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新撰組隊旗

「誠」という漢字があります。
では、「誠」って何でしょうか。
何をもって「誠」というのでしょうか。


ボクは、答えは、字の中にあると思っています。
「誠」は、「言」が「成る」と書きます。
ですから、「誠」は、
人から言われたことを、ちゃんと成し遂げる。
自分で言ったことを、ちゃんと成し遂げる。
ことです。
「誠意」は、それを自らの意思をもって成し遂げること。
つまり、究極の責任感と、それを意図的に実現することをもって、「誠」と言います。
上司から一定の職を任せられる。
そしたらそれを、自らの意思をもって、責任もって成し遂げる。
それが「誠意」であり、「誠」です。
成し遂げなかったり、途中で命令や委ねられた職務に背いたり、上長の陰口を言ったり、批判したり、任せられた業務を放棄したりする。
それは、「言」われたことを「成」し遂げないことですから、「誠意」がない。
これを「不誠意」と言います。
自分で「こうする」と決めた。
決めたことを、「やっぱり面倒くさいから、や~めた」と逃げてしまう。
これは、自分で決めた(言った)ことを「成」し遂げないのですから、「成し遂げず」=「不誠意」です。
新撰組隊士は、隊旗に「誠」の一字を掲げました。
なぜ「誠」なのかといえば、「言」ったことは、必ず「成」し遂げるからです。
「隊規に背いた者は切腹」と決めたら、本当に切腹させる。
治安維持のために浪士を斬ると宣言したら、本当に斬る。
新撰組は、「言」ったことを「成す」から、「誠」なのです。
最近、非常に目立つのは、「言」われたことを「成」し遂げようとしない。
あるいは、「言」われたことしかしない。
マニュアルに書いてあることを、そのマニュアル通りにすれば良いと考える。
マニュアルがなければ、やり方がわからないからと、何もしようとしない。
そんな傾向が目立つようです。
では、「言」われたことだけやっていれば、それが「誠」なのでしょうか。
画竜点睛を欠くと言いますが、言われたことだけを通りいっぺんにやっているだけでは、「誠」があるとはいわない。
中味がないからです。
中味がない仕事をするなら、それは「言」われたことの「実」を「成」し遂げようとしないのですから、「不誠実」です。
もっといえば、「誠実」か「不誠実」かは、中味のあることをしているか、していないかでもあります。
では、「中味が」ある、ない、は、何をもって識別するか。
それが「義」です。
「義」という字は、「羊」と「我」という字によって成り立っています。
「羊」というのは、古代においては、神前への捧げものです。
羊を殺して、神に捧げた。
つまり「義」は、「我を殺して神に捧げる」という意味です。
究極の自己犠牲です。
古来、武士道の根幹がここにあります。
戦時中に散華された特攻隊その他の英霊の皆様方の精神の神髄が、この「義」です。
幕末の蛤御門の変で自刃した尊攘派の武士、真木和泉守は「義」についてこう説いています。
~~~~~~~~~
士の重んずることは節義なり。
節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。
されば人は才能ありても学問ありても、
節義なければ世に立つことを得ず。
節義あれば不骨不調法にても
士たるだけのことには事かかぬなり
~~~~~~~~~~
上手に仕事ができる。要領よくマニュアル通りに仕事ができることより、少々不調法であっても、「義」があることの方が大事だというのです。
そして人は、いくら学問があっても、才能があったとしても、「義」がなければ、人の世の上に立つ資格はないと言い切っている。
裏返しに言えば、人の上に立つ者というのは、学問があることや、才能があること以上に、「義」が大事だ、というのです。
先日、Facebookでお友達になった方から、ナイジェリアのお話を伺いました。
日本はナイジェリアに学校を建て、いわゆる読書きソロバンと理科の教育を支援しているのです。
ところがナイジェリアでは、そうした高等教育を受けた弁護士や会計士などが、ひたすら悪事に邁進している。
