人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

相花信夫少尉
相花信夫少尉

昨年夏に発表された日本人の2010年の平均寿命は、男性が79.64歳、女性が86.39歳だったそうです。
女性の平均寿命は、世界一、男性も世界第4位となっています。
日本は、長寿国になったものです。
これは、とても素晴らしいことと思う。
戦時中、昭和20年の平均寿命は、男性が23.9歳、女性が37.5歳だったのだそうです。


戦争がはじまる前は、日清、日露、第一次大戦、China事変等の戦争がありながらも、日本人男性の平均寿命は42歳前後だったといいますから、いかに先の大戦がすさまじい戦いだったかがわかります。
白人至上主義があたりまえのこととされ、有色人種は差別され、収奪され、支配され続けた世界の中で、最後の最後に立ち上がり、死力を尽くして戦ったのが日本でした。
その結果、多くのカラードの国々が独立し、自国の歴史、伝統、文化を復活させ、また国民のひとりひとりが自由と繁栄を謳歌することができるようになった。
日本が最後の戦いとしての本土決戦に挑むことになった少し前、最後の激戦が繰り広げられたのが沖縄です。
沖縄戦は、昭和20年3月から6月末まで、まる4ヶ月にわたる激闘が行われた。
このときすでに制海権、制空権を失っていた日本は、それでも残るわずかな力を振り絞って、沖縄に住む同邦のために、沖縄で戦う戦友(とも)のために、決死の戦いを挑んでいました。
知覧から飛び立った特攻機もそのなかのひとつです。
鹿児島の知覧飛行場から、重たい250kg爆弾を腹にくくりつけた飛行機が、沖縄の沖合に群がる米艦隊に向かって、何度も何度も特攻攻撃を行った。
その特攻隊員として散華された中のひとりに、相花信夫少尉がいます。 
第七七振武隊として、昭和20年5月4日に出撃し、18歳で散華されました。
相花少尉は、東北は宮城県の出身です。
二人兄弟で、兄も陸軍軍人で、中支戦線に向かいました。
弟の信夫も陸軍に入隊し、特攻隊員として知覧基地に赴任した。
信夫がまだ6歳のときのことです。
父は、後妻をむかえました。
後妻は、二人の兄弟の継母となったのだけれど、生母が恋しい二人は、なかなか継母になつかなかった。
継母に対し、乱暴な口も聞いた。
さからいもした。
「おかあさん」となんて、一度も呼んだことなどなかった。
けれど継母は、二人の兄弟を実の子以上に可愛がり、献身的に愛情を注いで育ててくれた。
おそらく、なかなかなついてくれない兄弟に、人知れず涙を流す日もあったことでしょう。
けれど継母は、世間で言うような、継母による先妻の子イジメのようなことは一度もしなかったし、それ以上に兄弟二人に、ひたすら愛情を注いでくれた。
だから信夫も、飛行兵になるくらいだから、頭の良い、出来のいい子供に育ってくれた。
けれど、そんなやさしい継母に対し、兄も、弟の信夫も、なんだか照れくさくて、面と向かって「お母さん」とは一度も呼ぶことができなかった。
表面上は、逆らってばかりいた。
そして相花信夫は、特攻隊員となった。
いよいよ飛び立つことになったある日、相花信夫は、そんな継母に対して手紙を書きます。
手紙は、ノートの二ページに書いた。
一文字も崩さず、楷書で、丁寧に、ひともじひともじに、心を込めて、手紙を書いた。
その手紙が、自分の遺書になることを知って、涙をこらえながら、最後の言葉を書きとめます。
それが次の写真の手紙です。
==========
「母を慕いて」
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言へ世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福だった
ついに最後迄「お母さん」と
呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったらう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大聲で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと。
相花信夫
第七七振武隊
昭和二〇年五月四日出撃戦死
宮城県 一八歳
==========
先の大戦で亡くなられた軍人さん達の遺書。
それは、家族を、祖国を大切に思い、純粋で潔く散って行かれた英霊たちの遺書は、単に彼らの家族に宛てた手紙ではない。
後世に生きる私たち日本人に与えられた永遠の心のメッセージだと思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。

特別攻撃隊<最後の手紙>

よろしかったらクリックを。
 ↓ ↓
人気ブログランキング
【メルマガ会員募集中】
ねずブロのメルマガを購読し、ご一緒に日本の良い話を拡散しませんか?
購読のお申込は↓コチラ↓から。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
日本の心を伝える会 日心会

コメントは受け付けていません。