
日本がいま、全国的に不況にあえぎ、しかもすでに危険水準を大幅に越えている円高によって輸出産業が大打撃を受け、その一方で円高でありながら石油製品類が値上となるなど、極めて厳しい状況にある中で、民主党野田政権が主張しているのは「増税」です。
いったいどこをどう受け止めたらそういう政治になるのか、まったく理解に苦しむ。
「バカにつける薬はない」「バカに何を言ってもはじまらない」とよく言いますが、日本の目下の最大の喜劇は、日本人がそのバカに騙されて政権与党の座を与え、そのバカの中のとびきりのバカが内閣閣僚となっているという現実です。
「日本人に目覚めて欲しい」
いまやその思いは、単に日本だけのものではなく、諸外国からも同様の願いが届けられるようになって来ています。
気付いていないのは日本人だけです。
もう、いい加減、目覚めて欲しい。
そう思います。
さて、江戸時代の初め頃、増税に反対してひとり立ち上がり、命と引き換えに減税を果たした若者がいます。
その物語を福井県若狭のFさんから教えていただきましたので、今日はそのお話をご紹介をしようと思います。
名前を「松木庄左衛門(まつのき しょうざえもん)といいます。
彼は若干16歳にして庄屋の跡取りとなり、近隣の庄屋の総代として自ら先頭に立って領民救済の旗印を掲げ、実に嘆願すること十数回、九年間ものあいだ訴えを繰り返し、最後は逮捕投獄されてしまう。
そして酷い拷問を受け、28歳で処刑され、若い命を散しています。
そこで、この物語について、背景から順にみていきたいと思います。
場所は、いまの福井県の三方上中郡若狭町のあたりです。
このあたりは、昔は「若狭国」(8万石)でした。
瀬山に城があり、豊臣政権時代にここを治めていた城主が木下勝俊(きのしたかつとし)です。
名前が「木下」でわかる通り、木下勝俊は、木下藤吉郎(のちの秀吉)の親戚です。
たいへんな和歌の才に恵まれた人としても有名で、和歌の師匠が細川幽斎、そして弟子が松尾芭蕉です。
その木下勝俊は、関ヶ原の戦いで豊臣方として戦います。
要するに負けてしまったわけで、江戸幕府によって改易され、若狭国はその後を京極高次(きょうごく たかつぐ)が継いでいます。
京極家は、平安時代から続く近江源氏の名門です。
ところが浅井氏の下克上を受けて没落してしまう。
その浅井家は、浅井長政の時代に、信長に滅ぼされています。
さて、浅井氏が滅ぼされたとき、京極高次は、浅井氏の庇護を受け、浅井長政の姉を妻に迎えています。
キリシタンとしても有名なこの女性は、後に京極マリアと呼ばれる。
本能寺の変のとき、京極高次は明智光秀側についています。
けれど秀吉に破れ、追われる身となる。
ところが世間は狭いものです。
高次の妹の竜子が秀吉の側室だったことから、閨閥の力で後に許されて、京極高次は、近江大津城6万石の大名に復活するのです。
そして関ヶ原の戦いのとき、迫り来る西軍の毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)、立花宗茂の連合軍4万を相手に、京極高次は、勇猛果敢篭城戦を戦い、毛利、立花の大軍を大津に足止めしてしまうのです。
まる二週間の篭城戦で、結局城は落ちるのだけれど、このときの京極高次の活躍で、毛利、立花の4万の大軍をひきつけ、関ヶ原に「間に合わせなかった」という功績で、高次は若狭一国8万5千石に加増転封され瀬山城に入ったのです。
瀬山城にはいった京極高次は、大坂の陣を控えた徳川家康の命によって、新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、小浜城を築城します。
松木庄左衛門の物語は、ここからはじまります。
家康の命によって小浜城の建設の建設をはじめた京極高次ですが、戦続きで戦費がかさむ中で、さらにあたらな築城を行ったわけです。
当然のことながら、藩の財政がきわめて厳しく、借金もぐれの財政状況です。
そこで京極高次は、大豆納の年貢1俵の基準を、1俵あたり4斗から4斗5升に、つまり12.5%の大幅増税を行いました。
これが慶長5(1600)年のできごとです。
築城で多くの農民が駆り出されています。そこへ加えて増税したわけです。
これは藩民の大きな抵抗があったと思いきや、その時点では、むしろ藩民たちは協力的だったのです。
まず第一に、藩民たちは源平の時代から続く源氏の名門である京極家が藩主となることを、大変喜んでいた。
そして小浜城の建設も、その喜びの中で行われています。
また増税も、この頃の城主は、単に上意下達で一方的な増税はしていません。
領民の代表を招き、事情を話し、藩民たちの協力を得る形で互いに納得ずくで増税したのです。
