人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

片田敏孝教授と子供達
片田敏孝教授と子供達

昨年3月11日に発生した東日本大震災は、死者1万5524人、行方不明者7130人、計2万2654人(2011年7月2日警察庁発表)の尊い命が失われました。
その厳しい状況の中で、津波の直撃を受けながら、小中学生全員が命を守ったのが、岩手県釜石市です。
今日は、そのお話を書いてみたいと思います。


岩手県釜石市は、これまでにも再三にわたって津波被害を受けてきた地域です。
明治29(1896)年6月15日の明治三陸地震では、釜石市の東方沖200kmを震源地とするマグネチュード8.5の巨大地震が襲い、この地殻変動によって起こった津波は、最大で海抜38.2メートル、釜石には8.2メートルの津波が襲い、当時の全人口6529人のうち、4041人が死亡しています。
しかし時がたつにつれて、悲惨な歴史は忘れ去られ、津波警報が発令されても誰も避難しなくなっていた。そんな意識を変えようと、立ち上がったのが、群馬大学大学院教授の片田敏孝さん(51)でした。
きっかけは2004年の、タイのスマトラ沖大地震だったそうです。
土木の専門家として現地入りした片田教授は、死者22万人、負傷者13万人の被害をもたらしたこの地震において、特に地震そのものよりも、そのあとに続けて起こった津波被害の深刻さにたいへんな衝撃を受けられたのだそうです。
「日本で起きると、大変なことになる!」
世界で起きるマグニチュード6以上の地震の約2割が、国土面積が世界の0.25%に過ぎない日本に集中しているのです。
なんとかする方法はないものか。
そこで片田教授は、津波対策のためのセミナーを開いたそうです。
ところが防災セミナーに集まってくるのは、そもそも防災対策や津波被害に高い関心を持った人たちばかりです。
「これでは被害は防げない」
そう思った片田教授は、平成17年から、全国の市町村の防災対策課に連絡をとり、津波対策を呼びかけます。
そしてたびたび巨大津波による被害に遭っている釜石市に焦点を絞り、市の対策課とともに釜石の小中学校で、直接子供達に津波対策のための授業を行うことにしたのです。
釜石では、過去の津波被害への対策のために、昭和53年から釜石港の入り口に防波堤を築いています。
この防波堤は、全長1660メートル、水深19メートルの深さから立上げたもので、平成22年には世界最大水深の防波堤として、ギネスブックにも登録された堤防です。
総工費を市民の人数で割ると、ひとりあたりなんと300万円の費用までかかっている。
これだけの防波堤を築き、そして各家庭には津波対策のハザードマップまで配られ、被害の阻止に勤めていたのです。
けれど災害は、思わぬ規模でやってくる。
防波堤は高さ6メートルの津波にまで対応しているというけれど、現に明治三陸地震では8メートルの津波が来ているではないか。
片田教授の必死の訴えに、市の防災課も、小中学校の生徒向けなら、とようやく災害対策教育への取り組みを許可してくれた。
教授は生徒たちに、ハザードマップの想定にとらわれるな、と教えます。
そして地震が来たら、津波から逃れるために最善を尽くせ、率先して避難せよ、と教えます。
そして、平成23年3月11日、東日本大震災が起こったのです。
地震が来たとき、海岸からわずか1キロのところにある鵜住居小学校では、地震直後に校舎の3階に児童が集まりました。
校舎の建物は無事、しかもこの小学校は津波による浸水想定区域外です。
鵜住居小学校のある位置は、明治、昭和の津波で被害がなかったのです。
ところが生徒たちが集まった屋上から見ると、隣りの釜石東中では、生徒たちが校庭に駆け出していました。
これを見た児童たちは、日頃の同中との合同訓練を思い出し、自らの判断で校庭に駆け出します。
それぞれの判断で、です。
校内放送は停電のため使えなかったのです。
鵜住居小の児童ら約600名は、500メートル後方の高台にあるグループホームまで避難します。
ここも指定避難場所です。
けれど一息つく間もなく、裏側の崖が崩れはじめる。
危険を感じた小中学校の生徒たちは、さらに約500メートル先の高台の介護福祉施設を目指して駆け出します。
その約30秒後、グループホームは津波にのまれた。
背後からは、建物を壊し呑み込む津波の轟音が迫ります。
生徒たちは、たどり着いた介護福祉施設からさらに高台へ駆け出す。
この時の写真が↓です。

