
東京・渋谷駅の待ち合わせ場所としても有名なハチ公前広場。
そこに置かれているのが、忠犬ハチ公の像です。
ハチは、飼い主が死亡した後も、駅前で飼い主の帰りを待ち続けた「忠犬」として知られ、最近ではその物語がハリウッドでリチャード・ギア主演で「HACHI」という映画にまでなりました。
ちなみにリチャード・ギアといえば、ジュリア・ロバーツと共演した「プリティウーマン」が有名ですが、この映画は、昭和39(1964)年に世界的大ヒット映画となったオードリーヘップバーンの「マイフェアレディ」が下地になったリメイク作品でした。
さて、映画化されたり本になったり、洋画でリメイクされたりと有名な忠犬ハチ公の物語ですが、ハチが渋谷駅前で待っていた飼い主が、これまた実在の人物で、東大農学部教授だった上野英三郎(うえのひでさぶろう)博士です。
上野博士は、三重県津市のご出身で、お生まれは明治28(1895)年です。
東大農学部を卒業し、そのまま大学院を経由して東大の教授となりました。
教授が専門としたのが「農業土木」です。
これは各個人がそれぞれ所有する農地を、合算して広大な農地とし、農業生産を担う集団的経営体の育成を図りながら高生産性農業の展開に必要となる生産基盤を整備し、食料自給率の向上に資する事を目的とする学問です。
農業土木の分野は、農地の区画整理、用排水施設、農道、客土、暗渠排水路の設営、共同経営隊の組成と運営と非常に広範なもので、上野英三郎博士は、その分野の創始者となった方です。
この農業土木の分野を創設した上野博士の教え子は3000名を超えると言われ、その思想は高橋是清の積極財政出動による公共投資における農業振興政策に幅広く応用されています。
上野博士は実に立派な方だったわけです。
その上野博士は、大正13(1924)年、秋田犬を購入します。
そして「ハチ」と名付けた。
元来犬好きだった上野博士は、ハチをことのほか可愛がります。
そして可愛がられたハチは、上野博士が出勤する際、いつも博士を渋谷駅まで見送りに行くのが日課となります。
ところが、その翌年5月21日、いつものように見送った博士が、大学の教授会の会議中に脳溢血で倒れ、そのまま急逝してしまいます。
いつまでも帰らない主人を待って、ハチは3日間も何も食べなかった。
25日には、上野博士の通夜が松濤の上野宅で行われたのですが、その日もハチは上野博士を迎えに、渋谷駅まで行き、駅から降りて来る人々の中から、博士の姿を探しながら、じっと帰りを待っていたそうです。
一方主人を失った上野家は、松濤の家を引き払い、ハチは、日本橋にある上野博士の奥さんの親戚の堀越宅にもらわれていきます。
ところがハチはなかなかその家になつかない。
やむなくハチは、浅草の親戚に引き取られることになるのですが、そこからも脱走して、渋谷まで一匹で行ってしまう。
そこで上野宅に出入りしていた植木職人の小林菊三郎さんに、ハチは面倒をみてもらうことになるのですが、ハチは、代々木にある菊三郎さんの家から、毎日、渋谷駅まで上野博士を迎えに行ってしまう。
そして腹が減ると、菊三郎さんの家に帰り、食事を済ませるとまた渋谷へ、という日々が続きます。
そのとき、ハチは、渋谷駅に向かう途中で、必ず旧上野宅に立寄り、中をのぞいていたという。
こうして、渋谷駅前で、ハチの姿は毎日見られるようになります。
ところが、人なつっこいハチは、しばしば通行人に棒で叩かれたりしていじめられます。
またあるときは、野犬捕獲人に捕まったり、またあるときは渋谷駅の小荷物室に勝手に入り込んで、駅員に追われたり、またあるときは、子供のいたずらなのでしょうか、顔の目のところに、丸く墨で書かれたり、あるいは八の字髭を書かれたり(これにはみんな笑ったそうですが)などもしたそうです。
いちばん辛いのが、渋谷駅前の露天の屋台のお客さんや、屋台のオヤジさんから、商売の邪魔だと棒でひっぱたかれたりしたこと。
そんなハチの姿をみかねて、日本犬保存会初代会長の斎藤弘吉さんが、ハチの悲しい事情を人々に知らせようと当時の朝日新聞に「いとしや老犬物語」という記事を寄稿したのが、上野博士が亡くなって8年が経った昭和7(1932)年のことでした。

写真にある通り、この記事は大きく取り上げられたのですが、この記事のハチの写真が、耳が垂れていることから、記者が間違って「雑種」と報道した。