学問は、単なる儲けるための拝金主義の手段にしかならず、学問のある者、資格のある者は、学問のない多くの民衆を、平気で利用し、収奪し、殺す。
PCの知識もネットでの詐欺に利用するだけだし、「これをしてはダメだ」というと、見てないところでやろうという思考回路しか働かない。
弱肉強食で弱いものから容赦なく取り上げるし、お金のためなら麻薬も運ぶし、人も殺す。
これでは、日本はなんのために教育支援をしているのか、わかりません。
犯罪を増殖させ、巧妙化させ、支援した教育によって、かえってナイジェリアの国情を混乱させているだけです。
戦後の日本の教育の、最大の問題が、ここにあると思う。
要するに、何のために学んでいるのかという教育の根本が、欠けているのです。
ナイジェリアの姿は、日本の近未来の姿そのものでもある。
戦後の日本型教育というのは、そこには「神のために己を捧げる」という、「義」の概念がないのです。
このことは、戦前の日本が、台湾や、東南アジアの国々、あるいは太平洋の島々で、わずかな期間だったけれど、そこで施した教育と、結果に雲泥の差があることを見てもあきらかです。
戦前の教育は「徳義」ある社会を築いたが、戦後の教育は単に知識を与えるだけで、中味がない。
では、戦前の教育の根本にあった「徳義」教育の「徳」とは何か。
「徳」というのは、ギョウニンベンの「彳」に、「𢛳」と書きます。
ギョウニンベンの「彳」は、「人がたたずむ」の意です。
そして「𢛳」は、「悳」であり、「まっすぐな心」を顕わします。
つまり「まっすぐな心で行動することが、徳」です。
では、まっすぐな心とは何かといえば、仁・義・礼・智・信の五常の徳や孝・悌・忠の実践であり、それらは動物にはない、人間が人間であることの証明でもある。
言い換えれば、人としての存在価値は、仁、義、礼、智、信、孝、悌、忠の八つが揃って、はじめて人は、動物と異なる「人」となる。
「義」は、究極の自己犠牲の精神と書きました。
では、「仁」とは何か。
「仁」は、「ニンベン」に、「二つ」と書きます。
人と人との間、二人の人の間にあるものです。
誰かとともに同喜する、誰かとともに同苦する。誰かとともに同泣する心です。
それは、相手をいつくしむ心、同情し、思いやり、親しむ心でもある。
批判を恐れずに、もっとはっきりと言ってしまえば、「義」は、自分の命を犠牲にしてでも神に捧げることだから、「仁義」は、友(兄弟分)のために自らの命さえも捧げるという精神となる。
「礼」は、もともとの古い字は「禮」です。
「示」ヘンに、「豊」と書く。
豊かに人に示すもの、つまり、外形上の秩序の儀式を「礼」という。
ですから「礼」は、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現するものです。
ただし、度を超した「礼」は、非礼となる。
なぜなら「礼」他人に対する優しい気持ちにから発しない、単なる「形式」は、もはや「礼」の名に値しないからです。
「礼」は、単なる「型」ではなく、慈愛と謙遜から生じるものだからです。
上長をつかまえて、自らは何の責任をとる覚悟もなく、平気で批判だけを繰り返す者は、礼をわきまえない痴れ者だ、ということです。
なんだか今日のねずブロは、漢字の講義みたいになってしまっていますが(笑)、あとひとつだけ、「悌」を書きます。
「悌(てい)」なんて、最近ではまったくの死語になってしまっていますが、これはリッシンベン「心」に、「弟」と書きます。
要するに、弟の心で良く兄長につかえること。弟が兄を敬愛すること。
もっとわかりやすく言えば、兄貴をたてること。
そこから派生して、長序の礼をわきまえること、という意となります。
最近では、こうしたまっすぐな心である「徳」(仁、義、礼、智、信、孝、悌、忠)よりも、知識が偏重され、テストでいい点数をとることが勉強であり、学問であるかのように曲解されています。
そして集団の中の「徳」よりも、個人の「自由」が優先されている。
「自由」というのは、「自ら(みずから)、由し(よし=良し)とする」という意味の言葉です。
自分で、「ま、いっか」とするのが、「自由」。
