
西住小次郎大尉のことを書いてみたいと思います。
昭和の「軍神」第一号となられた方です。
西住大尉といえば、昭和15(1940)年に、松竹が菊池寛原作の映画「西住戦車長伝」を上映しています。
この映画は、上原謙主演で、その年第二位の興行成績を出しました。
原作もさりながら映画でも、西住小次郎大尉は歴戦の勇士として描かれています。
そしてとても部下思いのやさしい士官として描かれています。
ところが同じ人物を戦後、司馬遼太郎が「軍神、西住戦車長」という題で小説にしました。
こちらの小説では、西住大尉は取り立てて才能のない従順そのものの男として描かれています。
実際のところは、どうだったのでしょうか。
西住大尉は熊本県甲佐町仁田子のお生まれです。
桜島の大爆発とともに産声をあげたというから、産まれたときから、武門と縁が深かったのかもしれませんね。
実は、父も祖父も西南戦争に参加しており、江戸時代は西住家は、れっきとした武家の家柄です。
昭和9(1934)年、陸軍士官学校を卒業して、宇都宮の歩兵第59連隊に入隊した西住は、同年10月に少尉に任官すると、昭和11(1936)年から、久留米の戦車第一連隊所属となりました。
ここは、国産初の戦車である「八九式戦車」の部隊です。

そして中尉に昇進した西住は、昭和12(1937)年には戦車第5大隊配下の戦車小隊長として第二次上海事変に出征しました。
そして、Chinaの呉淞から、宝山攻城戦、月甫鎮の戦い、羅店鎮の戦いと転戦しています。
なかでも同年10月21日の大場鎮の戦いでは、敵陣の真正面約150メートルの地点まで進出し、そこから戦車の大砲を猛射して戦況を切り開くという離れ業をやってのけています。
この戦いでは、大場鎮の手前にある小さな村が戦局の要衝となったのだけれど、敵軍は準備万端整えて日本軍を待ち受けていたのです。
日本軍が猛攻をしかけるのだけれど、なかなかそこを抜けない。
そのとき西住中尉が、2台の戦車で敵陣の真正面に進出しました。
そしてなんと連続9時間も、そこから大砲を撃ちまくったのです。
これにより、敵陣は崩壊し、敵の守備兵は算を乱して逃げ出しました。
これが突破口となり、大場鎮は陥落しています。
この戦いで、大殊勲を挙げた西住中尉は、一転して事後報告はたいへん控えめで、戦績を誇るという風がまるでなかったそうです。
平素は万事控えめなのです。けれど彼は、いざ戦いとなるとまさに鬼神も恐れる勇猛ぶりを示す。
そういう男だったのです。
大場鎮の戦いのあと、蘇州河に進出した西住大尉は、反転して南翔攻城戦に参加しました。
必死で防戦する敵のため、戦闘は膠着状態になってしましました。
ここでも西住中尉は、戦車で果敢に敵の真正面に突入しています。
ところがこのとき、敵のはなった砲が、なんと西住大尉の戦車を直撃しました。
中尉の戦車は、このため戦車正面に大きな穴が空いてしまいます。
普通ならそこで戦車を放棄して、後方に下がるところです。
しかし西住中尉は、狭い戦車の中で操縦手と射手を左右の側壁に隠しながら、自分は天蓋にぶら下がり、その状態でなおも2時間近くも戦闘を継続しています。
この戦いの最中、部下の山根小隊を見失ってしまうのだけれど、そのとき西住中尉は、敵前で敵弾がうなり声を上げる中を戦車から飛び降り、真っ暗な前線で声を限りに部下を探して呼び続けています。
あとでわかったことなのですが、山根小隊は単に引き揚げルートを間違えただけで、西住隊とは、無事合流していたのでした。
このとき西住中尉は、「良かった良かった」と、山根隊の無事を喜んで、男泣きに泣いています。
本気で部下を心配していたのですね。
その本気で心配していた西住中尉は、声を限りに部下を捜している最中に、敵弾で左足を撃たれています。
やむなく軍靴の長靴を脱いだ西住中尉は、下駄を左足に縛り付けて、部下を捜し、そして戦闘を継続しました。
そして戦闘後、自分の痛む傷をほっておいて、重傷を負った部下のために、野戦病院で付きっきりで看病してたそうです。
そして怪我もまだ癒えないうちに、続けて南京攻城戦に参加した西住中尉は、南京城占領後、続けて徐州作戦に向かいました。
この徐州作戦の最中、それは昭和13年5月17日なのだけれど、中尉は、宿県南方の黄大庄付近で、敵陣に数十メートルというところで、乗っている戦車が手前の小川に阻まれてしまいます。
西住中尉は、小川の深さを測るため、戦車を飛び降りました。
そしてようやく戦車の通れる地点を見定め、そのことを中隊長に報告しようと走り出だしたとき、敵の銃弾が西住中尉の右太ももを貫通しました。
銃弾は、西住中尉の左大腿部の動脈を切断しました。
出血がとまらない。
急いで部下が集まって中尉を戦車に救い入れて介抱しました。
しかし動脈出血は、止めようがありません。
死を悟った西住中尉は、中隊長に、
「中隊は左から攻撃しなければいけない」
と報告しました。
そして、近くにいた部下の高松上等兵に、
「お前らとわずか1年で別れるとは思わなかった。
立派な軍人になれよ」
と言い残しました。
そして再び中隊長に、
「お先に失礼します。
どうかしっかりやって下さい」と言い残しました。
そして母に向けて、
「お母さん、小次郎は満足してお先に参ります。
これからお一人でお淋しい事と思います。
永い間、可愛がっていただきました」
姉には、
「姉さん、いろいろお世話になりました」
弟には
「弟よ立派に」
と言い残して、こと切れました。
それは、前進する戦車の中でのでき事でした。
西住小次郎中尉、享年25歳。
西住中尉は、Chinaの戦地で負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という苛烈な戦いを行いました。
そして戦死ときの階級は中尉だったのだけれど、特進して大尉となりました。
このため、一般には、西住大尉として知られています。
亡くなられた西住小次郎大尉は、戦闘中にはいつも戦車の中に、吉田松陰の歌を貼っていたそうです。
親思ふ 心にまさる親心
今日のおとづれ 何ときくらむ
その「親心」を想う西住大尉は、出陣に際して母に、
「もう生きてはお目にかかりません」と言い残したそうです。
大尉の戦死の知らせは、母のもとに新聞社の社員が知らせに来ました。
知らせを聞いた母は、静かに立って仏壇を拝み、再び戻ってくると、
「小次郎が軍人に志願の折から
既に今日あるを覚悟していました。
少しでもお国のためになりますれば本懐です。
ただあれがどんな死に方をしたか
それだけが心配です。」
と述べられたそうです。
ほんとうに気丈なお母さんだと思います。
そのお母さんは、西住大尉が、本当は陸大入学を目指して猛勉強していたのを知っていました。
そして、大尉は兄弟の中でもいちばん元気良い子供でした。
新聞記者の前では、気丈に振る舞ったお母さんだけれど、その心中は察して余りあります。
第二次上海事変以降のChina事変で、負傷5回。
戦車に浴びた弾丸1100発という西住大尉の活躍。
部下思いの姿勢。
亡くなる瞬間まできちんとした報告を行った軍陣魂。
そして親を想う心。
西住小次郎大尉は、まさに「軍神」の名にふさわしい戦いをしてくれた日本人の誇りなのだとボクは思います。
こういう人が、昔の日本にはいたのです。
そういう人が生まれる風土が、日本にはあります。
いまも、日本人の大和魂は不滅です。
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