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筆子塚の分布図

上の図は何かというと、川崎喜久男さんという方が、昭和47(1972)年から平成4(1992)年まで、20年かけて調べた千葉県下の「筆子塚」の分布図です。
川崎さんは、これをご自身のバイクに乗って、県内の村落をくまなく調査し、なんと全部で3350基の筆子塚を確認しました。
上の図は、その分布図です。
「筆子塚」は、別名を、筆塚、筆子塔、筆子碑、あるいは師匠塚などといいます。
多くが、筆の形をした石で建てられています。
主にお寺の境内などにありますが、古い旧家などでは、自宅の敷地内や門前に、この塚があるケースもあります。
では「筆子塚」とは一体何か。


実は、寺子屋のお師匠さんの塚なのです。
地元で世話になった寺子屋のお師匠さん(先生)がお亡くなりになったとき、教え子たちが自分たちで費用を出し合って供養塔を建てた。
それが「筆子塚」です。

富津市新井の了専寺にある筆子塚
(下の部分に筆子中とある)
筆子塚

寺子屋というと、時代劇などのイメージで、なにやら書道とむつかしくてわけのわからない漢文の素読ばかりやらされていた、といったイメージを持つ方がおいでになりますが、実際は全然異なります。
子供達は5~6歳になると、寺子屋に通うようになるのですが、寺子屋によって多少の違いはあるものの、最初に教えられるのは、行儀作法と、数字だったそうです。
入学した生徒たちは、男女を問わず、はじめに師匠を敬うこと、先輩を尊敬すること、朝の挨拶、夕べの挨拶、食事時の作法など、基本的な行儀作法を学ぶ。
そのうえで筆を持り、「いろは」ではなく、数字を習ったのだそうです。
そして数字の書き方を通じて、筆法を学び、計算を習う。
計算は、足し算、引き算だけでなく、八算(掛け算のこと)、見一(けんいち=割り算のこと)も習得したそうです。もちろんそろばんも教えてくれた。
続いて「名頭(ながしら)」を習ったそうです。
いろいろな名字を教わり、それを読み、書けるようにするだけでなく、授業の中で、それぞれの家のいわれや、故事、歴史なども学んだ。
そのあとが「方角」で、周囲の地名を書いたものを使って、方位や地理、そして各地の沿革や歴史などを習う。
さらに学年が進むと、手紙などの書き方や書き方の作法を通じて季節を学び、さらにビジネス文書の書き方や、仕事や商売をするうえでの心構えを教わったといいます。
学年が進むと男女の教室は別になり、女子には口上文、文の書き方、仮名交じり文、女江戸方角、女消息往来、女商売往来などの講義が行われた。
特に女性の場合は、漢字仮名まじり文で、女性らしい柔らかな文章の書き方や、文を通じ、女性らしさや、行儀作法、和歌などが教えられたといいます。
また、男子は漢文で、実語教(じつごきょう)や、童子教(どうじきょう)、三字経、四書五経などを通じて、漢文の読解を学んだ。
男女とも共通しているのは、単に知識偏重の教育がされるのではなく、人としての在り方や生き方、道徳などが教育の要をなしていた、ということです。
なんだか時代劇などでは、寺子屋というと、幼い子に漢文の素読ばかりをやらせたようなイメージがありますが、もちろんそれもあって、難解なお経のような漢文を、ただひたすらに声を揃えて音読させられたりしたのだけれど、このとき大事なのは、常に姿勢を正すことだったのだそうです。
これは、あえて苦しく辛い状態に子供達を置くことで、子供達に、忍耐力や、我慢する心、耐える心養ったものです。
そして面白いのは、むつかしげな漢文の一言一句を通じ、師匠がその背景や歴史の解説をしてくれた。
これが実に、血沸き肉踊るワクワクの授業で、生徒たちはこうした講義の中で歴史を学び、先人達の生き様や遺訓を学んだ。
こうして生徒たちは師匠から、単に学問だけでなく、人としての生き方や、たいせつな日本人としての心や誇りを学んで行ったわけです。
教える教師(師匠)は、明治初期に東京府が小学校整備のため実施した寺子屋の調査書があるのですが、そこには寺子屋の教師(師匠)726名分の旧身分が記録されています。
おもしろいのは、ほとんどが平民(町人)の出身だったこと。そして女性の師匠も86名が記載されていることです。
寺子屋では、多くの場合、教科書は、師匠さんや兄弟子たちが、書写し、下級生たちに与えた。
もちろん、紙代その他、費用もそれなりにかかります。
では授業料はどうだったかというと、いまの学習塾や学校のように、定額のお金を納付するというものではなく、多くの場合、生徒の親たちが、米や野菜、ときたまお金などを、任意で物納していたのだそうです。
親たちは、子供を教育してくれている師匠さんに、そうして感謝の心を捧げる。
教える先生(師匠)は、極端な話、生徒の親たちに食べさせてもらっているわけですから、これまた親たちへの感謝をこめて、誠実に子供達を教育する。
「先生のところに通わせたら、ウチのセガレが、とんでもなく立派な子に変って来た、ありがとうございます」、というのが、教師にとってもっとも嬉しい言葉だったし、そういう教育を行うために、師匠さんも、生涯身を律して、立派に生きようと努力した。
そしてお師匠さんは、生徒たちにとって、生涯の、まさに人生の師匠となっていったわけです。
だからこそ、大人になった子供達が、師匠が亡くなったとき、その師匠への感謝を込めて「筆子塚」を建てて、遺徳を偲んだ。
そうした塚が、千葉県だけで3350基、全国でいったら、どれほどの数があるのかしれない。
おかげで日本人の教育レベルは、極端に高く、たとえば江戸時代の識字率は9割を超え、同時代の世界を見渡しても類例がないほど格段に高いものとなっていました。
幕末に黒船でやってきたペリーは「日本遠征記」の中で、次のように書いています。
