
首都高を横浜方面から1号羽田線で東京方面に向かって走ると、やがて東京モノレールと高速が平行しては知る所が出てきます。
そしてレインボーブリッジの少し手前くらいのところに、高層ビルの「第一ホテル」の薄茶色のビルが見えて来る。
実は、そこは四号お台場で、明治から大正にかけて、造船所があったところです。
造船所の名前は、「緒明造船所」。
これは、我が国近代造船業の発展に尽くした伊豆・戸田村出身の緒明菊三郎の所有する造船所だったのです。
隅田川に浮かぶ、一銭蒸気船というのを聞いたことがある方もおいでになろうかと思います。
これも緒明菊三郎が開始したものです。
もともとこの緒明菊三郎という人は、伊豆の戸田のご出身です。
生まれは弘化2(1845)年、江戸時代の後期にあたります。
年号は、弘化から嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と続き、明治時代に至る。
生家は、代々戸田の船大工の家です。
もちろん平民ですから、名字はなかった。
ですから父は戸田村の嘉吉さんだったし、子の菊三郎も、戸田村の嘉吉さんとこのセガレの菊三郎だった。
緒明(おあけ)という名字は、たいへん珍しい名字だけれど、これは明治のはじめ、平民も名字を名乗りなさいということになったときに、菊三郎が付けた名字なのだそうです。
で、なんで「緒明」かというと、船大工をしていた家は、たいへん貧しく、母が内職をして家計をたすけていた。
その内職というのが、下駄などの鼻緒(はなお)を作る仕事です。
着物は、だいたい60~70年、孫の代まで持たせて着るのだけれど、最後は捨てずに、さばいて下駄の鼻緒にする。
その鼻緒を、母が夜明けまで一生懸命作っていた。
だから、鼻緒を夜明けまで、で「緒明」という名字にしたのだそうです。
このころの菊三郎は、榎本武揚の世話で、蒸気船を隅田川に浮かべ、乗り賃一銭で大繁盛するちょっとしたお金持ちになっていた。
けれど、貧しかった時代のこと、苦労して自分を育ててくれた母の恩を、自分の生涯だけでなく、子々孫々にまでその心がけを忘れないようにと、名字を緒明にしたのだそうです。
そのおかげか、緒明家は、造船王として大成した菊三郎の後も、静岡銀行頭取を出したり、また、いまのご当主の母親はなんと西郷隆盛のお孫さんなのだそうで、代々、家は隆盛を極めている。
こういう話を聞くと、いつも思うのは、人は木の又から産まれたのではない、ということです。
父がいて、母がいて、兄弟がいて、親戚がいて、つまり「家」があって、はじめて自分がいまここにいる。
戦後日本は個人主義が礼賛され、家というのはなにやら暗く、じめじめして若者を苦しめるだけの存在といったようなひじょうに一方的な見方が主流になっているけれど、やはりそれは違うと思う。
家があり、家族があっての自分という、日本古来の家族主義を、私たちはもういちど取り戻さなくちゃならないのではないかと思う。
さて、その緒明さんが、どうして蒸気船ビジネスなど始めることになったかというと、これにはワケがあります。
菊三郎が10歳のとき、ロシアの全権大使、プチャーチン提督の乗ったロシアの最新鋭戦艦「ディアナ号」が、駿河湾で難破し、海に沈んでしまったのです。
プチャーチンは、皇帝ニコライ一世の命令で日本にやってきたロシアの提督です。
当初、嘉永6(1853)年7月、ちょうどペリーが黒船に乗ってやってきた1ヶ月半後、彼は4隻の艦隊を率いて長崎に来航したのです。
そこで長崎奉行に皇帝からの国書を渡し、国交を求めたのだけれど、なかなか幕府からの回答がない。
困っているプチャーチンに、なんと大英帝国の大艦隊が、プチャーチン一行を攻めにやって来るという情報がもたらされます。
この時期、ロシアは黒海の北側で、オスマン帝国とクリミア戦争をしていたのです。
英国は、オスマン帝国側に付き、ロシアと激しく対立した。
このクリミア戦争で行われたのが、有名なセバストポリ要塞をめぐる大激戦です。
このセバストポリの戦いについては、以前「セヴァストポリの戦いと旅順要塞戦(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-820.html)」で詳しくご紹介させていただいていますので、よろしかったらご参照ください。
