人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

アニメ/ライオンキング
ライオンキング

先日テレビで、ディズニー・アニメの「ライオン・キング」をやっていました。
たまたま久々に観たのですが、いやあ、実に面白かった。
映画そのものは、野生の王国で、王の子として生まれたライオンの子供が、成長し奪われた王国を取り戻す、という展開です。
ですが、これはもしかすると日本へのメッセージかもしれない、と思えたのです。


もともとこの映画は、平成6(1994)年に劇場公開され、当時、7億8300万ドルというアニメ史上過去最高の興行収入をあげた大ヒット映画ですが、公開当時、一部には「この映画は手塚治虫のアニメ”ジャングル大帝”のパクリだ」などという酷評もありました。
なるほど、王者ライオンの子供が主人公の冒険と成長の物語としては、手塚アニメが先にあったものなのだけれど、その手塚治虫は「ジャングル大帝」について、「この作品はディズニーアニメの”バンビ”に刺激を受けて書いた作品」と述べています。
つまり、パクリというなら、ジャングル大帝自体が、バンビのパクリ(笑)になるわけで、それをまたディズニーがパクったのどうのと言ったところで、なんの意味もありません。
互いに「否定」しあうばかりでは、何も生まれないし、得るものもないのです。
けれど、「バンビ」に感動し刺激を受けた手塚治虫が、その感動を「ジャングル大帝」に発展させ、それに刺激を受けたディズニー社が、さらに物語を発展させ、同時に手塚治虫へ、あるいは「バンビ」を発展させてくれた日本への感謝を込めて作った作品が、もしかすると「ライオンキング」ではないか、などと考えると、そこに、まったく別なものが見えて来ます。
ライオンキングのあらすじは、次のようなものです。
~~~~~~~
野生界の国に、立派な王であるライオンのムハサがいます。
ムハサは、自然との調和、道理と公正を実現する立派な王です。
そのムハサに子供が生まれる。
それが「シンバ」です。
けれど王の子として天狗になっている子のシンバは、とんでもない我儘息子です。
そんなある日、王がうらやましくて仕方のない悪玉ライオンのスカーが、ハイエナ達と組んで王のムハサを殺してしまいます。
王の死を、自分のせいだと思い込まされたシンバは、絶望の中で王国を捨てて逃げ出します。
そして、ミーアキャットとイボイノシシのコンビと出会い、「ハクナマタタ」とお題目を唱え自堕落な暮らしを続けます。
一方、王国は、スカーとハイエナたちの暴政と欲望によって、すっかり荒廃してしまいいます。
そんなある日、成長したシンバの前に、王国の女性ライオン、ナラが現れ、王国の惨状を知らされる。
過去と向き合うことにためらうシンバだったけれど、シンバはついに王国に戻り、卑劣なスカーを追い払って、王国に平和と安定をもたらす。
~~~~~~~
とまあ、こんな筋書きです。
映画がはじまって、まず気がつくのは、とにかく子供のシンバが、はじめのうち、たいへんな我儘息子の悪ガキとして描かれていることです。
その悪ガキが、立派に成長し王国を取り戻す。
実はこうした成長の物語というのは、ヒーローもののアメリカ映画には、たいへんめずらしいことです。
もともとアメリカン・コミック・ヒーローというのは産まれたときからヒーローで、あらゆる力を持ち、正義の名のもとに、悪を滅ぼし、全てを手に入れるという展開のものが多い。
スーパーマンしかり、バットマンしかりです。
ところがライオンキングではヒーローが、最初どうしようもない痴れ者として登場します。
これは昔のアメリカン・ヒーローものにはなかった展開です。
逆にむしろ、たいへん日本的な展開です。
日本では、ヒーローは、大国主のミコトにしても、スサノオのミコトにしても、物語の前段では、どちらかというと冴えない人物として登場します。
大国主は、兄者たちにイジメられるパシリ君だし、スサノオは母が恋しいと与えられた仕事もしないで泣きわめくだけの根性なしです。
ところがこうしたパシリ君や根性なしが、いろいろな経験を経て成長し、ついには大いなる国の主に、あるいは八岐大蛇を退治する。
日本的ヒーローに共通するのは、古来、成長の物語であるという点です。
その意味で、ライオンキングは物語の展開が非常に日本的です。
さらに主人公のシンバは、父が殺されると、その遺体さえほっておいて逃げてしまう。
これはまるで戦後の日本です。
戦後の日本は、外地に遺されたままになっている勇敢な戦士たちを、いまだに放置したままにしている。
王国を逃げ出したシンバは、ミーアキャットとイボイノシシと一緒になり、「ハクナマタタ」とマントラ(お題目)を唱えながら、自堕落な生活を送ります。
これもいまの日本です。
「ハクナマタタ」というのは、スワヒリ語で「くよくよするな」という意味だそうです。
けれどそれをあえて「くよくよするな」という「わかる」言葉で表現せずに、「わからない言葉」である「ハムナマタタ」と表現したところが実に面白いです。
なぜかというと、これまた現代日本の病巣だからです。
この「ハムナマタタ」を、「自由と平等」と読み替えてみるとわかります。
王者としての大切な責任を放棄し、「自由と平等」という「お題目」を唱えながら、ミーアキャットやイボイノシシと一緒になってお気楽な生活を送る。
何か似ています。
戦前までの日本は、世界に向けて「道理と公正」を高らかに謳いあげる国家でした。
まさに東洋の王者です。
そしてその王者である日本が理想としたのは、植民地という支配者と被支配者がいる世界ではなくて「世界の諸民族が、家族のように親しむ新しい世界」です。
そしてこれを様々な艱難辛苦を乗り越えて、実現しようとしたのが、私たちの父祖の時代の日本でした。
ところがいまの日本は、そうした戦前の日本にあった理想をすっかり忘れています。
