
楊素秋 (ヨウソシュウ)さんという方がいます。
日本名を、弘山喜美子さんとおっしゃいます。
昭和7(1932)年のお生まれの方で、ご出身は、日本統治下の台湾、台南市です。
台南師範学校附属国民小学校、長栄女学校(中学、高校)を卒業しました。
彼女は、日本をこよなく愛した父の影響で、日本人と自覚して育ちました。
今も、思考する時も、寝言も日本語だそうです。
「日本と台湾の架け橋の釘1本となりたい」と、貿易や、通訳、日本語教師など、多方面で活躍され、金美齢さんや、西村幸祐さんとも親しい方です。
この方が書かれた本に、「日本人はとても素敵だった」(桜の花出版)という本があります。
自分たちは日本人だと信じていた“台湾人”の楊さんが、「生活者」としての目で大日本帝国を語った本です。
前にも二度ほどご紹介したことがあるのですが、この時期だからこそ、もう一度、あらためてご紹介したいと思います。
とかく戦前の日本は、軍国主義の悪い国だった、侵略国家だったと言われています。
その侵略された側の生活者の目線での日本統治時代というものがどのようなものであったか。
是非、ご一読いただきたいと思います。
~~~~~~~~~~~~
【はじめに】
世界で最も美しく素晴らしい日本に住んでいる皆様は、自分がこの国に生まれ、この国に住んでいる幸せと喜びを先祖に感謝し、無形の神様に畏敬の念を表すことはないでしょうか。
おびただしい星が存在する宇宙の中で、たった一つだけ生物が″生″を営んでいる地球に、私たちは人類の一分子として、多くの異なる国と皮膚の色の違った人種と共存し、生命を継承してきました。
そして、凡そその人間と称する者は、自分が生を受けて生まれ育ったその土地を母国と認識し、己が母国を愛し、土地を愛し、母なる国、土地を守ろうとする天性を備えています。
特に皆様は、世界七大強国の一つである、日本国に生まれ育った日本人ですが、日本人に生まれてきた喜びと誇りを持ち、生まれ育った土地、母なる国に感謝したことがあるでしょうか。
人間と称する動物は、往々にして大変我が侭且つ贅沢な者です。
最高の幸せの中に置かれても満足を知らずに、日々の生活の中にせっせと不満の元を拾い集め、塊にして他人に投げ付ける者も多いようです。
全ては国が悪い、他人が悪い、自分がこうなったのは他の人が悪いのだ…、というような″福の内にありて福知らず″の人間に、では君は悪いと決めつけた相手よりどれぐらい素晴らしい?と尋ねたら、どう返事をするのか興味深いものです。
しかしこんな人間が、私たち台湾に生まれ住んだ人間のように、ある日ある時、今日から日本人でないと言われたら、まごつかないでしょうか。
国籍を失った人間となり、見知らぬ所から侵入してきた外来政府に、君たちは中国人になったんだと言われたら、今まで不平不満の塊で文句ばかり並べてきた社会の反逆児は、先ずどう考えるでしょうか?
国籍を無くした人間の惨めさを知らない人たちは、「わぁ、万歳だ」と手を叩いて喜ぶでしょうか?
昭和二十年の八月十五日、日本が第二次世界大戦、つまり大東亜戦争に敗れた年、私たちが住んでいる台湾は、今まで祖国と言ってきた日本国から切り離され、選択の余地無しに中国人にさせられてしまいました。
君たちの祖国はこっちだよと言葉に蜜つけて侵入してきた外来政府は、実に天使の面を被った悪魔でした。
国籍を失った台湾人は、それから中国人となり、そして中国籍になったその時から、悲惨を極める奈落の底に落とされ、イバラの道に追い込まれてしまいました。
外来政府は、謀反を起こしたという烙印を押し、四十年もの長い年月にわたり″戒厳令″という名目で殺戮を繰り返したのです。
台湾全土の人民を震撼させたあの忌まわしい二・二八事件で殺された人の数は、当時の政府の圧力により報道されていません。
学生、若者、医者、学識ある者、特に財産を有する者など、死者は三万人にも上ると言われていますが、確実な数字は今でも分からないそうです。
因みに当時の台湾の人口は、六百万人でした。
戦争で死んだというなら、国のため、国民のため、とある程度納得ができましょう。
しかし、口では「我が同胞」と呼びかけ、国の柱として未来を担う有能な若者、学生に、謀反の罪を着せ銃で撃ち殺してしまうとは、あまりにも惨いことです。
六百万人の台湾人は、国籍の無きが故に父親、兄弟、夫、親友を殺されてしまいました。
殺された肉親を目にしても涙を流すことすら許されなかったのです。
今の日本の若者は、他国から統治されたことがなく、裕福で平和な国土で、幸せという座布団にあぐらをかいて過ごしてきたため、これが当たり前だと思っているのではないでしょうか。
でも、幸せは大切にしなければいけません。
なぜなら幸せは、国が立派であって初めて得ることが出来るものだからです。
国が立派でも、国民の一人一人が立派でなければ、いずれ国は滅びてしまいます。
ですから、若い人たちに呼びかけたいのです。
日本の若者よ、背筋をシャンとしてお立ちなさい。
そして自信と誇りをもって前に進みなさい!
私は日本を心の故郷と思っています。
そして台湾を愛するのと同じように、心から、祖国・日本に栄えあれと念じています。
一世紀の四分の三に手が届こうとしているおばあちゃんの私は、人生行路の最終駅にたどり着く前に、日本の若者が強く大きく大地に立ち、自信一杯、誇り一杯で、お国をリードし、世界の平和を守る姿を見たいと願っております。
私はいつも心の中で叫んでいます。
私を生み育てた二つの母国よ、共に栄えあれ!
