼をノーベル賞受賞に導いています。
長岡半太郎は、東京帝国大学の教授で、後に初代大阪帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、初代文化勲章を受章している人なのだけれど、幼いころは学校の成績は悪かったと言われています。
生まれは慶応元(1865)年で、大村藩の藩校である五教館(いまの長崎県立大村高等学校)に入り、9歳のときに親の上京にあわせて東京の本郷にある湯島小学校に転校しています。
なんと半太郎は、この湯島小学校で落第しているのだそうです。
大学でも、せっかく東大理学部に入学したものの、果たして東洋人に科学研究能力があるのかと悩み、まるまる1年休学しています。
教えられたことをただ鵜呑みにするのではなく、自分の頭でものごとを深く考える性格だったのかもしれません。
長岡半太郎は、東大を卒業後、そのまま東大大学院に進学し、東大助教授、東大教授となりました。
専攻は物理学です。
けれどこの時代の物理学は、実証主義が全盛の時代です。
目に見えない原子や分子の存在を仮定して議論を進めることは異端であり、自然科学者の取るべき道ではないとされていたのです。
そんな中で半太郎は、悩みながらも「仮定がたとえ奇抜なものであっても、そこから導きだされる結論が実際の現象とよく合致する場合には、その仮定を正当なものとして認めるべきだ」と主張します。
そして、当時ヨーロッパで花開いたばかりの原子物理学の世界に踏み込み、冒頭の土星型原子モデルを考案したわけです。
いまでは原子モデルは、ボーアの原子模型が世界的に認められた最初のモデルだとされているけれど、長岡半太郎の土星型モデルとの違いは、長岡モデルの絵が、原子核と電子が比較的近い場所に書かれているのに対し、ボーアのそれはすこし離れて書いてあるという違いです。
長岡半太郎の土星型モデル
土星型モデル

ただ実際には、原子核とその周りを周回する電子との間には10の12乗メートル(1兆メートル)もの距離があるわけで、これは物理のご専門の方々には申し訳ないけれど、ほとんど目くそ鼻糞の世界にしか見えません。
ただはっきりとしていることは、物理学は実証主義でなければならない、というある種の思い込みが、長岡半太郎の画期的な研究を中途で止めさせ、日本における量子力学の発展を一時的にせよ阻害したという事実です。
ちなみに学会は異なりますが、戦後の日本の歴史学会や、考古学会にも、同様の誤謬が見受けられます。
たとえば戦後の歴史学会では、とにも角にも日本文化はChinaやKoreaから渡来したのだという決めつけから全てを量ろうとしているようです。
たとえば、
仁徳天皇御陵は、墓の発掘がされていなからあそこを仁徳天皇陵と呼ぶべきでない、地名をとって大仙陵と呼ぶべきだ、
聖徳太子は生きていた証拠がないから実在が疑わしい、名前も厩戸の皇子と呼ぶべきだ、
鎌倉幕府の成立は源頼朝が天皇から征夷大将軍の位を授かった1192年ではなく、壇ノ浦の戦いで源氏が平氏を破った1185年とすべきだ、
江戸社会は武家による民衆からの収奪社会であった、等々、過激な実証主義、否定主義でしか物事を見ようとせず、本来の学問のありようの姿を忘れています。
考古学会もまた然りで、日本では縄文時代の遺跡から、当時極めて高い文明が日本にあったことを示す様々な遺品が見つかっているにも関わらず、文明China渡来説、稲作渡来説から一歩も踏み出そうとしません。
けれど、長岡半太郎の原子モデルじゃないけれど、「仮定がたとえ奇抜なものであっても、そこから導きだされる結論が実際の現象とよく合致する場合には、その仮定を正当なものとして認めるべきだ」という彼の言葉は、あらゆる学問に共通のものではないかと思うのです。
学問はイデオロギーでも、まして政治でもありません。
日本の歴史学会や考古学学会は、もう少し謙虚に、知的、学究的になるべきではないかとボクは思います。
さて話が脱線してしまいましたが、最後に長岡半太郎の有名な言葉をご紹介したいと思います。
~~~~~~~
「何々になろう」とする者は多いが
「何々をしよう」とする者は少ない。
  長岡半太郎
~~~~~~~
この言葉、重く受け止めたいと思います。
<ご参考>
◆大村藩の新精隊 渡辺清
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1114.html
◆悲しみの山河を越えて 石井筆子
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1115.html
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