はじめに引用します。
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兄野田毅(のだつよし)は、ご承知の通り「東京日日新聞」(当時)の「百人斬り競争」の記事がもとになり、戦後、いわれもない「南京虐殺」の責任を松井石根中China方面軍司令官、谷寿夫第六師団長、田中軍吉大尉、向井敏明少尉(以上、いずれも当時)ら五名で負うことになりました。
戦前は武勇伝として報じられた記事でしたが、戦後の昭和46年を境に、「日本軍の悪」の代表みたいな事例として、一部マスコミに騒がれ始めました。
当時、マスコミ界において「南京虐殺」や「百人斬り競争」はまぼろし、つまり虚構との反論がなされましたから、大きな問題になることはありませんでした。
しかし一部のマスコミは、その後も火に油を注ぐ方向でいろいろな本を出し続けましたが、平成元年、「東京日日新聞」の後身である毎日新聞社は、自社発行の「昭和史全記録」で、「戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」と記事の虚構を明らかにしています。
いまでは、「百人斬り競争」は虚構だったことが広く認識されるようになりました。
これまで私の家に、兄の残した「遺書」、百人斬り競争に関する「南京裁判記録」が残されていました。
これらは部分的に書籍などで公表されていましたが、「遺書」と「南京裁判記録」を全文掲載し、ようやく本書に集約することができました。
今回の刊行で、多くの人々に兄の真実の姿を知っていただくことを嬉しく思います。
兄もようやく自分の想いが叶ったと喜んでくれるでしょう。
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こう書かれた妹野田マサさんの序文が掲載されているのが、本日ご紹介する、溝口郁夫さんが書かれた書籍、
「南京『百人斬り競争』虚構の証明」です。
いまさら「百人斬り競争」などという虚構を実際にあった出来事などと思う人は、まさかいないと思うけれど、そもそもの事の起こりは、盧溝橋事件に端を発し、上海、南京へと戦線が拡大した当時の無錫(むしゃく)駅付近での出来事が発端です。
このときの模様が、野田毅氏の裁判記録に載っています。
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昭和12年11月、無錫付近において、向井少尉とともに毎日新聞特派報道班浅海一郎と会合し、煙草をもらい、相互に笑談戯言せり。
これ、該記者と会見せる第一回目なり。
該記者は、当時特別記事なく困窮しありたるをもって、架空的記事を創作し、新聞社に対する責任責務を果たさんとせり。
記者いわく。
「記者は特別記事なく困窮しあり、貴殿等を英雄として新聞に掲載せば、日本女性はこれを憧憬し多数の花嫁候補殺到するならん。
もし新聞に記載されんが郷土に部隊の消息をも知らしめ、もって父母兄弟親戚知人をして安心せしむることを得べし。
記事の内容については、記者に一任されたく」
右の如き戯説が新聞紙上に載ることを信ずる能わず。
かつ、笑談戯言なるをもって意に止めず、ほとんど忘却しありたり。
しかるに同年12月頃、麒麟門東方において、戦車に搭乗せる記者と行き違い足り。
これ、該記者と会合せる第二回目なり。
突忽の間、相互の健在を祝し、記者は早口にいわく、
「百人斬り競争の創作的記事は、日本国内において評判なるむね、日本本社より打電ありたり。最後の記事も既に送付せり。いずれそのうちに貴殿も新聞を見ることあらん」云々。
戦車の轟音とともに、たちまちにして記者と答弁人は別れたり。
このとき向井少尉は不在なりき。
答弁人の百人斬の記事を見たるは、昭和13年2月、北支警備のときにして、あまりにも誇大妄想狂的なるに驚くとともに、恥ずかしく思いたり。
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そしてこのとき浅海記者らが掲載した東京日日新聞の第一報(昭和12年11月30日付)が、次の写真です。

こうした毎日新聞の悪のりを受けて、野田少尉の故郷である鹿児島では、朝日新聞が昭和13年3月22日の記事で、斬殺数を374人にまで増大させています。
ところがこれらの記事が報じられる以前に、野田少尉の部隊は南京東方の新唐市に移駐し、野田少尉は1月7日には近くの大阪糸満に宿営しています。
さらに3月には部隊は北支に転進し、野田少尉は航空科に転出している。
つまり、南京付近にはすでにいなかったのです。
いない野田少尉が、南京付近で斬殺などできようはずもない。
要するに、百人斬りは、大新聞が創り上げたヨタ話でしかなかったのです。
ところが、このヨタ話が原因となり、その10年後の昭和22年、両少尉は「南京虐殺」の責任を負わされ、死刑となっています。
大新聞や左翼はよく「冤罪」を騒ぐけれど、自分たちが創り上げた虚構で現実に死者が出たことについて、彼らが責任をとったという話は聞いた事がない。
野田少尉、向井少尉の南京裁判のとき、Chineseたちで満員となった傍聴席からは、ヤジのひとつも飛ばなかったそうです。
むしろ、なんとかして両少尉が助からないものかという空気が、法廷内を覆っていた。
泣く思い
しんしんと落つる
獄の雪
南京の
月光降りて
雪青み
野田毅少尉の遺書にある唄です。
この本は、資料として第一級の価値のある本だと思います。
是非、一册、お手元に置いて、お読みいただくことをお薦めします。
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