平成十五年十一月九日
蓬莱島にて 楊 素秋
****************************
第一章 命の恩人は日本人
【大東亜戦争末期の台南】
大東亜戦争、いわゆる太平洋戦争の末期、ここ台湾でも空襲がひどくなり、私は生まれ故郷の台南を離れ、家族と共に大社村という母方の祖母の田舎に移り住んでいました。
昭和二十年の春、私は台南第一高等女学校(四年制の旧制中学)の入学試験を受けるために、疎開先から台南に戻らなければなりませんでした。
その運命の日を、私は今まで片時も忘れたことはありません。
大社村から台南市に行くには、当時は台湾の南北をつなぐ縦貫鉄道か、または局営のバスを利用するのが普通でした。
戦時中はいつ何時、警報が鳴り、空襲が始まるのか全く予測が出来ず、汽車もバスも定刻通りに到着、発車が出来ないことがよくありましたが、それについて皆愚痴をこぼすこともありませんでした。
台湾の南北に広がる西部平原の当時の風景といえば、畑に続く畑や、地平線に届かんばかりに広がる田んぼ、その中に、農家がぽつんぽつんと点在しているというものでした。
その平原の中央を縦貫道路という一本の大きな道が、平原を東西に切り分けるように走り、台湾の南端の都市、高雄市から州と州(現在の県)、都市と都市、町と町を数珠をつなぐ糸のようにつなぎ合わせて、北端の基隆市に伸びていました。
そして、その道を局営バスが北から南、南から北へと走り、人々を運んでいたのです。
かつては田舎の乗り物といえば、人の力を借りる「かご」か、暑い日射しの中を砂ぼこりにまみれながらのろのろと牛に引かれて進む「牛車」と決まっていましたが、この縦貫鉄道や縦貫道路のバスがそれに代わるようになり、やがて、生活に欠くことの出来ない交通機関として一般庶民に親しまれるようになりました。
私は戦争の始まる前に初めて、祖母と一緒にこの局営バスに乗りました。
汽車よりはるかに遅く、揺れも激しかったことをよく覚えています。
特に、でこぼこ道になると、車が跳ねる度に私は木製の椅子から飛び上がり、そしてドスンと椅子に落ちるのでした。
ですからでこぼこ道にさしかかると、「さあ大変」と、テレビで見た西部劇の暴れ馬の調教師みたいな格好で、しっかりと両手で前の椅子を掴んで、跳ね落とされないよう気を付けなければなりませんでした。
私たちの向かい側の椅子に座っていたおじさんは、腕組みをして足を前に投げ出し、口をあんぐり開けてずっと眠りこけていたのですが、不思議なことにでこぼこ道にさしかかると、目を覚まして座り直し、椅子から落ちたりしないのです。
大きな荷物を抱えて後部の座席を占領していた農婦らしき女性たちも、乗客全員に聞かせるような南部なまりのキイキイ声で絶え間なく話し続けていましたが、揺れが始まると慌てて前の椅子を掴んで席から振り落とされまいとしていました。
そして揺れが収まると、再び陽気な声で左右の客と語り笑うのでした。
こうして、向かい合った席が二列に並ぶバスの中は、でこぼこ道に入る度に、目を覚ました人も加わって、雑談と笑いの渦を巻き起こすのでした。
局営バスは、田舎に住む人たちにとっては憩いの場所であり、消息を伝え合う交流の場でもありました。
料金も安く、その上、村に入れば、停留所以外の場所でも乗客が「停車して下さい!」とか「ここで降ろして頂戴」と言えば、どこでも降ろしてもらえるというのも魅力でした。
【心細かった受験旅行】
疎開していた大社町の近くの路竹駅から汽車に乗れば、台南市まで平常時で四十五分、近所の停留所から局営バスに乗れば一時間十分程かかりました。
受験のために小学校六年生の私が台南市へバスで行くことに、父は真っ向から反対しました。
「誰かが付いていなければ遠くに行けないような女の子が、戦時下にバスで台南に行くなんて危険だ」と言うのです。
つい数日前、叔父の田んぼを借りている小作人が、祖母に「お婆さんの故郷の太湖で、空襲に遭ったバスが転覆して、乗っていた中学生が頭を打って即死したよ」と話していたばかりです。
どうしても汽車で行くようにと父が言うので、仕方なくそれに従うことになり、楽しい思い出が沢山詰まったバスで行くことはあきらめました。
出発日の早朝、私は受験に必要な物や教科書をリュックサックに詰めました。
それとは別に、前夜、菜っぱ色に染めた母の手製の木綿の袋二つに、三日分の米と野菜を均等に分けて入れておきました。
それを両手に提げてリュックサックを背負い、路竹駅に向かったのです。
路竹駅は大社村の隣の路竹村にあり、村と村との境界線上を鉄道の線路が走っていました。
駅から一本街道を挟んで向かい側にある商店街は、近隣の取引の中心でした。
村の真ん中辺りに、当時まだ珍しい四階建てのビルがありました。
その町で唯一のビルで、遠くからでもよく見え、村のシンボルになっていました。
これは育生病院といって、地方の名医であり公医でもあった母の実弟、つまり私の叔父が経営していたものでした。
祖母の家から路竹駅へ行くのに、歩きやすい道を選べばどうしても遠回りになりました。
近道をしたければ、途中から田んぼのあぜ道を通って行かなければなりませんが、それは、私にとっては一つの冒険でした。
祖母の家から路竹駅までの耕地の大部分は、叔父とその兄弟たちの所有地だったそうです。
駅までの距離は子供の足で十五分はかかりました。
牛車のわだちの跡を踏んで歩いて行くと、叔父の所有している瓦を焼く窯があります。
そこから右手の遠くの方に路竹駅が見えてくるのですが、真っすぐ駅に続く道はないので、その辺りからあぜ道に入ります。
出来るだけ幅が広く歩きやすいあぜ道を歩いて行くのですが、途中からあぜ幅が突然狭くなることがあります。
というのは、あぜ道は地主や小作人達が、自分の田んぼや借り受けた田んぼと、他人の田んぼを仕切るために、土を盛り上げて作ったものなので、あぜ幅は作った人によってまちまちなのです。
大小さまざまな水田の間を不規則に区切ったあぜ道は、遠くから眺めているとパズル遊びのはめ絵の溝が頭に浮かんできます。
そのあぜ道を歩いていると、水を張った田んぼが、太陽の光を受けてキラキラと照り映えてまぶしいほどでした。
台南で生まれ育った町っ子の私には、あぜ道はとても歩きづらく、ややもすると足を滑らせて転びそうになりました。
何しろリュックサックに両手に大荷物です。
気を付けながらそろそろと歩くのですが、所々に窪みがあって、それにはまらないように飛び越えなくてはいけませんでした。
また、時々お腹を膨らませた大きなカエルが二本の足を地べたに立ててあぜ道のど真ん中に座り込んで、こっちをにらみつけて通せんぼをするのに出くわしたり、キチキチと鳴きながら羽を広げて飛んで来るイナゴに驚いて立ちすくんでしまったりと、なかなかあぜ道を抜けられません。
やっとの思いで線路わきの砂利道にたどりついて、ようやくホッと安堵の胸をなでおろしたものです。
そこから駅まではもうすぐです。
駅の中にはいると、左手に切符売り場があり、正面に改札口があります。改札口の向こうには、上下線の四本のレールに挟まれた短い露天のプラットホームがありました。
今ではもう考えられないことですが、当時、田舎の改札口には仕切りはあるものの、かぎ型の掛け金で止めているだけで、簡単に外せて構内へは自由に出入り出来ました。
しかし、こんな簡単なことでも法を破って薩摩守(薩摩守忠度=ただ乗り)を演じる人は、聞いたことがありませんでした。
これは温和な台湾人がよく規則を守るからなのか、あるいは大岡越前守のような、理と知と情によく通じ、政治政策に長けた人物が多くいたからなのでしょうか。
とにかく、日本の統治時代は安心して毎日が過ごせた時代でした。
今、戦前を振り返ってみると、正直に暮らす人々、穏やかな世の中がよみがえってきます。
昼間店先に店番がいなくても、商品を盗まれる心配はなく、買い物客は「ごめんください」と言って店先に立って、店の主が顔を見せるまで待っていたものでした。
夜は戸に鍵を掛けなくても、安心して眠りにつくことが出来ました。
