
去る10月23日、トルコ東部で大地震が起きました。
震災は、マグニチュード7・2、トルコ当局者は25日には、死者432人、けが人1350人を超えたと発表しています。
そしてこの震災にに関連して、産経新聞が次の記事を載せました。
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「日本人を見習いたい」 被災者らが助け合い 略奪も発生せず
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111026/mds11102610020001-n1.htm
多数の死傷者を出したトルコ東部の地震被災地では避難生活を送る人々がお互いに助け合い、落ち着いた行動を呼び掛け合っている。
「日本人を見習いたい」。
東日本大震災で注目された日本人の忍耐強さ、秩序を守る姿勢が教訓となっている。
多くの建物が倒壊、損壊するなど大きな被害が出たエルジシュ。
千人を超す被災者がテント生活を送る競技場では、食料配給を求める人々が整然と列をつくっていた。
割り込む人はおらず、妊婦に先を譲る姿も。
物資が不足しているとされる被災地のワンでも商店で略奪などは発生していない。
「昨晩、みんなで震災後の日本人の姿勢を見習わなければいけないと話していたんだ」。
25日午後、エルジシュの競技場で、一家7人でテント生活を強いられている被災者の一人、イザット・アカーンさん(46)が打ち明けた。
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「日本人を見習いたい」
とてもありがたい言葉です。
実はトルコでは、いまから120年前に日本で起こった「エルトゥールル号遭難事件」について、小学校で子供達に教えています。
そして、トルコの人達は、非常に親日的です。
「エルトゥールル号遭難事件」というのは、明治23年(1890年)に実際にあった出来事です。
トルコの軍艦「エルトゥールル号」が、トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せて来日したのです。
ところが、帰路、大暴風雨に遭遇してしまう。
そして船は、和歌山県串本町沖合で、岩礁に衝突して大破してしまったのです。
この事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまう。
串本村の村人たちは、嵐の中を必死で「エルトゥールル号」の乗組員たちの救助にあたり、69名が命を取り留めます。
村人たちは、助かったこの69名に対し、自分たちですら、台風のために漁ができずに食うに事欠く状況の中で、非常時用にと大事にとっておいた食料まで持ち出して、彼らの看護に尽くします。
さらに村人たちは、遭難者の遺体を引き上げ、丁重に埋葬までした。

この話は、後日、和歌山県知事から明治天皇に伝えられ、明治天皇は、海軍に命じて、日本の軍艦2隻でトルコにエルトゥールル号の乗組員たちを送り届けました。
たとえ自分が苦しい状況にあっても、困っている人がいたら命をかけてそれを守り助ける。
そんな日本人の姿勢が、トルコの子供達にとって、たいせつな教材となっているわけです。
この物語には、まだまだその先の物語があります。
トルコ本国に帰ったエルトゥールル号の乗組員たちの身を案じた山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて彼らのために義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ったのです。
明治25(1892)年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁した。
これがご縁となり、山田寅次郎はトルコ皇帝の要請で、そのままトルコに留まって、日本語と日本的精神をトルコの若者達に教えるようになります。
そしてその教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいた。
ケマル・パシャというのは、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)といって、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領です。
トルコでは、「建国の父」と呼ばれている、トルコ民族の大英雄です。
ちなみに「ケマル」というのは、トルコ語で「完全な」という意味です。
「パシャ」は彼のトルコ革命当時の呼び名です。
日本では、ケマル・アタテュルクというより、ケマル・パシャの名前で呼ばれることが多い。
ケマル・パシャは、これはもう、ものすごい人物で、トルコ国内における宗教革命、産業革命、政治革命をほとんどひとりで成し遂げたと言われる偉大な人物です。
ケマルの生まれは明治14(1881)年で、若くして軍人となった彼は、オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールが英国とフランスの連合軍に陥されそうになったとき、これを見事に撃破して勇名を轟かせます。
けれど結局は、トルコ帝国は、英仏連合軍に降伏してしまう。
敗戦気分にあふれ、人々が敗北感にうちひしがれているときに、ケマルは決然と立ち上がり、村々を回って民衆に決起を呼びかけました。
こうして彼はついに国民軍を組成し、現在のトルコの首都のアンカラで「トルコ大国民議会」を招集する。
これに対し、英仏の傀儡となったトルコ政府は、ケマルを反逆者として死刑を宣告する。
本来なら追われる身となったケマルだけれど、彼は民衆の圧倒的な支持を集め、トルコ国民集会を、新政府とし、英仏と交渉して、トルコの領土を守り、戦乱を終わらせて平和を実現しています。
そして大正12(1923)年、トルコ共和国の初代大統領に就任した。
ケマルは、若い頃からたいへんな親日家としても知られ、ローマ法王庁の特使(後のローマ法王ヨハネス23世)を半年も待たせて遂に会わず、その間に病気で入院した日本大使の見舞いに行くという「あてつけ」などもしています。
大統領に就任した3年後の1926年、彼は暗殺されそうになる。
このとき彼が行った演説は、たいへん有名なものです。
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私は私の生きがいである唯一のもの、すなわちトルコ国民を進歩へ向かって導かねばならない。
我が国民が進歩への道をしっかりと方向を間違えずに歩けるようになったとき、私は全ての権力を手放すつもりだ。
だが、我が国民の歩みは始まったばかりなのだ。
すなわち、私を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことだ。
もっとはっきり言おう!