ですから増税を実施していながら、藩内はたいへんよくまとまっていたし、治安も維持され、京極高次は、その治世の優秀さから、家康から素晴らしいとお褒めの手紙まで受け取っています。
ところが、1俵あたり4斗から4斗5升(12.5%)という増税は、その瞬間には民に大きな影響は出ないものの、その増税負担は、年を追う毎にボディーブローのように藩民の生活を「徐々に」圧迫したのです。
ここに増税の大きな問題点があります。
税率が1割強あがるということは、民にいざというときの「蓄え」が出来なくなるという事態を招きます。
そうなると凶作のときなど、たちまち領民の生活は圧迫される。
豊かだったはずの若狭藩の農民は、徐々に生活を圧迫されはじめたのです。
そこへさえらに追い打ちがかかります。
京極家が寛永14(1637)年に「お取り潰し」に遭ってしまうのです。
そもそも京極高次が若狭藩にはいってきたのは慶長5(1600)年のことなのですが、その9年後の慶長14(1609)年、高次は、わずか47歳で急逝してしまったのです。
た京極高次に代わって跡目を継いだのは、息子の京極忠高です。
ところが忠高も、寛永14(1637)年に急死してしまったのです。
問題は、この忠高に、嫡子がいなかったことです。
当時の大名家は、跡継ぎがいなければ改易です。
つまり藩がお取り潰しになる。
嫡子がないのなら、側室に男子を産ませれば良いのですが、忠高の正室は将軍家の娘であり、そうそう簡単に側室というわけにいかなかったようです。
結果、跡目のいない京極家は、養子の京極高和を跡目にして家を存続させようと運動するのだけれど、結局認められず、京極家は播磨龍野藩6万石へと移封減俸となって、さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封になってしまいます。
讃岐の丸亀といえば、最近では「うどん」で有名ですよね。
そして京極家が去った若狭藩に、新たにはいってきた城主が、酒井忠勝です。
酒井忠勝は、徳川三代将軍家光にたいへん重用された重臣で、徳川家の老中の家柄。しかも老中職を離れたあとも、幕閣内に隠然とした勢力を保持し、後の大老職の原型をなした大物中の大物です。
その酒井忠勝が、埼玉の川越藩から転封となり、大幅に加増されて若狭にやってきたわけです。
これはもう地元としては、京極家の引っ越し、酒井家の受け入れと、大物城主の出入りでたいへんな物入りとなった。
おかげで、寛永14(1637)年頃には、藩内の民はすっかり疲弊し、袖を振っても何も出てこないという状況となった。
こうした事態を受けて、慶安元(1638)年には、若狭国内252ヶ村の庄屋さんたちが集まって、郡代官所に減税のための陳情を行うという事態にまで発展するのです。
この年、松木庄左衛門は、まだ若干16歳です。
松木の庄屋の跡を継いだばかり。
けれど義侠心に富み、正義感の強い庄左衛門は、自然と集まった庄屋さんたちのリーダー的存在となり、この年、約20名の庄屋さん代表たちと一緒に、代官所に減税のための陳情を行ったのです。
そして減税を嘆願すること、十数回、実に九年間。
ついに慶安元(1648)年、直訴を繰り返していた代表の庄屋さんたちは、投獄されてしまいます。
この逮捕のときのエピソードがあります。
嘆願の代表者たちは、強訴の罪により逮捕投獄されてしまうのですが、このとき、新道の松木庄左街門のところにも、もちろん捕手が駆けつけました。
ちょうどそのとき、庄左衛門は家にいて、母の前で謡の「田村」の曲をうたって聞かせていたところだったそうです。
若くして父を失った庄左衛門は、母をとても大事にしていたのです。
母もまた、わが子の良い理解者でした。
直ちに彼を召し捕ろうとする役人に向かって青年庄左衛門は、
「今しばらく。母を慰めるためのこの一曲、うたい終わるまでお待ちくだされ」と、願いでたのだそうです。
まるで芝居の名場面を見るような情景ですが、しばし猶予を与えた捕方たちが見守る中、まったく動揺の気配さえもみせず、庄左衛門は、朗々と謡を続けていたといいます。
このような日のあることはすでに覚悟していたのでしょう。
そしてこれが、母への最後の孝養となることをも思っていたのかもしれません。
そして逮捕投獄された庄左衛門は、以後二度と母や弟の待ちわびるわが家へ帰ることはなかったのです。
このとき投獄された同志の庄屋は、他にも数名います。
けれど実際に投獄されると、その恐れや疲れなどで同志の者が一人二人と去っていきます。
そして4年後には、陳情を続けるのは、ついに松木庄左衛門ただひとりになってしまう。