忘れただけでなく放棄している。
そして単に個人の「自由と平等」という「お題目」をあげている。
誰もが「自分さえ良ければいい」「個人の自由があればいい」「カネがあればいい(ライオンキングの中では食い物があればいい)」と浮かれています。
「自由」は、よく「Liberty」の訳とされますが、これは誤訳です。
「Liberty」は「責任ある自由」を指しますから、むしろ「道理」と訳すべきものです。
ところが現代日本人の多くが抱いている「自由」という言葉は、「Liberty」ではなく「Freedom」です。
「Freedom」は、無原則な自由です。
むしろ「放縦」と訳したほうがしっくりきます。
もうひとついうと、「平等」の概念も、本来の意味とは違って使われているようです。
「平等」は、現代日本では、さしづめ「Equal(イコール)」の訳です。
上も下もありません。ということは「悌」の概念がない。
みんなイコールです。
一生懸命働く者も、さぼってばかりいて仕事をしないものも、入社年月が同じなら、等しくおなじ給料をもらいたい。
これは「平等」というより、むしろ「均等割(Equal=イコール)」です。
つまり現代日本人は、「ハムナマタタ」ならぬ「Freedom & Equal(イコール)」を社会の一般的通念としています。
現に誰もが、「自由と平等(Freedom & Equal)」を口にします。
勝手気ままで好き放題、だけど貰えるものだけは均等に頂戴ね、というのが昨今の日本です。
結果、誰もが「自由と平等」を唱え、公という概念を忘れ、個人も国家も、責任を放棄している。
そして、身近な仲間だけを大切にしようといいます。
これって、まるで責任を放棄して王国から逃げ出し、「ハムナマタタ」とマントラを唱えながら、ミーアキャットとイボイノシシのコンビと仲良く暮らすシンバと同じです。
戦前までの日本にあったもの、つまり父祖の時代にあったもの。それは「道理と公正(Liberty & Fair)」です。
物事の道理をわきまえ、世界に向かって堂々と公正を主張する。
まさに武士の精神です。
それがあったからこそ、ひとにぎりの白人種が世界を支配し、有色人種はただ収奪されるだけの世界において、日本はただ一国立ち上がり、世界を相手に堂々と戦ったのです。
日清、日露、China事変、大東亜戦争、いずれも日本の国力とは比較にならないバカでかい相手と戦っています。
まさに勇敢な行動です。
「公正」というのは、英語ならフェア(fair)であることです。
一生懸命働いて会社に貢献している者には手厚く、いつもさぼってばかりいて仕事をしない者、成果を上げない者には厳しくする。
フェアな配分をする者(上司)は、みんなにそれを納得してもらえるだけの公正(フェア)さが求められる。
だから上長も、公正な人物になるべく努力する。
同様に、日本も、公正であるために国家予算の大半を割いて、大東亜に八紘一宇というフェアな国家圏の建設をしました。
その思想と行動は、シンバの父のムハサと同じです。
けれどその日本は、腹黒い諸国に嵌められ、ちょうどヌーの群れにムハサが襲われたように大戦に突入し、終戦を迎え、死亡しました。
そして、勇敢に戦った父祖の子である戦後世代の我々がその後どうであったかというと、これまた「ライオンキング」のシンバと同じです。
「ハムナマタタ(Freedom & Equal)」とお題目を唱えながら、世界に対する責任も放棄し、誇りを忘れ、ただ目先の利益だけに汲々としている。
そしてついには、その利益さえも失おうとしています。
~~~~~~~
日本よ、勇気を持って立ち上がれ。
君たちは、栄えある王者の子供達ではないか。
そして世界は、君たちの「道理と公正(Liberty & Fair)」という輝く太陽が、再び昇る日を待っているのだ。
~~~~~~~
もしかすると、ディズニー社は、手塚治虫への感謝をこめて、そんなメッセージを「ライオンキング」に込めたのではないかと思うのです。
考え過ぎと、笑うなら笑ってください。
ボクには、そう見えた、というだけの話です。
けれど思うのです。
「ライオンキング」に登場するスカーやハイエナの群れは、まるで世界にたかる卑劣な国家、卑劣な民族、卑劣な左翼、どこかの国の政権与党や、その内閣とまるで同じ発想と行動です。
権力だけを欲しがり、その権力をもてあそび、自己の利益だけを図り、まるでシロアリのように世界を食尽す。
そして言い訳ばかりを口にする。
そして「ライオンキング」の主人公の、シンバは、大人になっても牝ライオンのナラに負けてしまうほど、腕力は弱いライオンです。
けれど、それでも勇敢に立ち上がった。
リーダーが勇敢に立ち上がることで、みんなが動いた。
そして、世界に本当の意味での平和が訪れた。
いまの日本も非力かもしれない。
けれど、いつまでも卑劣な特アや左翼を放置しひれ伏すのは、王者の子供たちである日本人のすべきことではない。
私たちは、勇気を持ってたちあがらなければならない。
それが王者の子としての、私たち日本人の使命である。
そして目覚めた私たちひとりひとりが、王者であった父祖の子である、と思うのです。
私たちは王者なのです。
だから私たちひとりひとりに使命がある。
顔晴りましょう、みなさん!!
よろしかったらクリックを。
 ↓ ↓
人気ブログランキング

『ライオン・キング』予告編

【メルマガ会員募集中】
(1) 日心会メルマガ(無料)
 申込は↓コチラから。
http://www.nippon-kokoro.com/mailmag_entry.php
(2) ねずブロメルマガ(有料)
 申込は↓コチラから。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
日本の心を伝える会 日心会

コメントは受け付けていません。