当時の台湾は、時間の流れが緩やかで、皆が平和に暮らす楽土であり、宝島でした。
しかし、戦争が始まると徐々に事情は変わっていきました。
【空襲で遅れた汽車】
さて、私は台南までの切符を買い、駅の待合室で汽車を待っていたのですが、待てど暮らせど、汽車はやって来ません。
一時間待ち、そして更に一時間が過ぎました。遅れにしてはあまりにも長すぎると、ちょっと心配になってきました。
しかし、同じ汽車に乗る人が大勢いるので、とにかく黙って待つことにしました。
その時、駅員のおじさんが待合室に顔を出して、汽車を待っている顔見知りの人に小声で話しかけました。
待合室の人たちは皆その話に耳を澄ませました。
それによると、汽車は定刻に高雄駅を出発したけれど、間もなく空襲を受けたとか、米軍の飛行機が爆弾を落として死傷者が出たとかで、汽車がかなり遅れてしまっているというのです。
台湾の南部の田舎にも、その頃から空襲の数が増えて、米軍の爆撃機のB-29や戦闘機のP-38が姿を見せるようになっていました。汽車を待つ皆の顔に不安と焦りの色が浮かびました。
しかし、長時間待たされても誰一人、愚痴や不平不満をこぼす人はありませんでした。
戦争という国難に直面した時、国民というのは危機感を覚えて、自分を主張したり我が侭を言ったりしなくなるのでしょうか。
あるいは台湾南部の人間特有の楽天的な気性で、騒いでも来ない汽車は来ないとすっかり割り切っていたのかもしれません。
普段は閑散として静かな田舎の駅は、汽車が遅れて、上り列車と下り列車の時間が重なり合ってしまったため、汽車を待つ人で溢れ返っていました。
ざわめきと人いきれで息が詰まりそうになり、私は両手に荷物を下げて待合室から外に出ました。
しかし、外も人でいっぱいでした。
目をやると、ガジュマルの木の下が割合にすいていたので、そこで、ぽつねんと立っていました。頭の中は明日の試験のことでいっぱいでした。
どのくらい経ったでしょうか、ポーと遠くで到着の合図を示す汽車の汽笛が聞こえてきて、待っていた上り線がようやく到着しました。
【日本人将校さんとの出逢い】
木陰で改札が始まるまで待つつもりで立っていると、不意に「もし」という声がしました。
声の方に顔を向けると、濃紺に近いブルーの制服を着て、帽子をかぶった、いかにもまじめそうな日本の将校さんが目の前に立っていました。
「はい」と返事をすると、
「お手洗いに行きたいが何処だか教えてもらえませんか」と大変丁寧で綺麗な言葉遣いで話し掛けられました。
「はい、お手洗いなら、ここを真っすぐに行って突き当たりの右手にあります」と、私はお手洗いの方を指さしました。
すると、「どうもありがとう。すまないがこの包みを一寸預かってもらえませんか。大切な書類です」と言って、両手で持っていた紫色の風呂敷の包みを差し出したので、私は慌てて両手を出してそれを受け取りました。
「重要書類だから大切に持っていて下さい。そこから動かないで下さいね」と言うや否や、私の「はい」という返事も待たずに、将校さんはくるりと背を向けて大股でお手洗いの方に行ってしまいました。
包みを受けた私は「これは木箱だな」と思いました。
四角く大きな包みは見かけによらず軽いので、桐の箱だななどと推理を巡らせ、きっと大切な物に違いないからちゃんと持っていなくてはと思って、両腕に乗せられた包みを指で押さえて、身じろぎもせずに立って待っていました。
やがてその将校さんが戻って来ました。
「やあすまない、ありがとう。で、君はどこに行くの?」
「はい。台南です」
「一人で? こんなに危ない時に何をしに行くの?」
「明日女学校の入学試験があるんです」
「そうか。台南なら僕と同じ汽車だ」
そう話すと、将校さんは自分の手に戻った包みに目をやり、
「これは大変重要な書類で、今日の内に基隆に持って行かなくてはいけないのです。
しかし高雄で二時間近くも臨時停車して、なかなか動かないので心配しました。
この分では基隆に着くのは夕暮れか夜になりそうです」
とちょっと心配そうな表情をしました。
将校さんは、帽子が戦闘帽ではなかったので、普通の兵隊さんではないと思いました。
高雄から来たのだからきっと海軍か航空隊の方に違いないと思いました。
背はそんなに高くはなく、二十歳前くらいの感じでした。
やがて、汽車の給水作業が終わって改札が始まりました。
汽車の時刻が狂ったために乗客の数が膨らんで、混雑を極めていました。
私はプラットホームを右往左往して、車両のどこかに入れそうなすき間はないかと、空いている窓からのぞいてみたのですが、中は文字通りすし詰め、通路もギュウギュウ詰めでした。
デッキは尚更ひどい様子でした。
積まれた麻袋の上に何人もの人が体を寄せ合って立っていて、開いたままの戸口のステップにまで立っている人がいて、入り口の鉄棒に掴まっている人もいました。
「どうしよう」
私は心の中でそうつぶやいて、小走りに車両の中をのぞいて回りました。
すると突然、「危ないからこの列車に乗るのはやめなさい。次の列車に乗りなさい」という声がするので、そちらを見ると先の将校さんでした。
将校さんはデッキのステップに足を載せ鉄棒に掴まって立っていました。
でも、二、三時間待ってやっと来た列車です。次の列車はいつ来るか分からないのです。
「試験に間に合わなかったらどうしよう」と、明日の試験のことで頭の中がいっぱいだった私は、危険を考える余裕がありませんでした。
「明日の試験に間に合わない」と声に出すと、急に悲しさが込み上げて来て、それ以上言葉が出なくなり、涙が頬をつたいました。
【鉄橋上の汽車から落下】
すると将校さんの右側で、同じように鉄棒に掴まって戸口のステップに立っていた男の人が、体を無理矢理に中に押し込んで、何とか一人分のすき間を空けてくれました。
私は急いで両手で鉄棒に掴まり、ステップの上に立ちました。
「ああ、よかった」
私はほっとして、両手に持っていた二つの木綿の袋を左腕の肘に提げました。
「大丈夫ですか?」
右手に立っていた将校さんが心配そうに聞き、「危ないから降りなさい。次の列車に乗った方が良い」と、また言うのです。
しかし、ステップの上に乗ったままの状態がどれほど危険なものか考えが及ばなかった私は、頭を横に振って下を向き、そこから動きませんでした。
それが大変な事態に発展するとは、その時は思いもしませんでした。
駅長の発車オーライの合図の笛が鳴り、列車はゆっくりと路竹駅を離れて行きました。
最初のうちはよかったのですが、揺れもひどく、外の風をまともに受けながら立っているだけで、体力はどんどん消耗してきました。
鉄棒にしがみついている手はしびれ、腕の荷物が段々と重みを増して腕に痛いほど食い込んできました。
「大丈夫ですか?」
将校さんがまた私に聞きました。
しかし、私は返事をしませんでした。
いや、返事が出来なかったのです。
荷物の重さがどんどん腕にかかってきて、重さをこらえつつ鉄棒を握るのが精一杯で、返事をする気力がありませんでした。
将校さんがそれに気づいて「その荷物を捨てなさい、早く捨てなさい」と言いました。
私は、とうとう重さにこらえ切れなくなって、荷物を提げていた左手を鉄棒から離して、荷物を捨てようと手を伸ばしました。
重さでひもが腕にくい込んでいた袋が一つ手から離れ落ち、二つ目が手から抜けた時、列車はちょうど高雄州と台南州の境を流れる二層行渓に架かった鉄橋に差しかかりました。
ゴォーッと風を切って突進する列車の轟音にハッとした私は、途端に左足をステップから外してしまいました。
「あっ!」
川の上の鉄橋を突進する列車のステップに、片足で立っている自分の体から力が抜けて行くように感じました。
「助けて!」と叫ぼうとしましたが、声になったかどうか分かりません。
一瞬のことでしたが、長いようでもありました。
ただ目の前が真っ暗になり、私は意識を失いました。
【名も告げずに去っていった将校さん】
何が起きたのでしょうか。
遠くで大勢の人のざわめきがし、段々と近くなってきました。
誰かが私の頬を叩いています。
手をさすったり叩いたりする人がいます。