とにかく二百三高地など比べ物にならないくらいの大激戦と大量の戦死者を出す壮絶な戦いが、当時、英国とロシアで繰り広げられていた。
その英国が、艦隊を差し向けるというのですから、プチャーチンにしてみれば、こうなると日本どころではありません。
そこで彼は、この年の11月に、長崎を引き払って上海に向かった。
ところが上海で情報を集めてみると、どうやら大英帝国の艦隊は来ないらしいとわかった。
そこでプチャーチンは、嘉永6年12月に、再び日本にやって来て、こんどは幕府全権の川路聖謨、筒井政憲らとと交渉し、とりあえず将来日本が他国と通商条約を締結した場合に、ロシアにも同一の条件の待遇を与えるなどと話をつけます。
日本にしてみれば、とりあえずの口約束でなんとかロシアを体よく追い払えたから成功といえるし、プチャーチンにしてみれば、日本がどこかの国と条約を結べば、ロシアも同一条件で条約する約束を取り付けたのだから、一定の交渉の成果はあったとすることができる。
こういう、両方が納得できる一定の線を上手にまとめるというのは、戦後の日本では「そういうのは玉虫色の決着てーの」などと馬鹿にされ続けてきたけれど、実は、最近のアメリカでは、もっとも進んだ先進的合意技術として両方が満足する「WIN-WINの関係」というのが極めて高い評価を得るようになってきています。
つまり、日本では玉虫色などといってコケにされ続けて来た「双方得」という実に日本的な解決法が、世界では様々な試行錯誤の結果、一方の勝者が敗者からすべてを奪うという弱肉強食型解決法よりも、はるかに進んでいる素晴らしい解決法としてまさに絶賛されている。
こうして一定の成果を得たプチャーチンは、嘉永7年1月に、フィリピンのマニラに向かい、そこで老朽化した旗艦パルラダ号から、新造艦の戦艦「ディアナ号」に、船を乗り換えます。
そしてディアナ号以外の船を、万一の大英帝国艦隊との決戦に備えて沿海州に残し、プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本にやってきたのです。
これが、嘉永7年8月のことで、大阪奉行と会って交渉するのだけれど、ここでもやはり海外との交渉の権限はないという。
そこで大阪奉行の薦めに従って、彼が向かったのが、伊豆の下田です。
こうしてプチャーチンの乗ったディアナ号は、嘉永7年10月に下田に入港する。
報告を受けた幕府は、再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣し、プチャーチンとの交渉を行います。
ここで事件が起こった。
下田で交渉中に、安政の東海大地震が起こったのです。
地震の規模は、マグネチュード8.4。震度7の強震です。
この地震は、直下型で、地面に腹這いになっても、振動で振るいあげられたというから、その恐ろしさたるや、推して知るべしです。
この地震の震源地は遠州灘沖です。
津波は、なんと最大23メートルに達したという。
当然、下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波で大破してしまいます。
ところがプチャーチンの偉かったのは、この津波で自船もたいへんな被害に遭い、乗員にも死者が出たにもかかわらず、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医がこれを看護したことです。
このことは幕府も、たいへん好感を持って受け入れてくれた。
まだまだ余震は続いていたけれど、とりあえずは船の修理をしないことには、艦が動けません。
そこでプチャーチンは、船の修理を幕府に要請する。
要請を受けた幕府は、伊豆の戸田村を修理地と決め、ここへディアナ号を曳航することにします。
曳航には、由比ケ浜あたりの漁民たちが手伝い、漁船100隻あまりで、巨大なディアナ号を綱に結んで引っ張ります。
ところが、ちょうど由比ケ浜と戸田の中間地点くらいで、ディアナ号は高波に襲われ、船体に大穴が空いて、浸水してしまう。
もはや沈没するしかないと悟ったプチャーチン以下の乗員たちは、船を降りて、日本人漁師たちの小さな漁船に分乗します。
そして、ディアナ号は、ついに沈没してしまう。
さてここからです。
幕府は、戸田の船大工たちに命じて、プチャーチンが持っていたディアナ号の設計図を元に、代替船を建造することにしたのです。
