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御木本幸吉
御木本幸吉-1

今日のねずブロは「真珠のお話」です。
一時期、真珠のとれる天然物のアコヤ貝は、乱獲のため絶滅寸前に追い込まれました。
自分さえ良ければと買いあさり、乱獲するのが、特アマインドです。
あとのことはお構いなし。自分さえ儲かれば良いと考える。
けれど日本人は違います。
どうしたらアコヤ貝を守り、育てれるかと考えた。
共存共栄の精神です。
そんなお話です。
お話は、日心会MLでSさんからご寄稿いただいたものです。


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真珠と言えば、アコヤ貝等の体内でカルシウムの結晶とタンパク質等の有機物が交互に積み重なり生成される宝石です。
その独特な輝きは古今東西多くの女性を魅了し、今日では冠婚葬祭などで身につける方も多いですね。
パールのネックレスなどはTVの通販番組でも定番商品ではないでしょうか。
また現在、真珠の国際取引は日本を中心に行われています。
世界中で取引される真珠の約70%が集散地である神戸に集められていますし、国際市場では、真珠の重さを計る単位として、グラムやポンドではなく日本の「匁」(もんめ)が使われています。
(ちなみに1匁は3.75グラム)
さて、この真珠ですが今のように数多く流通するようになったのは最近の事です。
先述したとおり、真珠はアコヤ貝の体内で出来ますが、アコヤ貝ならどれでも必ず入っているわけではありません。
元々天然物は、約千個の貝に一粒あるかないか、という大変珍しいものでその希少性ゆえに、真珠は昔から王侯貴族達の憧れの的でした。
したがって、庶民には到底手の届かない貴重な宝石だったのです。
では、それほど貴重な真珠がいかにして一般に広まったか?
そこには一人の日本人が築いた功績が欠かせません。
その人物の名は、御木本幸吉(みきもとこうきち)氏と言います。
現在の株式会社ミキモトの創業者です。
時は1880年代(明治13年ごろ)、天然真珠は大変な高値で取引されており、海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られることから、日本全国でアコヤ貝は乱獲され、絶滅の危機に瀕していました。
この事態を重く見た幸吉は、1888年(明治21年)アコヤ貝の養殖に着手します。
しかし、真珠を生み出さない限り、アコヤ貝のそのものには大した価値は付きません。
つまり、アコヤ貝ばかり育てても肝心の真珠が生まれなければ意味がない。
結局、経費ばかり膨らんで計画は頓挫します。
そこで1890年(明治23年)、今度は「貝の養殖」ではなく「真珠の養殖」に重点を置いて研究を始めました。
ところがパイオニアとなる人間の宿命でしょうか、周囲の人々は
「真珠を養殖するなぞ、途方もない話だ」
「上手くいくはずがない」
などと考え、手を貸そうとする者はいませんでした。
結局、手伝う者は幸吉と親しい親族だけ、というスタートです。
また、問題も山積みです。
基本的な養殖方法としては、真珠の核となる物質を貝に入れ、その体内でその核を中心に真珠を大きくさせようとするものですが、
「どんな物を核として入れるか?」
「貝のどこの部位に入れるか?」
「貝は核を吐き出さないか?」
「核を入れたことにより貝は死なないか?」
「貝の最適な生育環境とは?」
「赤潮による貝の絶滅への対応は?」
その他、様々な疑問と向き合いながらの研究です。
更に養殖に使用する海域を管理する地元漁業者や漁業組合、関係官署との折衝も大変な紆余曲折があったようです。
数々の研究を積み重ねた結果、1893年(明治26年)幸吉はついに、実験中のアコヤ貝に半円形をした真珠を発見します。
その養殖方法についての特許も取得しました。
地道な研究が実り始めた瞬間でした。
更に時は流れて1928年(大正7年)、形、大きさ、色合いなど良質な真珠を大量に得られるようになり、本格的な量産体制を確立して、翌1919年(大正8年)にはロンドン市場にも進出しました。
ところが、1921年(大正10年)ヨーロッパの宝石商から天然真珠と見分けがつかない養殖真珠に対し、「これは真珠の偽物であり、養殖真珠は詐欺である!」という声があがります。
やがて、その声は大きくなり、ついに訴訟にまで発展。
この裁判騒動を「パリ真珠裁判」と言います。
ここで負けたら、今までの努力が水の泡です。
絶対に負けられない。
御木本側は、イギリスのオックスフォード大学やフランスのボルドー大学の権威者を迎え、正面から正論を唱え対抗、一歩も譲らない覚悟で裁判に臨みます。