遠くかすかに、「こらこら、目を覚まして! そのまま寝ちゃいけないよ」と言う声が聞こえるのですが、まぶたが重くて目が開きませんでした。
「気の毒にね、いたいけな子供が。顔が真っ青だよ」
「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな」
周りの会話が少しずつはっきりして来ました。
その軍人さん? あの将校さんが私を助けて下さったのだろうか。
危険だからやめるようにと言っても言うことをきかなかった私を、ずっと心配して声をかけ続けてくれたあの将校さんが。
考えようとしても、頭がぼんやりしています。
誰かが私のまぶたをつまみました。
「おかしい、変だ」と思うのですが、体がいうことを聞きません。
確か立っていたはずの私は横になっていることは分かりました。
なぜだか分かりませんが、急に悲しくなってきて、泣き始めてしまいました。
「ああよかった、涙が出てくるくらいならもう大丈夫だ」という誰か男の人の太い声を耳にしたら、再び全てが遠のいていきました。
どのくらい経ったのでしょうか。
体を揺さぶられ、「目を覚まして、もうすぐ台南に着くよ」という声に驚いて、「えっ、台南!」と辺りを見回しました。
私は知らないおばさんに抱かれてずっと眠り続けていたのでした。
「あぁ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、そのおばさんはニコニコしながら、私のオカッパの頭をなでてくれました。
「これ、あなたの切符、何処に行くのか分からなかったんでね、ポケットを探ったら切符があったので見せてもらったのよ。
はい、しっかり持っているんだよ」と、切符を上着のポケットに入れてくれました。
汽車は段々速度を落として、見覚えのあるプラットホームへ静かに滑り込んで行きました。
「たいなーん、たいなーん」
聞き慣れたアナウンスの声が聞こえ、汽車は止まりました。
台南に着くまでひざを貸してくれたおばさんや周りの人に「ありがとう」とお礼を言うと、おばさんは「気をつけてね」と言って、私を抱いて窓から外に出してくれました。
すると、窓の外にはあの将校さんが待っていて、私を抱き降ろしてくれたのです。
そして、「ほんとに大丈夫ですか?」とニコニコして言いました。
「はい、もう大丈夫です。助けていただいてありがとうございました」
「しかし、ほんとに危なかったなあ、でもよかった。けれど一人で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。あのう…」
「え?」
「お名前を教えていただけますか?」
すると何がおかしいのか、将校さんはプッと吹き出し、
「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰りなさい」と言い、大分空いてきた車両に乗り込みました。
そして窓から顔を出して、「気をつけて帰るんだよ!」と言って、将校さんは私に手を振りました。
爽やかな笑顔でした。
列車がゆっくりと動き出しました。
黒い煙を吐きながら、ポッポーと汽笛を鳴らし、列車は速度を増してホームから離れて行きました。
将校さんの振る手が遠く遠くなっていきます。
長い汽車の列が段々と縮んで線となり、更に線から点になった汽車が遠く遠くかすんで見えなくなるまで、私は、その場に立ちすくんでいました。
将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。
あの轟音と共に激しく揺れ動く汽車のステップで、自分の体を支え、大事な風呂敷包みを守るだけでも大変なことです。
下手をすれば自分も落ちてしまうかもしれないのに、それを顧みず気を失って落ちていく私を咄嗟に掴み、引っ張り上げて下さった将校さん。
なのに私は、充分なお礼も言えないままでした。
やはり、名前だけでも聞かせてもらえばよかったと、後でどれほど悔やんだか知れません。
生きている間に、もう一度お会いしてお礼を言いたい。
それは、私のこの五十年以上変わらぬ願いです。
この本を手にとって下さるようなご縁があれば、と望んでやみません。
紫色の風呂敷包みを持っていた将校さん、
今どこにいらっしゃいますか?
どうかこの言葉が届きますように! 私はいつも台湾から「ありがとうございました」と心に念じております!
****************************
第二章 日本統治時代
【古き良き日本時代】
私は昭和七年九月、台湾南部の都市、台南市で生まれました。
日本の台湾統治が始まって三十八年目のことでした。
ちょうど一年前の昭和六年九月には、満州事変が起こっており、翌年三月には「満州国」が建国されました。
同年十月に、国際連盟が満州国を否定すると、連盟の創立国であり常任理事国でもあった日本は、国際連盟を脱退し、日本を取り巻く国際情勢が騒然としてきた頃のことでした。
小鳥が生まれて初めて見たものをお母さんだと思うように、私も日本を母国と感じていました。
もちろん、子供時代は自分のことを日本人だと信じて疑っていませんでした。
名前も、昭和十五年の改姓名によって楊素秋から弘山喜美子という日本名をもっていました。
本章では日本統治時代のことを述べていきますが、ひと言で言うと、日本時代は、私にとってパラダイスでした。
良いことだらけで何から話してよいか分からない、と言って信じてもらえるでしょうか。
私が生まれた台南は、昔、都が置かれお城があった名残から、「府城」と呼ばれていました。
中でも「台南府城」の出身というと、台南の中でも城壁に囲まれた中心街の出身ということを表し、ここの出身者はプライドがありました。
私は、その「台南府城」の出身です。
台北が東京に喩えられるのに対して、台南はよく京都に喩えられます。
台南の人々はエレガントで言葉が優雅なのです。
もっとも、完璧主義でこだわりがあるのが欠点で、一般には台南出身者はケチで堅苦しくてうるさいという風に言われてもいます。
日本時代の台湾は、町全体が豊かで、特に台南はゆったりと時間が流れているようでした。
よく町の孔子廟では、詩人や文人が詩を作ってお互いに交換しあって楽しんでいました。
非常に安定した社会で、隣近所とは互いに信頼し合い、相互の信頼関係、人と人との絆が素晴らしかったのです。
ですから、どこに行っても安心出来ました。
それこそ枕を高くして寝ることが出来る世の中でした。
一方、今はどうでしょう。
外を歩いていて何か話しかけてくる人があると、警戒心と不信感がまず頭をもたげてしまいます。
また、現在の台湾の町並みを見てもらえば分かりますが、どの家にも鉄格子が付けてあります。
まるで、自分で作った牢屋に自分で住んでいるかのようです。
私の家もマンションの玄関のドアが二重にしてあり、窓には鉄格子がしてあります。
それでも、空き巣に綺麗に洗いざらい盗られたことがありました。
私は鉄格子の無い家に住みたいとつくづく思うのです。
鉄格子の無い家で、戸締まりをしなくても安心して眠ることが出来た日本時代に戻りたいのです。
道端で品物を拾っても、決して自分のものにすることのない時代にしたいのです。
日本時代は、人民は政府を信頼していました。
そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。
また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。
もしもタイムマシンで元に戻れるのなら、もう一度日本時代に戻りたいのです。
あの平和で穏やかな時代に。
【日本統治の功績】
台湾には濁水渓という大きな川があります。
この川は、濁った水と清水とが右左に分かれて流れ、どんなに嵐が来ても大水が来ても決して混ざり合わないのです。
昔、老人たちはよく言っていたものです。
濁水渓の水が澄んだら天下泰平になる、と。
そして、その濁水渓の水が、日本軍が台湾を接収しに上陸した時、五日間だけ綺麗になったと伝えられていました。
五日間澄んだので、人々は日本の統治はきっと五十年だろうと噂していました。