郡代官は、松木庄左衛門になんとか翻意させようと、拷問を加えたそうです。
年貢の減税要求を引っ込めろ、といわけです。
けれど庄左衛門は、相次ぐ拷問にも、どこまでも耐え抜いた。
そして減税の嘆願を継続します。
そしてついに、翻意しない庄左衛門は、慶安5(1652)年5月16日、日笠川原で、ただひとり、磔(はりつけ)の刑に処せられてしまう。
時に庄左衛門、若干28歳の若さでした。
そして藩主酒井忠勝によって、庄左衛門の悲願は聞き届けられます。
酒井忠勝は、この年、大豆年貢の引き下げのお布令を出したのです。
文献史料としては、酒井家の歴代藩主の言行をまとめた書「玉露叢(ぎょくろそう)」に、若狭の庄屋が共同して大豆年貢の軽減を願い出たことで、酒井忠勝が、頭である新道の庄屋、庄左衛門を今後の押さえのために処刑すると同時に、その願いの筋も道理にかなっているとして、年貢軽減を許されたことが記されているそうです。
実は、これは非常にむつかしい問題だったのです。
酒井忠勝にしてみれば、減税の嘆願を許してしまえば家臣への統率が立たない。
なぜなら、郡代官らは、民の苦しみをわかっていてなお、御定法を守らんがために、敢えて心を鬼にして庄左衛門らの訴えを退けているのです。
それを藩主が狼狽して民の肩を持ってしまったら、心を鬼にして訴えを退けていた代官らは、逆に民に不安を与えた咎で、処分の対象とならなければならない。
つまり、藩内家臣への統率が立たないのです。
一方、御法を盾に、どこまでも民の訴えを聞き届けなければ、民は疲弊し、藩民の生活は立ち行かなくなる。
酒井忠勝としては、どうしても庄左衛門の命と引き換えに、減税を行うしかなかったのだろうと思います。
この事件以降、若狭の農村では、秋に大豆がとれると一番に神棚に供えて、松木さんのご恩に感謝する習わしが行われ続けました。
またいまでも若狭町では、庄左衛門の遺徳を伝えようと、豚汁に大豆を加えたものを「長操鍋(ちょうそうなべ)」(長操は庄左衛門の号)と名付けて、イベントなどで振る舞っているのだそうです。
また昭和8年には、義民松木庄左衛門を尊敬する人たちの協力によって、松木神社が創建されています。
この神社が建っている場所は、かつて酒井藩が年貢米を収納した米蔵の跡地です。
さて、今日の物語で、たいせつなポイントが2つあります。
ひとつは、増税というものは、その増税を図った年だけの問題ではなく、後々になって民間活力を大幅に削ぎ落すものである、ということです。
消費税率を現行の5%から、いきなり10%にするということは、いま現在、不況に喘ぐ国内企業や国内消費に、大打撃を与えます。
もちろん、増税を行ったその年、その瞬間には、たとえばシステムに設定してある税率のプログラムを修正するシステム屋さんや、ごく一部の益税となる人たちなど、増税によって一時的な利益を得る人たちも一部にはあります。
また、消費税率変更となれば、大型耐久消費財などの一時的な「駆け込み需要」なども発生し、それがごく一部の企業等を潤します。
けれど、ただでさえ円高に喘ぎ、苦しくなっている日本人の台所は、増税によって確実に益々厳しさを増すことになる。
なぜなら消費税率が10%になるということは、労働者の年収に占める年間の貯蓄高が、まるごと税金で持って行かれるという事態を示しているからです。
いざというときの蓄えがなければ、どこのご家庭でも困ってしまいます。
そうなれば、当然のことながら、消費はますます縮小する。
消費が縮小するということは、ますます内需を先細りにし、景気を悪化を深刻化させ、民需を疲弊させる。
そしてその影響は、何年もかけて出てくるのです。
そうです。松木庄左衛門が立ち上がらなければならなくなったのは、若狭藩の税率改定から約40年後のことです。
いまの時代は、当時と比べたらもっと変化のスピードが速い。
ということは、ほんの数年を経ずして、日本経済はまさに泥沼にまで大きくへこむことになる。
増税というのは、単にいっときの税率の変更という問題ではないのです。
何年も先まで大きな影響が及ぶ。
そして二つ目は、いったん上げた税率は、もとに戻すのは非常にたいへんなことになる、ということです。
ひとつの税制が生まれると、その税収を当て込んだ新たな国政の枠組みが生まれます。
それをくつがえすのは、たいへんなことなのです。
松木庄左衛門は、まだ10代の若者でありながら、ひとり勇気を持って立ち上がりました。
そしてあらゆる迫害に屈せず、初志を貫徹しました。
私たちも、私たちの国を守るために、ひとりひとりが立ち上がるときに来ています。
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