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永野修身
永野修身

永野修身(ながのおさみ)のことを書いてみようと思います。
といっても、日本海軍で、海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長の3重職を全て経験した、ただひとりの人です。
元帥閣下でもある。
有名人なので、これをお読みのみなさんの方が、ボクなどよりはるかに詳しいかもしれません。
たいへんな経歴の持ち主なので、そのひとつひとつのエピソードをご紹介したら、それこそ一冊の本になってしまいます。
なので、ボクが永野修身の人生の中で、さすがだな、すごいな、と思ったことをすこし書いてみたいと思います。


永野修身は土佐の人です。
ちなみに一番尊敬していた人が、同郷の坂本龍馬だったとか。
もっとも永野自身は、土佐藩の士族(上士)の家柄で、明治13(1890)年生まれ、高知海南中学(現・高知県立高知小津高等学校)を卒業後、海軍兵学校に入学しています。
入学時、卒業時とも、成績は2番。とても優秀な方でした。
そして24歳のときに、日露戦争を戦っています。
開戦のときは、巡洋艦香港丸乗務でしたが、その後、旅順旅順要塞攻撃の海軍陸戦重砲隊の中隊長に任官しています。
司馬遼太郎が日露戦争のことを描いた「坂の上の雲」では、旅順要塞を20センチ砲で陥落させた後、要塞から眼下に見える旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊にすかさず砲撃を加え、敵艦隊をあっという間に撃滅してしまったかのように書かれていますが、実は、これは事実とかなり様子が異なります。
そもそも旅順要塞から、旅順港は見えません。
見えるわけなどないのです。そんなところに要塞なんて作らないです。
そもそも旅順要塞は、旅順港に停泊するロシア艦隊を護るために、ロシアが築いた要塞です。
要塞から旅順港が見えるのなら、要塞を攻めようとする敵(この場合日本軍)からも、港が見えてしまうわけで、それなら日本は何も苦労して旅順要塞など落とさなくても、要塞の近くからロシア艦隊に砲撃を加えれば良い。
つまりどういうことかというと、旅順要塞というのは、旅順港を背後から攻撃しようとする敵を、後ろからやっつける位置にあるわけで、ですから、要塞の位置は、山二つ分くらい、港の後方にあります。
何年か前、ボクはChinaで、この旅順要塞の跡地に立ってみたのですが、実際、旅順港なんて遠くの山の彼方にあって、とてもじゃないけれど視認できるような場所ではありませんでした。
ついでに言うと、いまでもこの旅順要塞跡地には、乃木大将が建てた、ちょうどライフルの銃弾のような形の記念碑が立っています。
そこまではいいのですが、その脇に、中国共産党が建てた石碑があって、そこには、
「かつてこの地で、日本人とロシア人が意味のない殺し合いをした云々」との記述があった。
あまりに腹が立ったので、写真を撮ることも忘れて、後ろから思い切り石碑を蹴飛ばしたら、足が痛かった(笑)。
それにしても、この跡地は、日本人は立入り禁止区域となっているとのことだったけれど、こんな石碑が建っているのでは、さもありなんと妙に納得したものです。
話がついつい脱線してしまいましたが、要するに、旅順要塞から旅順港は、すくなくとも「眼下には見えない」わけです。
さりとて、そもそも日本軍の戦死者約5050名、負傷者約1万6930名という莫大な損害を出してまで旅順要塞を攻略したのは、旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を、なんとしても殲滅しなければならないからです。
もちろん、旅順要塞の先にある山を越せば、旅順港は眼下に見下ろせます。
そこからなら、百発百中で、港にいるロシア艦隊を沈めることができる。
けれど、そのためには、旅順要塞と旅順港の間にある山を2つも越えなければならず、しかもその山は雑木林で、道すらない。
そんなところに、ドでかい大砲を運ぶとなれば、まずは大砲が通るための道を造成し、しかる後に砲撃を加えなければならない。
けれどそんな悠長なことをしていれば、旅順港にいるロシア艦隊は、日本がのんびりと道を造っている間に、とっとと逃げ出してしまいます。
そしてこのロシア太平洋艦隊が、欧州からやってくるロシア・バルチック艦隊と合流したら、もはや日本海軍に勝算はありません。
そうなれば、日本は制海権を失い、大陸にいる日本陸軍は退路を断たれ、補給を失い、ロシアの大軍の前に全滅してしまう危険すらある。
日本としては、何が何でも、すぐに旅順港にいるロシア艦隊への砲撃を開始しなければならなかったのです。
このとき、一介の海軍重砲隊の中隊長がひとつの案を出します。
そしてそれが採用になる。
案を出したのが、若き日の永野修身です。
彼は、重砲隊指揮官の黒井悌次郎大佐(のち大将)に、座標をもとにして、二〇三高地から着弾地点を観測し、無線連絡で着弾点を補正する方法を提案したのです。
そして自ら、着弾観測と照準補正連絡のために、港の見える最前線まで赴き、そこで着弾点座標修正の陣頭指揮を執り、砲撃を大成功に導いています。
もともと永野修身は、兵学校時代から「創意と意欲の塊」と称された人で、その創意工夫が、この二〇三高地でも、活かされたわけです。
ただ、この件について補足しなければなないのは、軍という、大勢の専門家が参画するプロ集団の中にあって、普通なら一介の中隊長の意見など、採用になることはまず、ない、ということです。
会社勤めをしていても、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいなど、「良い案」を持つ人はたくさんいます。百人の社員がいれば、おそらく百通りの方法論がある。