日清戦争に勝利し、清国から台湾を接収した日本は、新領土である台湾を素晴らしい島と思い、日本と同じ、いや、それ以上のものを台湾に作ろうとしたように思えます。
台湾総督府は、「百年計画」という都市計画に則って台湾の産業や生活の基礎を築いていきました。
それがどれほど優れているものだったかという証拠に、現在の台湾の都市計画は、日本時代の都市計画に基づいているのです。
台北を走るMRT(地下鉄)や、上下水道、台湾の南北を繋ぐ縦貫鉄道や縦貫道路、等々全てです。
それらの中には戦後に台湾に来た中国人が作ったと言われているものもありますが、それは間違いです。
全部日本人が設計して作ったものです。
鉄道の台南駅、新竹駅、台中駅、高雄駅などはどれも芸術的にも優れています。
高雄駅などはまるでお城のように立派に建てられ、あまりに素晴らしいので、狭くなって建て替えた時も、壊すにはもったいなくて、下から掘り起こして移築したほどでした。
また、日本人は教育にも力を入れていて、新しい土地に行くと必ず学校を作りました。
台湾でも大学から中学校(現在の中学と高等学校を合わせたものに相当)、小学校、幼稚園まで作り、しかも、当時の日本よりも立派な建物でした。台湾大学も東大をモデルに作られています。
台湾から東京の医学専門学校に入る人がいたのですから、どのくらい台湾を立派な国にしようと思っていたかが伺い知れます。
私の考えでは、当時は内地(日本)から人材を派遣することがなかなか難しかったので、ここ台湾で人材を養成して、この国の基礎固めを手助けするという形をとったのではないでしょうか。
あるいは、もっと広大な思想の下に行ったのかもしれません。
更に、素晴らしかった点は、造林に精を出したことです。
木を植える国は発展します。
木を伐ってしまう国は必ず潰れます。
なぜなら、木というのは山の神様だからです。
神様を大切にしなければ国は発展しません。
その点、日本の造林は本当によく出来ていました。
樹齢が何年以上のものはいつ伐採すると、きちんと番号をつけて管理していたのだそうです。
そして、伐採した木の跡にはすぐに苗を植えました。
伐ったら何十年でちょうどこちらの山の木が大きくなっているという具合に山一つを百年計画で伐っていたというのです。
ところが、終戦後、中国人が来てからというもの、ほとんどの木、特に桧を伐採してしまいました。
しかも、彼ら中国人は根っこまで掘り出して屏風にしてしまったのです。
ですから、今では土砂崩れといった災害があちこちで起きていますが、当然の結果と言えるでしょう。
国民党は台湾に来て壊すばかりで何の計画もしませんでした。
それどころか、日本のものといったら神社の鳥居までも全部壊してしまいました。
韓国でも日本は台湾と同様の統治をしたと思いますが、韓国は日本にありがとうと言ったことはないようですね。
良いことをしてもらってどうして感謝しないのでしょうか。
私にはそれが不思議で仕方がありません。
【父母のこと】
私は、弘明電気商会という電気店を経営する弘山家の次女として生まれました。家族は両親に兄、妹が二人に弟が一人でした。
弘山という名前は、昭和十五年、私が小学校二年生の時に両親が日本名に改姓名した名前です。元々は楊という名前でした。
父母が生まれた時、台湾は既に日本時代でした。
それで、父は完璧に日本人になりきっていました。
父の日本名は、弘山清一です。
父の祖先は白虎将軍といって清朝の役人をしていたそうで、今で言うと勲何等といった位を持っていたようです。
ただ、私は子供の頃から清朝と聞くとあまりいい気持ちはしませんでした。
父は小さい頃に養子に行ったそうですが、そこの家はわりあいに裕福で、また台北工業学校に通っていた間、父は奨学金をもらっていて、その中から同郷の貧しい後輩を助けていたといいます。
父は学校の成績が良いだけでなく、囲碁などもやり、運動選手でもありました。
私が小学校一年生の時、何かで賞をとって、賞品として羽織袴をもらってきたこともありました。
父は台北工業学校を首席で卒業した後、台湾電力に勤めて台北で働いていました。
そして、父が二十九歳の時に、養母から呼び戻され母とお見合いをし、母の母が父をなかなか正直で真面目そうな青年だと感じたことで、結婚することになったのです。
当時父は二十九歳、母は二十七歳で、その頃としては二人とも晩婚でした。
父は、結婚して台南に来てからも電力会社に勤め、ずいぶんといい給料を頂いていたそうです。
父の部下には、大勢の日本人がいたと聞いています。
つまり、日本時代には、台湾人でも日本人の上に立つことが出来たのです。
部下の日本人も皆父のことを尊敬していたそうです。
その後、電力会社を退職して、自分で弘明電気商会という電気店の経営を始めました。
魚の養殖池に海水を取り入れて循環させるモーターの全島一手販売(台湾の総代理店)を手がけるなど、十数人の丁稚奉公を抱えて手広く事業をしていました。
それに、父は電話にかけては専門家でしたから、四春園というホテルと台南病院の電話の一切を引き受けていました。
また、皆が電球や電池を買いに来たり、アイロンのヒューズが切れたといっては持って来たりして、弘明電気商会は台南ではなくてはならない存在だったようです。
家のすぐ近くには近松門左衛門の「国性爺合戦」で有名な鄭成功を祀った開山神社があり、神社のお祭りの時には、中学生を集めて相撲を取らせたりしていました。
私は女の子のくせに、コンクリートの塀に座ってよく相撲を見ていたものでした。
母は高雄の田舎の豪農の娘で、日本名は敏恵といいました。
母の父は漢方医をしていました。
ですから、母の兄弟はほとんど医者でした。
母も医者になろうとしていましたが、十九歳の時に父親が亡くなってしまったために勉強を続けられませんでした。
それでも、薬草の知識が豊富で、この草は食べられる、これは食べられない、これはどういう薬だとか、私が子供の頃は色々と教えてくれました。
母方の祖父の時代は、ちょうど日本の統治が始まったばかりの頃で、まだ各地方に日本でいうところの藩のようなものがあり、互いに勢力争いをしていたそうです。
祖父は村を守っている親玉、殿様みたいな存在で、自ら銃を持って自分の村を守っていたそうです。
当時は土匪(抗日ゲリラ)がいましたので、土匪が出たというとそれを征伐に行っていたといいます。
後に、日本軍が村に来た時は、銃を持っていると革命軍と思われてしまい物騒だからということで、二重になっている壁に銃を埋めて隠したそうです。
昭和の初期頃、家を立て替えた際に掘り出されたものの、すっかり錆び付いていて全く使い物にならなかったそうです。
****************************
第三章 素晴らしかった日本教育
【台南師範学校附属国民小学校へ入学】
父は、私を日本人ばかりの学校に入れてあげようとしたらしいのですが、これには母が反対しました。
それで、私は台南師範学校附属国民小学校という、台湾人が通う台湾で一番古い小学校に通うことになりました。
当時、初等教育には、公学校と小学校の二種類の学校がありました。
普段、台湾語を話している台湾人の子供達は、公学校でまず日本語の基礎から学びます。
一方、台湾に住んでいる日本人や、私のような台湾人でも日本語を常用している家庭の子供たちは、小学校に入って読み書き算盤など日本と同様の勉強をしていました。
私が入った国民小学校の校章は桜の花でした。
だから、今でも桜の花と聞いて思い浮かべるのは日本。
そして桜イコール「大和魂」です。
大和魂は凛とした清らかな力を放っているものです。
そこには美が存在しています。
先生はほとんど皆日本人でした。
何しろ日本の教師を養成する師範学校の附属小学校ですから、教育が違いました。
校長先生は師範学校に属しているということで校長先生とは言わず、主事先生と呼ばれていました。
私達の学校には伊藤主事先生という方がおられました。
また、師範学校卒業前の学生数人が教育実習生として、教室の後ろに座ってじっと教学を見ていましたが、私たちは「教生の先生」と呼んで慕っていました。