現在の時点においては私がトルコだ!
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なんだかこの文章だけを見ても、ものすごい迫力の人だったということがわかる気がします。
どの国でもそうですが、建国の理念というものは、その国の性格を色濃く反映します。
親日家で、大革命を成しとげてトルコ共和国の産業革命まで行ったケマルは、以後の子供達の教育にも、日本の心、日本人の礼儀正しさや、おもいやりの深さなどを、そのまま取り込んで行きます。
そしてそれは、いまでもトルコ共和国ないにちゃんと息づいている。

時代は下って昭和60(1985)年のことです。
エルトゥールル号遭難からは、95年が経過している。
この年、イラクのサダム・フセイン大統領が、
「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言しました。
3月17日のことです。
イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、緊急事態でもあり、どの飛行機も満席で乗ることができません。
世界各国は自国民の救出をするため、すぐに救援機を出したのだけれど、どこの国だってそうですが、乗せるのはまずは自国の国民です。あたりまえのことです。
ところが日本政府は、肝心の飛行機を飛ばすことをためらった。
危険だから、という理由です。
本来なら、戦乱含みの危険地帯への救助飛行は、軍隊の仕事です。
日本なら、自衛隊です。
ところが、自衛隊機を救援のために外国に出すのは、海外への派兵にあたり、これは憲法違反だと、当時の野党が大騒ぎして反対したのです。
左翼というのは、日頃は「人の命は地球より重い」とかきれいごとを言いながら、いざとなると人命より、理屈が大事な集団らしい。
ともあれ自衛隊機を出動できないとなると、民間機を飛ばすしかないけれど、民間機はそもそも戦乱の危険地帯に向かうには、あまりにも装備がなさすぎます。
さらに、政府系航空会社である日本航空社内では、共産党や社会党系の組合が、運行を拒否を宣言して大暴れまでしでかす始末。
その間、テヘランにいる日本人たちは、避難もままならず、ただ身を縮めているしかなかった。
諸外国の人達は、自国の軍用機で次々と本国に帰って行きます。
もはや空港に残るのは、日本人だけ。
そしてその空港から、あと数時間後に飛び立つならば、イラク軍に飛行機を撃ち落とされてしまう。
当然、命はない。
宣言の刻限は、刻々と迫ってくる。
空港にいた日本人は、パニックに陥ったそうです。
そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が、テヘラン空港に緊急着陸を要請してきた。
そしてトルコ航空の飛行機は、着陸後、空港にのこされた日本人216名、全員を乗せると、成田に向かって飛び立ったのです。
タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。
このとき、なぜトルコが、航空機を派遣してくれたのか。
残念ながら、その理由は、日本国政府も、日本のマスコミも、また救助された日本人も、誰もわからなかったのです。

そして無事、日本人が成田に届けられたあと、駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が次のように談話を発表した。
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エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコは、航空機を飛ばしたのです。
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トルコは、95年前に日本人から受けた恩義を、忘れずにちゃんと覚えていてくれたのです。
そして大国ロシアを破り、はたまた小国ながら欧米列強を敵に回して、植民地支配に苦しんだ東南アジアの国々を独立へと導いた日本を、とても尊敬してくれている。
こういう大切なことを、日本ではなぜか教えない。
教科書にも書かれていない。(育鵬社、自由社の教科書を除く)
書かない教科書会社には、是非、書かない、教えない理由を説明していただきたいものです。

時代をさらに下ります。
平成8(1996)年のことです。
新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンしました。
日本とトルコの友好のかけ橋にと、おおいに「トルコ文化村」の創設を喜んでくれたトルコ政府は、この文化村に、大使館を通じて、ケマル・パシャの像を寄贈してくれました。
実にありがたく、また名誉であり、うれしいことです。
このケマル像は、高さ5メートルの巨大な銅像で、ケマルが平服で馬に乗っています。
