
大阪に原爆が落とされたのをご存知でしょうか。
昭和20(1945)年7月26日午前9時26分のことです。
投下された爆弾は、同年8月9日に長崎に投下された原爆(ファットマン)と同形の模擬爆弾です。
高度9千メートルから原爆を投下するための訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として、米軍第509混成群団が投下しました。
上にあるのがその爆弾(パンプキン爆弾)で、下の写真が投下の瞬間を写した米軍の空中写真です。

爆弾は、大阪府大阪市東住吉区の田辺地区に投下され、村田繁太郎(当時五十五才)他6名が死亡、多くの方が罹災しています。
パンプキン爆弾は、もちろん原爆ではありませんが、爆弾の中には、なんと4.5トンものTNT火薬が仕込まれていました。
そして、昭和20(1945)年7月20日から8月14日にかけて、このパンプキン爆弾は、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島、島田(静岡県)、焼津(静岡県)、浜松(静岡県)、名古屋、春日井(愛知県)、豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)など1都2府15県29市町の44目標に、計49発投下されています。
もし、8月15日の昭和天皇のご聖断がなく、そのまま戦争が長引いていれば、いずれ、それら標的の全てに原爆は投下されていた。
最初の一発は、7月20日午前8時13分ごろ、B―29から新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下されたものです。
畑にいた20歳と15歳の兄弟を含む4人が死亡、5人が負傷、31戸に被害が発生しました。
グランドゼロ(ground zero)と呼ばれる爆撃地点・爆発地・爆心地)には直径15~20メートル、深さ5メートルものくぼみができています。(↓写真)

また、同日午前8時34分、福島市の福島駅近くの渡利地区に投下されたパンプキン爆弾では、当時14歳だった1人の少年が命を落としています。
少年は、自宅近くの田んぼで草とりをしていたところ、約30メートル離れた地点に爆弾が落ち、爆風に襲われて死亡しました。
亡くなった少年の父親が、この爆弾の破片(長さ約50センチ、幅約20センチ。15キロの重さがある)を拾い、「息子のかたき」と寺に預けたものが現存しています。
さらに同日午前9時前、現在の静岡県焼津市中港5丁目に同形の爆弾を投下。
6戸が全壊、6人が負傷した。
同日午前9時すぎには、日立市にも模擬原爆が落ち、1人が死亡、10人近くが負傷しています。
7月24日には、3機のB-29が、新居浜市の住友化学工業と住友アルミニウムに模擬爆弾を投下し、2発が工場などに命中し、両工場の4千平方メートルが損壊した。
パンプキン爆弾が4発も投下された富山市では、一発目が7月26日に投下されているけれど、これを投下したのは、8月9日に長崎市に原爆を落としたB-29「ボックスカー」です。
さらに言えば、名古屋でパンプキンを投下したのは広島市に原爆を投下した「エノラゲイ」です。
7月26日午前9時26分には、大阪市・田辺地区にこの爆弾が投下され、死者7人、重軽傷者73人、倒壊など485戸の被害が出た。グランドゼロは現在の東住吉区田辺1丁目6-7市立田辺小学校のすぐ北側で、直径数10メートルの巨大な穴ができた。
7月29日、山口県宇部市に3発の模擬原爆が投下され、20数人が死亡するなどの被害がでた。
8月8日午前9時には、福井県敦賀市にあった東洋紡敦賀工場にパンプキン爆弾が落とされました。
ここではキノコ形の煙が上がり、工場はがれきの山となり、死者は33人にのぼています。
その中には、学徒動員で働いていた敦賀中学校と敦賀高等女学校(いずれも現・敦賀高校)の生徒や教員の犠牲もありました。
8月14日には、愛知県挙母(ころも)町(現豊田市)の豊田自動車挙母工場(現・トヨタ自動車本社工場)に3発のパンプキン爆弾が投下されています。
原爆を世界で初めて実用化したのはまぎれもない米国です。
そして米国は、世界で初めてその原爆を人間に向かって投下した。
それが広島と長崎です。
けれどこの時代、先進諸国は競って原爆の開発を行っていました。
日本でもその開発をしていた。
そして昭和19年の春、日本はウランを入手し、新型爆弾(当時日本国内では原爆はそう呼ばれていた)の開発がまさに現実のものとなったとき、東条英機氏は、困難な戦局の起死回生の決定打として、昭和天皇に、新型爆弾についてを上奏したのだそうです。
この時点では、日本は米国よりも一歩先に原爆を作れる状況となっていたのです。
東条英機氏は、もちろん、当然陛下にお喜びいただけるものと思った。
ところが案に相違して、陛下は反対します。
その理由として、
「数カ国が新型爆弾の開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注し完成させ、使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。
また、ハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数居住し、原住民とともに今日を築き上げたところである。
そのような場所に新兵器を使用することは賛成しかねる」とおっしゃられた。
東条英機氏は、反論したそうです。
陛下の御意思に反することはできないが、日本が敗戦すれば日本が滅びてしまい、元も子もなくなる。なんとか製造だけでも促進できないか」
陛下はこれを受け、理化学研究所の仁科博士を、御自ら尋ねられ、新型爆弾についての説明を受けられます。
そして陛下は、あの敗戦濃厚となった大東亜戦争の末期において、原爆の開発の中止をご聖断された。
この結果、日本は原爆の投下を受けます。
そして陛下は、終戦を急がれた。
陛下は広島と長崎に落とされた爆弾が、原爆であることを早くからご存知だったのです。
ですから終戦の詔勅には、「敵ハ新ニ 残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚 交戦ヲ継続セムカ終ニ 我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」と述べられている。
「人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」です。
陛下は、これ以上の戦闘の継続が、結果として原爆による人類文明の破壊までをももたらすことを憂いておられた。
どうしても勝たなければならない、まさに日本民族の存亡を賭けた戦いの最中に、陛下は人類文明の破壊を心配されたのです。
戦争に勝つということと、戦闘に勝つということは意味が違います。
日本は8月15日に戦闘行為は停戦しましたが、戦争が終結した昭和27年頃には、もうすでに経済復興も国土復興も開始され、わずか20年で世界に追いつき、40年後には世界の経済大国にまでなっています。
日本民族は滅亡せず、大東亜戦争で掲げた東亜の解放、悠久の大義は、ことごとく実現した。
戦争というのは、クラウヴィッツによれば、政治目的の最終的な解決手段なのだそうです。
であれば、日本が掲げた戦争目的が人種差別撤廃や、植民地支配からの解放という悠久の大義と、日本の工業力の保持にあるのなら、まさに日本はその全てを実現している。
つまり日本は、パンプキン爆弾も、原爆も使うことなく、戦争に勝ったのです。
※参考文献
春日井の戦争を記録する会編「5トン爆弾を投下せよ!」
高田純著「核と刀」
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