遊ぶ時はその教生の先生と一緒でした。
私たち女の子は、お手玉、おはじき、鞠つき、鬼ごっこなどをしました。
男の子の遊びは、戦争ごっこやベーゴマ、めんこ、凧上げなどでした。
当時の台湾は日本よりずっと日本的だったのかもしれません。
一年生の時の受け持ちの宮本先生は、とても美人。
優しくて気立ての良い先生でした。
私は、入学したその日から先生のとりこになってしまいました。
先生が大好きで、先生を見ているだけで嬉しくなってしまうのです。
宮本先生は、優しくて、よく頭を撫でて褒めてくれました。
宮本先生の教え方はとても分かりやすく、肌で感じる教え方、生活の中にある教え方と言ったらいいのでしょうか。
割算を教えるのに、お饅頭を実際に割って教えてくれました。
私たちを学校の裏にあった牧場に連れて行ってくれたこともあります。
先生が、
「これが飼葉といって牛の餌、それからこれは牛小屋で牛のお乳を搾る所。
それから、牛の搾ったお乳を牛乳といって瓶に詰めて、ラベルを貼って配達するんですよ」
と説明をしてくれました。
先生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」と聞くと、皆が「お母さんのおっぱい」と答えました。
私は威勢よく手を挙げて「はい、私はお父ちゃんのおっぱいで大きくなりました」と言い、皆に笑われたので、私は泣き出してしまいました。
その日の放課後、宮本先生は私の手をとって家まで一緒に来てくれ、父にことの成り行きを話してくれました。
父は「ワッハッハ」と笑っていました。
父にとっては、「父ちゃんのおっぱいで大きくなった」というのはとても嬉しい言葉だったのでしょう。
私を目の中に入れても痛くないほど可愛がってくれていましたから。
私はというと、先生が一緒に帰ってくれるだけで嬉しくて、泣いたことなんてケロッと忘れてしまっていました。
また、私が何か落とし物を拾って届けると、先生はまた私の手をとって家まで来てくれて、色々と私のことを褒めてくれました。
父は目尻を下げて聞いていました。
私たちの学校の先生は教育に非常に熱心でした。
親とのコミュニケーションも緊密でしたから、信頼関係がありました。
先生と生徒の間は、まるで親子や兄弟、姉妹のような関係だったのです。
【日の丸は心の中の国旗】
一年生の時は友達の名前を覚えるだけで大変でしたが、友達がだんだんと増えていくのは楽しいものでした。
二年生の時の担任は山本先生、三年生の途中までの担任の先生は菊池先生、三年生の二学期から五年生の初めまでが小谷先生、今でもスラスラと言えます。
朝礼は全校生徒が校庭に出て行われました。
まず、国旗掲揚です。我々下級生は、君が代を斉唱しながら、皆身じろぎもせず上級生が揚げる国旗に注目していました。
日の丸というのは本当に綺麗です。
当時、日の丸は私たちの国旗だと信じ、疑問に思うことなどありませんでした。
そして、今でも日の丸は私の心の中の国旗です。
他の人はどうなのか知りませんが、私には二つ祖国があるのです。
故郷が二つあるのです。
当時、私のように感じた人は沢山いたに違いありません。
私は白いハンカチがあればすぐに日の丸を作れます。
日の丸は、白と赤の二つの色で、非常にシンプル。
それでいて、無限にも似た多くのものを表している、こんなに素晴らしい国旗は世界にたった一つしかありません。
私は日の丸が大好きです。
そして、日の丸は、いつでも私の心の中にあります。
今の台湾の国旗よりも翩翻と翻る日の丸の旗が、私の脳裏にはいつも浮かんで来るのです。
色々な旗の中で一番初めに目に付くのは、やっぱり日の丸です。
旭日といったらこれから昇る太陽のこと。
素晴らしい、綺麗だ、と単純にそう思えるのです。
本当に素晴らしい。
日本人にももっと愛してもらいたいと思います。
日の丸が先頭で行進して行くのだったら、こちらもつい、ついて行きそうな気持ちになります。
自分の国旗なのに、今の日本で「日の丸を掲揚してはいけない」などと言う人がいるのは、一体どうしたことなのか理解に苦しみます。
全く馬鹿げたことだと思えて仕方ありません。
【愛情に溢れた先生たち】
日本人の先生方の素晴らしかった点として、自然に接して教えてくれたことが挙げられます。
その人の長所をちゃんと分かってくれ、まるで双葉を大きくするように育ててくれました。
例えば、ピアノが出来る人には、ピアノの演奏をさせたりするのです。
また、顔が綺麗でリズム感がある人には踊りを教えてあげたりといった具合です。
そういう所が一人一人の自信につながりました。
国民学校の時、私が接した先生の四人が四人とも、その子の長所を発見して伸ばしてあげようという先生でした。
師範学校は、教育のあり方を追求するという思想の下に設けられた学校ですから、私は本当に幸せだったと思っています。
ただ覚えろ、試験で百点をとるためにとにかく覚えるだけ覚えろ、という感じでは全くありませんでした。
ですから、学校に通うのは何よりも楽しいことでした。
昔の先生は本当の「先生」でした。
ただ、一足す一は二と教えるのではないのです。
一足す一はすなわち二ではない、一かもしれない、零かもしれない。
あるいは三になったり四になったりすることがある。
そういう生きた教育でした。
学校では出来る子も出来ない子もいましたが、先生は親身になって分け隔てなく教えてくれていました。
出来ない人を馬鹿にするようなことはありません。
とにかく助けてあげるという気持ちが表れていました。
出来なかったら生徒同士もお互いに教え合いましたし、先生もそうなるように努力していました。
とにかく、自分の受け持ちの子は全部一様に大きくなっていけるように、というような信念というか目標というか、考えがあったらしいのです。
しかし、優しいだけではなく、厳しい面もありました。
日本の先生は、時々拳固を振るうこともあります。
女の子に対してはビンタを張ることもありました。
しかし、腹が立って感情に任せてするのではなく、その子が絶対に悪いことをしたという場合に限られていました。
よほどのことでなければ生徒を叩くことはありませんでした。
子供を正すために叩くというのは、生徒に対する愛情がなければ出来ないことです。
親が子を思うような心がなければ、あのように叩けるものではありません。
ですから、終われば先生はけろっとしていましたし、生徒も先生の愛情を感じて、自分が悪かったのだと反省をするのです。
叩かれた子の親も、叩いて頂いて有り難うございます、と心から思うのです。
今、過去を振り返って日本人の先生のことを思うと、愛でもって子供たちの行く先を案じるという気持ちがなかったら、あのような教え方は出来なかったに違いないと思うのです。
先生のお給料は少ないのです。
その自分のなけなしのお金の中から子供に何か食べさせてあげるということが、今の先生に出来るでしょうか。
逆に、今の先生は子供の両親からお金を取ろうと狙ってばかりいるのではないでしょうか。
現に台湾では、先生が自分の家で補習班(塾)を開いて親からお金を取っています。
そのようなアルバイトをすることは、台湾では本当はいけないことです。
でも、していない方がおかしいぐらい、先生はアルバイトに精を出しています。
とても日本時代では考えられないことです。
****************************
第四章 優しい日本の兵隊さん
【日本の兵隊さんは我々の誇り】
日本の領土の一部だった台湾には、当然のことですが、日本軍が駐留していました。
台南には日本陸軍の第二歩兵連隊が駐留しており、そこから朝と晩にラッパが聞こえてきました。
同じラッパなのですが、朝の四時か五時頃には、そのラッパが「起きろよ起きろよ皆々起きろ、起きないと班長さんに叱られる」というように聞こえました。
夜は「兵隊さんは可哀想に、いつも叱られる」というふうに聞こえたものです。
時々、兵隊さんは町中で予行演習をしたのですが、それが私の家のすぐ近くだったので、窓からよく見えました。