実は、ケマルのこの姿の銅像というのは、非常にめずらしいものです。
どういうことかというと、ケマルの像は、トルコ国内にもたくさん建てられているけれど、そのどれもが軍服姿です。
勇敢で、トルコ革命の英雄であるケマルには、凛とした軍服姿がもっともふさわしいからです。
けれど日本の「トルコ文化村」にケマル像を寄贈するに際して、トルコ政府は、戦争を嫌う日本人のためにと
、わざわざ平服姿のケマル像をしつらえて、寄贈してくれた。
とてもありがたいことです。
そして「トルコ文化村」は、テーマパークの広場の中心に、高さ5メートルのケマル像を堂々と飾った。

ところが、です。
この「トルコ文化村」に大変な転機が訪れる。
平成11(1999)年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻してしまったのです。
「トルコ文化村」は資金繰りが悪化し、やむなく運営母体である新潟県柏崎市に、文化村を売り渡します。これが平成4(2002)年のことです。
けれど、「トルコ文化村」の経営は、その後も好転しない。
心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋(あいだひろし)市長に伝えたのだけれど、この社民党の会田市長、再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、支援を申し出た製菓会社のブルボンの再建計画も、頭から無視ししてしまった。
そしてついに平成6(2004)年、「トルコ文化村」は倒産してしまったのです。
なんと会田市長は、地元のラブホテル業者(在日朝鮮人というウワサも)に、「トルコ文化村」を払い下げてしまったのです。
ここに、柏崎トルコ友好協会が、柏崎市の会田洋市長に出した、平成19年10月15日付の「厳重な抗義と早急な善処についての要望書」と題する書面があります。
原文はPDFで見ることができます。
→http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/files/071015_k-turky.pdf
この要望書にあるのだけれど、平成6年のトルコ村倒産以降、平成19年のこの文書提出時点まで、日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、13年間、
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像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態
~~~~~~~~~
にあったのです。
誰が見ても、これは親日的なトルコ政府や、トルコ国民にとって屈辱的行為です。
そこで、柏崎トルコ友好協会は、
(1) 「アタチュルク像」の尊厳を保持出来る条件の場所に速やかに移動せよ。
(2) そのために必要な協議の場を設けよ。
(3) 善処後の結果を在日トルコ大使館並びに当友好協会に文書をもって報告せよ。
と書面をもって問合せを行います。
ところが、この書面を受け取った柏崎市会田市長は、これを握りつぶし、なんの返答もしない。
「柏崎トルコ友好協会」は、平成20年1月にも「放置されたアタチュルク像の対処に関する誠意ある回答についての催告」という書面を送付します。(クリックするとその書面を読むことができます)。
ところが、この催告書に対しても、会田洋柏崎市長は、まるで無視。
この件では、トルコ大使館も激怒し、
「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出します。
ところがこれに対しても会田市長は、その抗議を議会に知らせることもなく、まったく無視してしまう。
そもそも社民党などにかぶれている人間を、市長に選んだのが最大の過ちだと思うけれど、ようやく平成21年になって、柏崎市は、市のHPに、次の記事を掲載した。
(いまはもう消されています)

文言は以下の通りです。
~~~~~~~~~~~
「アタチュルク像の再建に向けて努力しています」
旧柏崎トルコ文化村にあるアタチュルク像ついては、在日トルコ共和国大使館の理解を得て、平成18年に土地及び他の物件と共に民間会社に売却したものです。
会社も利用計画の中でこの像の活用を意図し、実際にその用途に供しておりました。
残念ながら新潟県中越沖地震で被害を受けたため取り外し、施設内で保管されているものであります。
市としては、会社から無償譲渡してもらい、しかるべき場所へ建立をするべく会社側と交渉をしているところですが、他の案件で裁判になっていることからなかなか折り合えない状況となっております。
このことは、在日トルコ共和国大使館及び外務省に対して経過を説明し理解をいただいているところであります。