けれど問題は、自分の持つ「良い案」を、いかにして「通すか」です。
具申した意見が良ければ採用となるなどというほど、世の中、甘くないのは、少し社会経験のある人なら誰でもわかることです。
しかも昨日今日、学校を出たばかりの、まだ青二才だった永野修身が、その意見を述べ、そして「通した」ということは、それだけ彼の日頃からの言動が、上官をして「なるほど」と思わせるだけのものがあったということです。
このことは非常に大切なことで、昨今では「意見が通らないから」と、拗ねたり、逆に上司の悪口を言ったりするような情けない行為が、まるで市民権を得ているようだけれど、そうではない。
意見を通すには、その意見の内容が正鵠を得ていることと、さらに、日頃からの上司との信頼関係がきちんと成立していなければ、通るものも通らない、ということです。
そして見事に、永野修身は、自身の意見を通し、無線通信によって弾道を補正するという案を、軍に採用させたのです。
そしてこれもまた、実にたいへんなことです。
無線通信といっても、当時はまだ、トンツートントンのモールス信号の時代です。
現代のように、音声通信ができる時代ではない。
また、当時の大砲は、いまのうようなGPS搭載で、弾が勝手に軌道修正して目標に命中するなどというようなものでもありません。
砲撃は、大砲の方位を合わせ、相手との距離から仰角と火薬の量を調節し、その上で命中させる。
発射した大砲の弾の着弾地点を見て、具体的に方位何度、仰角何度修正、しかもその修正をモールス信号で無線で知らせ、その上で「撃て~!」とやるわけです。
最前線で着弾地点の観測をする永野は、瞬時にこの方位、仰角の修正角を暗算し、その修正角を無線で指示した。
後方で大砲を撃つ砲術班は、その指示通りに、見えない敵艦をめがけて、大砲を発射する。
永野の指示した弾は、ことごとくが命中だったといいます。
まさに、プロの技、匠の技ともいうべき活動だった。
後年、海軍軍令部総長にまで出世した永野だけれど、彼は、単に頭がよく、人柄も良くて、体力、気力にも恵まれ、軍事に関する技量にも恵まれていただけでなく、若い頃からたいへんに義侠心が強く、一時は清水次郎長一家に本気で弟子入りしようとしたというくらい、侠気のある男だったそうです。
だからこそ、日露戦争、第一次大戦、China事変と、度重なる戦の中で、多くの部下を失いながら、そのことの重みや辛さを一番わかっている人でもあった。
だからこそ彼は、大東亜戦争の戦時中、軍令部総長として、実務は次長以下に任せながら、自身は戦没者の墓碑銘を日々、書き連ねていた。
よく「軍人は戦争好き」などとバカなことを言う人がいるけれど、軍人ほど戦争の厳しさを知り、戦争回避を願う者はいないと言っていいと思う。
大東亜戦争の開戦にあたっては、永野は終始一貫して、米国との戦いにおいては、太平洋まで出て米国と直接対決するという案に、「余りにも博打すぎる」として、反対し続けています。
最終的には、山本五十六らが「太平洋に出て行くという作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職する」と永野に詰め寄り、結果としてこれを承認しているけれど、彼は、むしろ南方資源地帯の確保と、本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦でいくべきとの考えでした。
このことは、戦争が終わってみての結果論にすぎないけれど、結果から見れば、永野の案の方が正しかったのではないかと思う。
なぜなら、大東亜戦争において、日本はあまりにも太平洋に戦域を広げすぎていたと思うからです。
このことは、旧陸軍の生き残りの士官の方などのお話を聞くと、常に言われることでもあります。
「南方資源地帯の確保と陸軍の活動の支援に徹していれば、日本はミッドウエーでの大博打もなく、資源の確保も確実に行え、制空権、制海権を失うこともなく、陸軍の多くの将兵を飢え死にさせることもなかったのではないか。日本が負けたのは海軍があまりにも戦域を太平洋に広げすぎたためだ」というお話は、旧陸軍の関係者の方々が口を揃えておっしゃられることでもある。
結果として、永野は山本五十六らに押され、真珠湾攻撃と太平洋の島々への出撃を許可したのだけれど、戦後、東京裁判においてA級戦犯とされた永野は、裁判中、自らにとって有利になるような弁明を一切していません。
そして真珠湾攻撃の責任の一切は自らにあるとし、戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言は一切なかった。
その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンは「マーシャル永野こそ、真の武人である」と絶賛を惜しまなかったといいます。
いま、永野修身閣下は、靖国神社に祀られ、墓所は、東京都世田谷区の浄真寺と、地元高知の筆山墓地に置かれています。
その永野が、開戦前に述べた言葉が、昨日の記事でご紹介した、以下の言葉です。
~~~~~~~~
アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、
戦うもまた亡国であるかも知れない。
すなわち戦わざれば亡国必至、
戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国である。
が、戦って護国の精神に徹するならば、
たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、
われらの子孫はかならず再起三起するであろう。
~~~~~~~~
その子孫とは、私たちのことです。
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