ある日、いつものように演習の様子を窓越しに見ていると、家の前にある鳳凰木の下にいた兵隊さんが、立ち上がって銃を上げようとした拍子に銃を落としてしまいました。
それで上官から怒られひどく殴られました。
もう鼻血が出るまで殴打されているのです。
私は、その様子を息を殺して覗いていました。
子供心にも軍律というのは厳しいということを知ってはいましたが、目の前でその厳しさを見たのは初めてでした。
しかし、銃を落とした兵隊さんは、ビンタを張られても気を付けしたまま敬礼をして「ありがとうございました!」と言うだけです。
その敬礼は崩れず、実に格好がいいのです。
厳しさが空気から伝わって来ました。
このように、日本兵でだらしのない兵隊は一人も見たことがありませんでした。
日本の兵隊さんは潔くて爽やかで、気持ちがいい人たちばかりでした。
私たちは、自分の国の兵隊さんはこんなに素晴らしいのだと誇りにしていました。
当時、兵隊さんはまさに皆の憧れの的だったのです。
年に何回かある記念日には、兵隊さんの閲兵式がありました。
閲兵式の行進の歩調は、イチニ、イチニと時間が刻み込まれたようにピッタリ揃っていてすごいの一言でした。
何を見るよりも胸がスカッとしたものです。
沿道を埋め尽くした人々が、兵隊さんの行進をみんな固唾を飲んで見とれていました。
当時、次のような歌がありました。
鉄砲担いだ兵隊さん
足並みそろえて歩いてる
トットコトットコ歩いてる
兵隊さんは勇ましい
兵隊さんは大好きだ!
このように、全ての国民の中には兵隊さんの素晴らしいイメージが刻み込まれていました。
そして、実際の兵隊さんたちもその通りの素晴らしい人たちでした。
軍服には少しの乱れもなく、気持ちがよくて潔く爽やかで、何より子供たちに優しかったのです。
銃剣を持った兵隊さんは行進の時にしか見ませんでした。
兵隊さんの銃は敵を撃つものであって自分の同胞を撃つものではないからです。
昔の武士が日本刀をやたらと振り回さなかったように、日本の兵隊さんたちにも昔のそういう武士の魂がありました。
軍人魂といって悪い者は征伐し、良い者は守るという精神があったのです。
兵隊さんたちは、自分が大日本帝国陸海軍の兵隊であることに対して自負と誇りを持っていたようです。
当然のことですが、兵隊さんたちは、お国のために、天皇陛下のためにという意識が強かったように思いました。
私たちは、戦地の兵隊さんのために慰問袋を作ったことがありました。
慰問袋には手作りのものを詰めて、手紙を書いて一緒に入れました。
その手紙には
「兵隊さんお元気ですか。戦地で戦って暑いでしょう。
ありがとうございます。
無事、武運長久をお祈りします」と書きました。
また、千人針も縫いました。千人針は普通の人は一つだけ縫うのですが、寅年の人は三つ縫うことが出来ました。
なぜなら寅は強いからです。
相手を取らんということでしょうか。
【兵隊さんのために一生懸命食事を作る母】
終戦一年くらい前のことですが、日本の兵隊さんを載せた三隻の軍艦が、高雄の港の沖で敵の魚雷に当たって沈められました。
軍艦は高雄を出てマニラに向かう途中でした。
乗っていたのは陸軍の兵隊さんたちで、関東軍という話でした。
当時、戦局の悪化に伴って、本来は満州(現在の中国東北部)防衛のための関東軍の一部を、南部の方が危ないということで回そうとしたらしいのです。
ところが、船が高雄の港を出てすぐに魚雷に遭い沈められてしまったのです。
沈められた船に乗っていた兵隊さんたちの多くは、高雄港まで泳ぎ着いたそうで、生き残った兵隊が集められて混成部隊を組織したそうです。
泳ぎ着いた兵隊さんが、岸に上がってヘトヘトでお腹を空かせていたところへ、たまたま私の従兄弟が通りかかりました。
その兵隊さんたちに「どこかに食べるものありませんか?」と聞かれた従兄弟は、
「あるある。僕の叔母の所に行ったらいくらでも食べるものがある」と言って、真夜中に五、六人の兵隊さんを連れて来たことがありました。
私の母は、自分の子供のような年齢の兵隊さんたちを見ると、我が子のように思えてしょうがないらしく、母性愛をフルに発揮して、夜中じゅう何か作って、皆に食べさせていました。
病院を経営していた別の従兄弟は、奮起湖へ疎開するためしばらく病院を空けてしまうことになったので、そこに混成部隊の衛生隊を住まわせることにしました。
その衛生兵たちがうちに「こんにちは」と訪ねて来ると、お腹が空いている証拠なのです。
また、大社には大社国民学校というのがありましたが、その頃にはもうほとんど休校状態になっており、校舎に兵隊さんたちが住んでいました。
兵隊さんたちは、いくつかのグループになって代わる代わるやって来ました。
一つのグループが食べて帰ったら別のグループが来るという具合で、うちの練炭の上はいつでも忙しかったのを憶えています。
母は兵隊さんたちのためにおやつを用意したり、おじやとかご飯とかをいくらでも食べられるように大きな鍋で作っておくのです。
それで、皆食べてはお腹をさすりながら帰って行きました。
そんな母を、私は偉いと思いました。
兵隊さんは、疎開先の田舎では日本語が通じない人もいるので、自然とうちに足が向いたのではないでしょうか。
うちには、ぺちゃくちゃ喋る私たちもいるし、真剣に話を聞いてくれる私の父もいるし、一生懸命おやつを作って食べさせてくれる私の母もいるし、兵隊さんたちにとってはきっと楽しかったのでしょう。
私の母は、昔から世話好きで、一歩家に入った人をお腹を空かしたまま帰らせることはありませんでした。
兵隊さんたちに向かって「来ては駄目」と言ったことは一度もありませんでした。
明日もおいで、明日もおいでと言っていました。
だから、一度来た兵隊さんは、二度も三度も来たものでした。
【日常的だった兵隊さんとの触れ合い】
私の父はお風呂が好きで風呂桶を疎開先に持っていったのですが、それを見た兵隊さんたちがお風呂に入りたくて「喜美子ちゃん、皆さんが入った後でいいからお風呂に入らせてもらえないか、お父さんに聞いてくれないか」と言いました。
私がそのことを父に告げると、「いいよ。その代わり薪と水は自分で汲んでねと言っておいて」と言うので、兵隊さんにそう伝えると、もう喜んで、水を汲んで薪をいっぱい持って来て、お風呂を焚いていました。
お風呂に入る順番は、やはり位の高い人からでした。
伍長から先に入って上等兵がしんがりです。
皆、お風呂に入って気持ちがいいなと言って喜んでいました。
兵隊さんたちが、食事に来たりお風呂に入りに来たりするうちに、私ともずいぶんと親しくなりました。
「喜美子ちゃん、ごめんくださーい。おじゃましまーす」と薪を持って、まるで自分の家の炊事場みたいに入って来て、大きなかまどで芋を煮て食べたりしていました。
兵隊さんたちは、大体お昼時の少し後と三時頃とお風呂に入る時に来ました。
戦争中でしたが、疎開先の田舎では毎日何の変哲もない昨日の続きで、母も、兵隊さんたちがそろそろ来るなという時間になると食事やおやつを一生懸命作っていました。
うちに来る兵隊さんたちの中に小さな人形を持っている人がいました。
ある時、その人が奥の部屋に行って静かにしていたので、私が心配して行ってみると、人形を手に持って人知れず涙を流していたのです。
その人形は簡単な作りで、二つの手と二つの足、まん丸いお顔にピエロみたいな赤い三角のとんがり帽を被っていました。
子供だった私は訳が分からなかったので、それちょうだいと言いました。
すると、「これはいけない。これは君にあげられないよ」と言われました。
私は、そうか、きっと大切な物なのだろうと思い、諦めたのですが、あれはきっと内地に残してきた赤ちゃんのことを考えていたのではないかと思います。
****************************
第五章 戦後、中国人がやって来た
【国軍を出迎えに】
前述したように、私は子供の時、自分は日本人だと固く信じていました。
だから悲しかったのです。
突然、「君は今日から中国人だ」と言われた時に。