このためいくどもこれを「秋田犬」と訂正させたことから、逆にこれが宣伝効果となって、ハチは人々から可愛がられるようになります。
「忠犬ハチ公」というあだ名も、このころにつけられています。
ハチのひたむきに主人を思う姿は、多くの人の心を打ち、翌昭和8(1933)年には、ハチの銅像を造ろうという話が持ち上がります。
そして全国の小中学校で寄付が集められた。
おもしろいのは、当時、ハチの物語がアメリカでも紹介され、アメリカの小中学校からもたくさんの寄付金が届けられたことです。
ハチの銅像は、彫塑家の安藤照さんという方によって造られました。
安藤さんはアトリエが渋谷区初台にあり、当時のハチの飼い主である小林さんの家と近かったのです。
銅像を造るため、小林さんは毎日安藤さんの家に通ったそうです。
この銅像が渋谷駅前に飾られると、駅の近所では、「ハチ公せんべい」「ハチ公チョコレート」などが販売されるようになりました。
そしてハチは、文部省の尋常小学校修身書の小学2年生の教科書にも掲載される。

さて、昭和10(1935)年3月8日、ハチは渋谷駅の反対側の稲荷橋付近で、ひっそりとその生涯を閉じました。
享年13歳でした。
死因は、フィラリア病がハチの心臓にまで達したこと。
そしてハチの胃の中からは、焼き鳥の串が数本、胃につきささっていたそうです。
ハチが旅立ったあと、渋谷駅には、多くの人が押し寄せ、盛大な葬儀が執り行なわれました。
そしてハチの遺体は、上野博士の眠る青山墓地に埋葬された。
ハチの像は、その後、昭和19(1944)年、戦時中の金属回収運動の中で回収され、溶解されてしまいます。
現在のハチ公像は、昭和23(1948)年に、安藤照さんの息子さんがあらためて作りなおしたものです。
こうしてハチは、いまも渋谷駅前で、主人の帰りを待っています。
戦後の日本人が忘れているもの。
それが「忠」です。
「忠」は、真ん中の心と書きます。
自らの心の中心に置くもの。それが「忠」です。
おそらくハチにとって、主人の上野博士は、まさに心の中心だったのでしょう。
そしてその上野教授は、日本の農業を土木から支えようとした方でした。
日本は、神々から天壌無窮の神勅を受けた国です。
神話によれば、青々とした水田が広がる限り、日本は永遠に守られる。
農業は、人々の和を尊び、争いごとを嫌います。
そして人々が協力しあって作物を育て、収穫する。
協力しあうところに、日本の集団主義、家族主義という心があります。
上野博士を慕ったハチは、亡くなりました。
けれどそのハチの姿は、銅像となって、いまも渋谷の駅前に建っています。
思うに、いまも渋谷駅前で主人の帰りを待つ忠犬ハチ公の姿は、単に上野教授を待っている姿なのではなくて、農本主義であり、集団主義、家族主義であった日本の心の帰りを待つ姿、すなわち、日本の復興を待つ姿なのではないか。
そんな気がします。
最後にひとつ、これをお読みいただいた方に申し上げたいことがあります。
生きたハチは、剥製となり、国立上野科学博物館に展示されています。
ところがこのハチの剥製、なぜか国立上野科学博物館の動物コーナーに展示してあり、ネームプレートには「秋田犬ハチ」と書いてあるだけです。
以前は、きちんと由来の説明書きが添えてあったのです。
けれどいまでは、ただ名前が書いてあるだけ。
それも動物コーナーで「秋田犬ハチ」です。
これではなんのことやらさっぱりわかりません。
おかしくありませんか?
ハチは、秋田犬だから剥製になっているのでもなければ、洋画で取り上げられたからでもありません。
日本人の忠義の心を体現した、その行動が人々から愛されたから、いまもその名をとどめているのです。
なぜ国立上野科学博物館は、ハチの由来を撤去したのでしょう?
なぜ、ハチは、忠犬ハチ公ではなくて、「秋田犬ハチ」なのでしょう?
日本人が日本の良い話を語り継がなくて、いったい誰が語り継ぐというのでしょうか?
忠犬ハチ公が日本の忠義の心の象徴だから、意図的な日本人の精神性への破壊工作ですか?
こんなところにまで、日本破壊の魔の手が伸びていると思うと、ぞっとします。
この現実を、渋谷の忠犬ハチ公の物語とともに、ひとりでも多くの人に知っていただけたらと思う次第です。
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