今後もしかるべき場所への再建をめざし、引き続き粘り強く会社側と交渉を続けてまいります。
また、必要に応じて在日トルコ共和国大使館や外務省と連絡を取りながら進めてまいりたいと考えております。
(2009年2月20日(金曜日) 9時3分)
~~~~~~~~~~~~~
トルコ大使館は、激怒していたのです。
それが「在日トルコ共和国大使館の理解を得て」と言葉がすり替わる。
昨今、一定規模に成長した保守勢力に対して、こうした「言葉のすり替え」によって組織の信用を失墜させる運動がさかんなようですが、そこで行われている手口も、まさに「言葉のすり替え」です。
人の良い日本人は、こうした扇動者による言葉のすり替えに、すぐに騙されてしまう。
もう一度、市の文書を読んでみてください。
そして、下の写真と見比べてください。
像を倒したままにして粗末なブルーシートで覆うことが、「施設内で保管」・・・
うまいこと言いかえるものです。
まるでどこかの国のプロパガンタです。

結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、2010年3月18日、東京のお台場「船の科学館」に移設されて丁寧に修復を受け、昨年の5月中旬に、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されました。
(日本財団=財団法人日本船舶振興会、会長笹川陽平氏。笹川良一氏の三男)
とりあえずは、ほっと一安心です。

この移設、修復等の活動は、すべて日本財団によって行われたものです。
けれど、本来なら、この修復や移設の費用は柏崎市の負担で行うのが筋です。
事件をうやむやにし、トルコ国民の友好の情を足蹴(あしげ)にしたのは会田洋柏崎市長や、そういう怪しげな人物を「市長に選んだ」のは、柏崎市民は、猛反省すべきと思う。
自分の票は、たった一票かもしれない。
けれどもその一票が、こうしてまさに国賊ともいえる非道を招いてしまうという、これがいい例です。
せっかくトルコの話題になったので、最後にもうひとつ書いておきます。
風俗で、いまソープランドと呼ばれる浴場は、80年代まで「トルコ風呂」と呼ばれていました。
こうした女性が特定サービスを行う風呂を「トルコ風呂」と読んだのは、昭和28(1953)年頃、つまり日本に対する終戦後の連合国統治が終わった翌年からのことで、当初は性的サービスはあっても売春はともなっていなかったといいます。
ところが昭和33(1958)年に売春防止法が施行されてから、旧、赤線地帯の売春婦たちが「トルコ風呂」に流入し、浴場内での売春行為が一般的なものになる。
その結果、「トルコ風呂」が日本国内で、売春を伴う浴場施設という意味で使われるようになります。
時が変って昭和59(1984)年、日本の東京大学に留学していたトルコ人留学生のヌスレット・サンジャクリさんが、東京の新宿で、偶然「トルコ大使館」という名称の「トルコ風呂」を見つけます。
「なんだ、これは!」と驚いたヌスレットさんは、愛する祖国の名前を汚すようなこの名称になんとかして抗議したいと、あちこち歩いたあげく、自民党の小池百合子代議士と出会い、小池百合子氏の薦めで、当時の厚生省に、「トルコ風呂」の名称変更を願い出ます。
これが発端となって、「東京都特殊浴場協会」が「トルコ風呂」に代わる名称を公募し、同年12月に、「ソープランド」の名称が誕生した。
けれど、そもそも考えてみれば、世界屈指の親日国家であるトルコ共和国の国名を、連合国統治が終了したばかりの日本において、売春浴場の通称にしてしまうなどというのは、どうにも左翼の意図的な策謀が感じられます。
昨日も書きましたが、「歴史を失った国は滅びる」と言われます。
人は、どこの民族の人でも、生まれたときは裸一貫です。
けれど、自分たちのルーツというか、価値観の基礎となる、自国の歴史、伝統、文化に接することで、人は「道徳感」と「人としての誇り」を持つようになる。
その意味で、「歴史を失う」ということは、「道徳観」と「人としての誇り」を失うということなのではないかと思うのです。
戦後の日本は、国をあげて、日本人から「歴史」を奪い、その結果として国民の「道徳観」と「日本人としての誇り」を奪って来た気がします。
日本人が、なぜ戦後の瓦礫の山から、戦後の高度成長を実現することができたのか。
それは、当時の日本人が、現代日本のような目先の自分個人の利益だけを要求する、道徳観や人としての誇りを失った日本人ではなく、戦前の教育が濃厚に沁み込んだ、公に奉ずる古くからの歴史を大切する日本人だったからなのではないかと思うのです。
日本には、まだまだ日本人としての良心が残っています。
その日本の良心が、まだ残っているいまのうちに、わたしたちは日本の心をきちんと取り返していかなければならないのではないかと思います。
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