その結果、天然と養殖には、全く違いが無かったという判決が下り、御木本側は全面勝利を収めました。
さらにフランスの裁判所から、養殖真珠は天然と変わらぬもの、との鑑定結果を受け名実共に養殖真珠は、世界に認められた宝石となりました。
ちなみに幸吉には、明治天皇との逸話があります。
時は前後しますが、1905年(明治38年)幸吉は養殖真珠の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を与えられています。
当時、養殖真珠の研究は発展途上の段階でしたが、幸吉は陛下に向かって、
「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧にいれます」と大見栄を切ったのです。
この言葉に周囲は大いに慌てましたが、幸吉は見事、その言葉を実現させました。
古くは、ごく一部の王侯貴族だけしか手にすることが出来なかった真珠。
その真珠を世界中の女性に届けたのは、長年研究を積み重ね、また言われなき中傷を法廷の場で堂々と跳ね返した、一人の日本人だったのです。
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御木本幸吉は日本の十大発明家のひとりに数えられていますが、彼は学校を出ていません。
生まれは安政5(1858)年で、志摩国(三重県)鳥羽大里町のうどん屋の倅としてこの世に生を受けています。
幼いころから家業を手伝い、昼間は仕事をしていますから、学校にも、寺子屋にも行けない。
なので彼は、近所にいた、明治維新で職を失った旧士族(武士)から、夜学で教育を受けています。
そして14歳のときには、一杯8厘のうどんだけでは食べて行けないからと、ひとり篭を担いで行商に歩きました。
そうして苦学しながら、知識を身につけ、商売にいそしんだのです。
そして20歳のときに、志摩の水産物の新たな販売網を探るために、東京、横浜に視察旅行に出ます。
そしてそこで気付いたのが、冒頭のお話にある、真珠との出会いでした。
真珠は高値で売れる。
けれど天然真珠はなかなか得難く、しかも乱獲のためにアコヤが絶滅しかけている。
ここで自分さえ良ければと、さらに天然ものの真珠を買いあさるのが、China人マインドです。
あとのことはお構いなし。自分さえ儲かれば良い。
けれど御木本幸吉は日本人でした。
アコヤ貝を守り、育て、同時に世界中の女性に喜ばれるようにするためには、どうしたら良いかを考えた。
そこで彼は、なんと東大(旧帝国大学)の箕作佳吉(みつくりかきち)教授をたずね、真珠の養殖について学ぶのです。
そして教授から、「理論的には養殖可能」と助言されたことをうけています。
ただ、理論的に可能であっても、実際にそれをやるのは大変です。
漁場の交渉があるし、どうやったらアコヤが真珠を作ってくれるのかもわからない。
まさに彼は手作業の試行錯誤で、養殖をはじめたのです。
「誰もやったことのない仕事こそやり甲斐がある」というのは、御木本幸吉の有名な言葉ですが、まさに彼は、バカになって養殖に取り組んでいます。
そうして、やっと日の目をみた真珠を、こんどはフランスから「偽物だ、詐欺だ」と中傷される。
当時の日本の貨幣価値と、フランスのそれでは、雲泥の差です。
フランスで裁判をするとなると、それこそ莫大な費用がかかる。
彼は全財産をつぎ込んだだけでなく、金融筋に頭をさげてまわって金策し、この裁判を戦っています。
そして養殖真珠も、真珠だ、という、いまにしてみればあたりまえの真実を訴えたのですが、その巨額の裁判費用を考えると、よくぞ、そこまでやってくれたと、ほんとうに頭が下がります。
もうひとつ、御木本幸吉の言葉をご紹介します。
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私は真珠については、世界一のアイデアマンです。
私たちが考え出したアイデアは、全部で三万件ほど。
そのうち特許や実用新案にうかったものは、7000件です。
しかし、その中で役に立ったアイデアは十数件、
最後にまとまったのはただの一件です。
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努力して、努力して、努力して、それでも報われず、誹謗され、中傷され、それでも努力する。
世の中を変える力というのは、そういうところから生まれるのかもしれません。
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