釜石津波01-1

津波は介護福祉施設の約100メートル手前で止まりました。
すべてが避難開始から10分足らずの出来事だったといいます。
そして↓が、最初に子供達が避難していた小学校の津波後の写真です。
津波は3階建ての小学校を飲み込んでいました。
釜石津波02

市内各所では、すでに7割の児童が下校していた釜石小学校(児童184人)でも、生徒は全員無事でした。
祖母と自宅にいた児童は、祖母を介助しながら避難、指定避難所の公園にいた児童は津波の勢いの強さをみてさらに高台に避難するなど、ここでも片田教授の日頃の指導が生かされていたのです。
そこで片田教授のメッセージをご紹介します。
~~~~~~~~~~~
釜石市内の小・中学校での防災教育は、年間5時間から10数時間行いました。
けれど、子供たちに教えたことが、彼らの頭の中だけで完結してしまうと、それは家庭や地域へと広まって行きません。
 
そこで私は授業の最後に次のことを問い掛けました。
「君たちは先生が教えてきたとおり、学校で地震に遭えば絶対に逃げてくれると思う。
だけど、君たちが逃げた後に、お父さんやお母さんはどうするだろう?」
これは厳しい質問です。
子供たちの表情も一斉に曇ってしまう。
なぜなら子供達は、お父さんやお母さんたちは、自分のことを大事に思うから、きっと学校まで自分を迎えに来ると想像できるからです。
そしてその結果がどうなるかまで想像できるからです。
私は続けてこう話をしました。
「みんなは今日、家に帰ったら、お父さんやお母さんに君たちが教えてあげるんだ。
『いざという時は、僕は必ず逃げる。だからお父さんやお母さんも必ず逃げてほしい』と。
そのことを心から信じてくれるまでちゃんと伝えるんだ!」
その日は授業参観日だったため、子供たちだけがいる場でそう言い聞かせた一方、保護者が集まっている場所へも行き、次のように話をしました。
「私が行った授業を踏まえ、子供たちは今日、“いざという時は、僕は必ず逃げるから、お父さんやお母さんも必ず逃げてね”と一所懸命に言うと思います。
あの子たちは、お父さんお母さんが、自分のことを心配してくれるがゆえに命を落としてしまいはしないかと心配しているのです。
でも、皆さんも、子供たちが絶対に逃げてくれると信用できないと、自分一人で逃げるという決断がなかなかできないだろうと思います。
ですから、その確信が持てるまで、今日は親子で十分話し合ってほしい」
そして最後にこんな話をしました。
「東北地方には<津波てんでんこ>という言い伝えがあります。
これは、津波がきたら、てんでんばらばらに逃げなさい、そうしないと家族や地域が全滅してしまう、という教訓です。
しかし、これを本当に実行できるでしょうか。
私にも娘が一人います。
たとえば地震がきて、娘が瓦礫の下敷きになっていたとしたら、たとえ津波がくることが分かっていたとしても、たぶん私は逃げない。
どう考えても逃げることなどできません。
にもかかわらず、先人は、なぜこんな言葉を残してくれたのだろう。
私はその真意を考えたのです。
おそらくこの言葉には、津波襲来のたびに、家族の絆がかえって一家の滅亡を導くという不幸な結果が繰り返されてきたことが背景にあると気付きました。
その意味するところは、老いも若きも、一人ひとりが自分の命に<責任>を持て、ということです。
そしていま一つの意味は<信頼>です。
家族同士がお互いに信じ合っていることが大事、ということです。
子供は、お母さんは必ず後からちゃんと迎えに来てくれると、お母さんを<信頼>して逃げる。
お母さんは、子供を迎えに行きたいが、我が子は絶対逃げてくれているという<信頼>のもと、勇気を持って逃げる。 
これは家族がお互いに<信頼>し合ってなければできないことです。
ですから「津波てんでんこ」というのは、自分の命に<責任>を持つということだけではなく、それを家族が信じ合っている、<信頼>しあっている、そんな家庭を日頃から築きなさい、という教訓なのではないでしょうか。
今回の震災で、釜石では市全体で約1300人が亡くなりました。
学校の管理下になかった5人を除いて、全員が生き残ってくれました。
生き残った3000人の小中学生の親を調べてみると、亡くなったのは40人程度でした。
これは、被害全体から見たら、とても少ない数です。
 
これは子供を通じて行った親や地域への防災教育の取り組みや「津波てんでんこ」の話がうまく伝わった結果ではないかと感じています。
~~~~~~~~~
以前、このブログで「稲むらの火」という小泉八雲の物語をご紹介させていただきました。
◆稲村の火
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-769.html
戦前の日本では、小学5年生の学校の国語の教科書でこの物語を紹介し、地震のあとには津波が来るから高所に逃げなさい、と子供達に教えていました。
けれど昭和22年、教科書のこの記述はGHQによって削除されています。
そして日本では、その後も被害が起こり続け、昨今ようやく防災対策のためのハザードマップなどのマニュアルが各家庭に配られるようになっています。
けれど、自然災害というものは、私たちの想定をはるかに超えてやってくるものです。
いざというときに身を守り、家族や子供達の未来を守るのは、日頃からの備えと代々受け継がれて来た先人達の智慧なのではないでしょうか。
災害は、マニュアルに従ってやってくるわけではないのです。
下の図は、釜石市のハザードマップにあった想定区域(橙線)と、実際に被災したエリア(緑線)です。
釜石津波03