私も多くの人と同じように「なぜなんだ!?」と言って泣きました。
私は父に、どうして中国人でなければいけないのかと聞きました。
父は返事に窮して「中国人だから中国人だろ…」と口を濁していました。
それ以上私も聞きたくありませんでした。
中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。
しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。
ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。
国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。
しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。
それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。
ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。
そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。
更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。
日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。
その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。
敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。
私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージがものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。
不安な気持ちで一杯でした。
そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。
これはヒドイ!と思ったのです。
出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。
恐ろしい光景に見えました。
それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと思っていました。
それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。
まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。
今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。
女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。
台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。
その時はまだ日本人の先生が学校で教えてはいましたが、日本人の先生は出迎えに来ていませんでした。
これからどうするの?と思いました。
酷くなるとか酷くならないとか、そんな問題ではないのです。
こういう人たちが来て一体どうするのか…と。
そして、終戦から約三年間、台湾に住んでいた日本人は非常に気の毒でした。
日本に持ち帰れるものは制限されていましたから、自分の持ち物を露天でゴザを敷いて売っているのです。
当時は、私もお金は余り使いたくはなかったのですが、それでも気の毒なので買ってあげました。
その人たちも住み慣れた台湾を離れたくなかったに決まっています。
【呆れた中国兵】
私の家にもありましたが、当時の電気屋には店先の机の上に電球がつくかどうかを調べるソケットがありました。
これは聞いた話ですが、ある電気屋で電球を買って帰った中国兵が、家に帰って電気をつけてもつかないと文句を言ってきたそうなのです。
電気屋の主人がつかないはずがないと言うと、本当についていないと言うので、
「よし連れていって見せろ」と言って見に行きました。
見た途端に、おやじさんは怒るのを忘れてケラケラ笑い出したのだそうです。
なんとその中国兵は、机に穴を開けてそこに電球を突っ込んでいたのだそうです。
おやじさんは、「僕たちのは線がついていて、ちゃんと電力会社から電気を買っているんだ。これじゃあつくはずないじゃないか」と言ったのですが、中国兵には、気の毒なことに電気って何なのか分からないのです。
また、こんなこともありました。
中国人が荒物屋で蛇口を一つ買いました。
台湾の人間が蛇口をひねったら水が出て来るから、これは不思議だといって自分も一つ買ったのです。
それで蛇口をつけて蛇口をひねってみたのですが、水が出ません。
そこで、水が出ないと言って荒物屋のおやじさんを殴ったのです。
おやじさんもなぜ殴られたのか、てんで分からなかったという話です。
そして、その中国人が「お前は詐欺師か。お前の家の水は出るのに、俺の家の水は出ないじゃないか」と言うのだそうです。
水が出て来ないなどということは、常識で考えてもまずありません。
おやじさんが見に行ってみたら、壁に穴を開けて蛇口だけ付けて水を出そうとしていたというのです。
中国人の生活はそういうレベルだったのでしょう。
私たちには、こう言っては申し訳ないですが、野蛮人みたいでした。
一方、彼らは、台湾の生活が珍しくてしょうがなかったのです。
【終戦後さっそく自転車を盗まれた】
日本時代は、家の戸を閉めなくても泥棒に入られることはありませんでした。
戦争の始まる前、私が小さい時には、家の戸を閉め忘れて開け放しにしていても大丈夫だったものです。
遅く帰って来た父が、「おっ、戸が閉まってないな」とパタンと閉めるだけでした。
時は経ち、中学一年の時のことです。
その時、私の家には自転車が三台ありました。
ずっと家の鍵はかけないものだったので、終戦後も私はうっかり鍵をかけずにいました。
大体、戦時中の爆弾の爆風で戸がうまく合わなかったのです。
そして、試験前の勉強をしている時に、お店の机にうつ伏せになってそのまま寝てしまいました。
起きてみると、三台の中で一番いい日本製の富士覇王という自転車が盗まれていました。
その頃、富士覇王の自転車を買える人というのは本当に裕福な人たちでした。
盗まれてからは、ノーパンクというパンクしない自転車で通学しなければならなくなりました。
この自転車はその名の通りタイヤに空気が入っていないので、相当力を入れてこがないといけません。
でこぼこ道ではガタンゴトンガタンゴトンとなり、乗り心地があまり良くありませんでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、楊さんの語りは、まだまだ続きます。
山崎豊子の小説に、中国残留孤児を扱った「大地の子」、戦時中に米国民だった日本人を扱った「二つの祖国」という小説があります。
どちらも内容の濃い小説で、一気に読んで感動する本ですが、この2作より、楊素秋さんの「日本人はとても素敵だった」がおもしろい。
とにかく、生の体験が持つ凄みが、軽快で読みやすい文章で展開されています。
なみなみならぬ日本語力です。
ご興味のある方は、是非、ご一読をお勧めします。
よろしかったらクリックを。
↓ ↓

親日国 日本の台湾統治の真実
『もう一度日本時代に戻りたいです』
【メルマガ購読予約募集中】
ねずブロのメルマガを購読し、ご一緒に日本の良い話を拡散しませんか?
購読のお申込は↓コチラ↓から。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
※発行開始は2011年10月3日からです。