そこから何者にも束縛されない「放縦」が生まれる。
けれど社会というものが、人と人との関係によって成り立っているものである以上、いくら自分はこうしたい(みずから、良しとしたい)と願い行動しても、その行動には、常に責任がついて回ります。
そして、責任というのは、「責」と「任」から成り立っています。
「責」は、「朿(束ではない)」と「貝」からできている漢字です。
「朿」は、「刺(トゲ」」のことで、「刺す」という意味です。
つくりの「貝」は、貨幣(お金)です。
つまり、借りた金を返さなければ、徹底的に責めさいなまれる。痛い思いをしなきゃなんない。
だから、ちゃんと期日には、返さなきゃならない。
それが「責」です。返さなきゃ酷い眼にあわされても構いません、という意味の言葉です。
そして「任」は、「負う」という意味の言葉です。
つまり「責任」とは、成すべきことをなさなければ、結果として痛い目に遭うことを、みずから負担する、という意味で、だからこそ、「自由」には、つねに「責任」がついてまわる。
そして、これが大事なことなのですが、その責任をちゃんとまっとうするという自覚があって、はじめて自由があると考えるのが、保守である、ということです。
では、保守が負担する責任は何に対する責任かといえば、歴史、伝統、文化からくる古来からの我が国の社会規範(これを仮に「法」と呼びます)に対して、きちんと責任をもって行動しようとする責任です。
このことは、裏返しにいうと、わかりやすいかもしれない。
左翼というのは、歴史、伝統、文化よりも、自分たちで作った「法律」を優先しようとする姿勢です。
つまり、左翼にとっては法律が第一であり、「法律>法>人」の順になります。
ですから憲法9条とかの護憲派などという考え方が生まれて来る。
人の命よりも、安定した社会よりも、社会の伝統的価値観よりも、法律である憲法9条が大事、となる。
保守は、法>人>法律と考えます。
日本古来の伝統的価値観が、まず大事であり、そのためには、命をも捧げる。
間違った法律があるなら、それは変えなければならないと考える。
大事なのは、憲法9条ではなく、私たちの生活や子々孫々まで続く命であり、日本社会の伝統的価値観が大事と考える。
そのためには、命をも捧げる。
なぜなら、それが「義」というものだからです。
ですから真性保守というのは、自らの身を省みず。
保守の人達は、日々この国を守るため、私たち日本家族を守るために、身を捨てて「義」を立てる。
言ったことは実現しようとするから、「誠」であらんとする。
それが保守というものであろうと思う。
そしてそれは、保守の人々の個々の自由意思から生まれています。
ということはつまり、保守の人々にとって大切なことは、自由であるということ。
ただし、その自由は、みずから責任を取る自由、すなわち、「責任ある自由」です。
このあたりが、左翼思想とまったく異なる点で、左翼思想にある自由は、単なる「放縦」であり、やりたいようにやらせろ、できないのは自由がないからだ、言いたいことを言わせてもらえないなら、それは言論封殺だ、となる。
つまり、なんら責任を取ることなく、個人の我がままや勝手が「自由」だと考える。
だから悪いのは、全部人のせいにするから、無責任であり、不誠実であり、そこには「義」も「誠」も欠片もない。
まして「徳」など、まるで理解の外となるということのような気がします。
いまの日本では、保守はごくごく少数派です。
前回の参院選では、保守票というのは、140万票程度でしかなかったとさえ言われている。
けれど、だからといって、いまのような無責任な売国政権に、政治を委ねているわけにはいきません。
現状の動きからすると、来年の春から初夏にかけて、衆議院の解散もありそうな雰囲気が出てきました。
おそらく民主党は、もう勝てないであろうとは思いますが、国を憂い、国を想う、本当の政治家が世に出ないことには、日本は、ほんとうに立ち直れなくなる。
ひとりでも多くの人に目覚めてもらいましょう。
そして日本の政界に、保守を取り戻しましょう!
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