「(日本は)読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」
そしてペリーは、日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の本好きと識字率の高さに驚いたと書いている。
また、万延元(1860)年に来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー(エルベ号艦長)も「航海記」で、
「子供の就学年齢はおそく7歳か8歳だが、彼らはそれだけますます迅速に学習する。
民衆の学校教育は、中国よりも普及している。
中国では民衆の中でほとんどの場合、男子だけが就学しているのと違い、
日本ではたしかに学校といっても中国同様私立校しかないものの、女子も学んでいる。
日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも読み書きができることで、われわれを驚かす。
民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。
世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」と書いています。
文久元(1861)年に函館のロシア領事館付主任司祭として来日したロシア正教会の宣教師ニコライは、日本に8年間滞在し、帰国後、日本について雑誌「ロシア報知」に次のように寄稿しました。
「(日本では)国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている。
この国では孔子が学問知識のアルファかオメガであるということになっている。
だが、その孔子は、学問のある日本人は一字一句まで暗記しているものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知っているのである。
(中略)
どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他のおもだった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない。
(中略)
読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。
日本人は文字を習うに真に熱心である」
ついでにもうひとつ。
慶応元(1865)年に来日したドイツのシュリーマン(トロイアの遺跡発掘で有名)は、日本の印象として、
「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。
シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」
いやはや寺子屋の実力たるや恐るべしです。
明治41(1908)年に、日本人781人が初のブラジル移民をしたのだけれど、同年6月25日のコレイオ・パウリスターノというブラジルの新聞は、日本人の識字率の高さについて、次のように書き記しています。
「移民781名中、読み書きできる者532名あり。
総数の6割8分を示し、249名は無学だと称するが、全く文字を解せぬというのではなく、多少の読書力を持っているので、結局真の文盲者は1割にも達していない」
ちなみにこの時代の「読み」というのは、読みやすい「活字」ではなく、崩し文字の筆文字です。
江戸時代の高札や、書籍など、現代人にとっては、まるで暗号文のように難しいけれど、ああしたものを、女性を含むほぼすべての日本人が、ちゃんと読み書きできたというのですから、すごいです。
そして、なにやら読み書き識字のことばかりが評価されていますが、江戸から明治、大正、昭和初期までの日本人の暗算能力は、世界でみてもずば抜けて高かったそうです。
そしていちばん大きいのは、さきほどのブラジルの新聞のコレイオ・パウリスターノの記載ですが、そこには「日本人の驚くべき清潔さと、規律正しさ、物を盗まないこと」などが、実に驚くべきこととして書かれていることです。
古来、日本の教育は、単に知識を詰め込むのではなく、知識を経由して「人格教育」が行われていきたのです。
だからこそ、寺子屋の教師は、先生ではなく「師匠」だった。
戦後の教育は、日本人の精神性の破壊を企図したGHQと、その影響下でできあがった日教組教育によって、教育といえば知識偏重教育に偏り、いまでは道徳などは劣後的な扱いになっています。
けれど、それは実にとんでもない話で、むしろ知識は、人として生きるため、まさに道徳のためにあるといっても過言ではないと思う。
いま、ユネスコが世界寺子屋運動をいう活動をしています。
現代社会においても、いま、世界で、学校に通えない子供が約6700万人、読み書きのできない大人が、約8億人いる。
そうした人々に、寺子屋を作り、教育の場を提供しようという運動です。
発展途上国においては、読み書きや計算ができない、注意事項やマニュアルが読めないということは、日雇いなど過酷な労働条件の仕事にしかありつけないということを意味する。
けれどそうした仕事は、季節や天候、雇用者側の都合で左右され、安定した収入もない。
基礎的な教育がなければ、労働者としての権利や、賃金や労働条件もわからない。
わからないから騙されるし、収入も安定しない。
だから、貧困が国を覆い、結果、社会風土が殺伐となり、内乱や戦乱が相次ぐ。
そうした現状をなんとかしようと、開始されたのがこの寺子屋運動なのだそうです。
このことについて、ユネスコのホームページに、次の記載がありました。
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【世界が抱える教育問題】