日本で初めてこれが日本ではじめて建造された西洋式木造大型帆船です。
全長24.6メートル、排す量88トン。
まったく前例のないこの大型船を、なんと日本人の船大工たちは、たったの3ヶ月で建造してしまいます。
日本人の技術や恐るべしです。
プチャーチンは、船大工たちの働きにおおいに感激し、新しくできた艦に、戸田の船大工たちへの感謝をこめて、「HEDA号(戸田号)」と命名します。

ちなみに、この建造作業の中で、まず「材木加工」については、日本の大工によってまったく問題なく、手際よく行われたといいます。
ところが「ボルト」などは、それまで日本では作られたことがないので、製造にはとても苦労したようです。
一方、ロシア側は、日本の船大工の使う墨壺の便利さに、驚嘆していたそうです。
そして、安政2(1855)年3月、日露通商条約をまとめたプチャーチンは、この戸田号に乗ってロシアに帰ります。
さて、この後のことです。
戸田号の建造に携わった船大工たちは、西洋式大型艦の製造について、竜骨からの組み上げや、タールの抽出方法、船底銅板を張る際にタールを用いる技法など、建艦に欠かせない種々の技術を習得します。
なかでも中心人物となった戸田の船大工の寅吉(とらきち、後年名字が許され、上田寅吉となる)は、そのまま長崎海軍伝習所に入学。
文久2(1862)年には、榎本武揚らとオランダへ留学し、さらに明治維新後には、横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮するという大出世をしています。
父親の嘉吉が、上田寅吉とともに戸田号を造ったというご縁で、江戸に出てきた緒明菊三郎は、墨田川で、和舟に小さな蒸気エンジンを乗せ、これにひとり1銭で乗れるという一銭蒸気船の商売を始めます。
まだ黒船が来てから何年も経っていない頃のことです。
隅田川に浮かぶ船は、みんな昔ながらの和舟でしかない。
そんな時代に、蒸気船が隅田川に浮かび、しかもそれに乗れるというのです。
これには当時の江戸っ子たちが大喜びした。
いや、そういう船なら、ボクだって乗ってみたいと思う。
おかげで、一銭蒸気船は、連日行列ができるほどの大繁盛となります。
そして菊三郎は、たいへんなオカネモチになる。
そんな折りに、四号お台場が何も使われていないので、明治政府がこれを貸し出そうということになった。
創業したての明治政府は、実は当初は、たいへんな金欠政府でもあったのです。
で、榎本武揚から相談を受けた上田寅吉が、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎に、ここを買わせ、そこで我が国初の西洋式本格造船所を造ろうと提案した。
こうしてできたのが、冒頭でご紹介した、四号お台場の「緒明造船所」です。
ちなみに、いま、国の重要文化財に指定されている3本マストの帆船「明治丸」は、明治政府が英国から買った船なのだけれど、買った当時はマストは2本でした。
これを三本に改造した場所が、石川島で、そのときの改造の責任者が、緒明菊三郎です。
それにしても、いろいろな人がいろいろなところでつながり、そしてひとつの時代を築いている。
ひろいようでいて、実は狭くて、人間関係が濃密なのが日本社会の特徴でもあります。
人間は、ひとりじゃない。
みんながなんらかの関係で、互いに関係しあって行きている。それが日本です。
だからこそ、ひとりひとりがより良く生きようとする。
だからこそ、職場などでも、仕事そのもののスキル以上に、人を育てようとした。
それが日本という国であるようにも思います。
母が夜明けまで編んでいた鼻緒。
どんなに自分が大成したとしても、未来永劫、決してその母の姿を忘れまいとした、明治の気骨のひとつが、ここにあるような気がします。
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この「かあさんの歌」の歌いだしで、「かあさんがよなべをして」というのがありますが、ウチの若い子に話したら、「母さんが夜、鍋をして?」と聞き返されました。
ちがうんだなぁ~!!(笑)
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