片田教授は語ります。
「最近では<絆>という言葉が流行っています。
けれど、<絆>だけでは人は生き残れません。
もうひとつ<信頼>が大切なのです」と。
日本は、根本に家族主義という<相互信頼関係>を置く国です。
先人達は、そういう国家を長い年月をかけて築き上げてくれて来た。
私たちはそのことの意味を、もう一度、しっかりと考え直してみなければならないのではないかと思います。
それともうひとつ、ポイントがあります。
それは片田教授の<そこで片田教授は、津波対策のためのセミナーを開いた。ところが防災セミナーに集まってくるのは、そもそも防災対策や津波被害に高い関心を持った人たちばかりだった。「これでは被害は防げない」と考えた片田教授が、小中学校で、直接子供達に津波対策のための授業を行うことにした>という行動です。
いま多くの保守の方が立ち上がり、日本を変えよう、日本を取り戻そうと行動を起こしています。
ただ、セミナーや講演会を行うだけでは、そもそも保守に目覚めた人たちしか集まってこない。
もちろん、セミナーも講演会も大事です。
けれど日本を変えるためには、一般の人たちを巻き込む運動をしていかなければならないのです。
片田教授は語ります。
「子供達に10年教えたら、始めに教えた小学校6年生は成人になります。そうなると今度は、大人たちが自分の子供に教えるようになる」
いまの日本社会は、その大人たちが、戦後の左翼思想に染まり、日本の伝統文化を軽視し、反日であることがまるで正義のような誤った概念にとらわれている人が多いといいます。
その染まりきった人たちをこれから変えるのは、大変なことなのかもしれない。
けれど、まだ何も染まっていない子供達は、本当のことを知れば、必ずや日本に誇りをもってくれる。
そういう子供達が増えれば、子供達から刺激を受けた大人たちが変るし、その子供達が大人になれば、その勢いはますます強く、大きなものになる。
もちろん、いま即時行動を起こさなければならないほど、日本が逼迫した状態にあることは認めます。
けれど、そうした反日行動への対処とともに、根治療法として、子供達に本当の日本を知ってもらう、先人達の叡智に触れてもらうという活動も大事だと思うのです。
日本の教育を変えるというような大それたことを申し上げているのではありません。
自分でできることからしようと申し上げています。
ボクも、ねずブロでご紹介している様々な日本の良い話を、なんとかして地元の小中学校で教える機会を得れるよう、運動してみるつもりです。
みなさまもご一緒に、何か考え、行動してみませんか?
よろしかったらクリックを。
 ↓ ↓
人気ブログランキング
「てんでんこ ‐津波を生き延びる知恵‐」片田敏孝教授インタビュー 1/2

コメントは受け付けていません。