世界寺子屋運動 – 公益社団法人日本ユネスコ協会連盟

公益社団法人日本ユネスコ協会連盟では、世界寺子屋運動・世界遺産活動・未来遺産運動・東日本大震災子ども支援募金などの活動を行っています。

ネパールに住むタラマティ・ハリジャンは46歳。
たった12歳で結婚し、わずか16歳で出産した。
学校にも通えず、ただ家事をこなすだけだった。
寺子屋に通い、41歳ではじめて文字の読み書きができるようになると、
彼女は女性の権利を守る活動に参加するようになる。
自分と同じような境遇の女性をひとりでも救いたい、そんな想いで。
寺子屋が変えた人生が、他の誰かの人生を変えて行く。
ネパールでは、いまだ44%の女性が非識字者である。
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読み書きができる、ということは、とても大切なことだと思います。
社会が成長するためには、その基礎として、人々が読み書き、計算がちゃんとできることが必要だからです。
けれど、それだけでは画竜点青を欠くことになるのではないかと思う。
人の道、徳育があって、はじめて社会は高度に成長するものとなる。
戦後の日本がいい例です。
戦前の徳育教育を受けた世代が社会の中核をなしている間、まるで焼け野原だった日本は、あれよあれよと言う間に、ぐんぐんと成長し、ついには世界第二位の経済大国にまでなってしまいました。
ところが、戦後世代が社会の中核をなすようになった昭和60年代以降(終戦から35年が経過し、社会が戦後世代に完全に受け継がれた)、日本の成長はまるで急ブレーキをかけたかのように止まり、いまでは、日本はどんどんと貧しい国になっていこうとしています。
そればかりか、子供達の教育レベルの低さは、いまや目を覆わんばかりです。
日本では、すでに平安時代中期には「村邑小学」という名の民間教育機関の記録が残っている。
律令国家の形成にあたっても、やはり中核をなしたのは、国民の教育です。
だから万葉集にも、一般庶民の和歌がたくさん掲載されている。
思うのですが、いまの学校の先生たちが、お亡くなりになったあと、生徒たちから遺徳を偲んで筆子塚を建立されるようになることなど、あるのでしょうか。
逆に教育者の立場からしたら、自分の死後、教え子たちから筆子塚を建ててもらえるなんて、もったいないほどありがたく、また嬉しく、そして名誉なことなのではないかと思う。
そういう教育が、昔の日本には、たしかにあった、ということ。
そのことを、私たちはいまいちど、思い返してみる必要があるのではないかと思います。
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