
先週、日心会メルマガで、インパール作戦について書いたものを4回にわたって連続ものでお送りしたのですが、このメルマガは、たいへんな反響をいただき、数多くの方からメールをいただきました。
その中に、いま大阪にお住まいのある方から、叔父様が実際にインパール作戦に従軍されていた、というお話がありました。
ご本人様からのご承諾をいただきましたので、ご紹介します。
~~~~~~~~~~~
インパール作戦についてメール文を送ってくださったことに感謝いたします。
ねずきちさんの歴史に対する視点の深さをうかがえると同時に、たいへん興味深い文でした。
と申しますのは、小生、インパールに関しては特別な想いがあるからです。
その理由を述べさせていただきます。
私事で恐縮です。
小生の叔父は大正8年生まれで93歳ですが、いまでも大阪の○○で元気に暮らしています。
この叔父とは、戦前、印刷工をしていた普通のオッサンですが、シナ事変が拡大すると名誉の召集を受け、小生の親父がつくった足場にたって、「お国のために尽くします」と町内の人々に誓って出征しました。
それからの彼は、シナ大陸で戦い、インパール作戦では高橋部隊の衛生兵として従軍し、白骨街道を通り抜け、命からがら復員した兵士の一人です。
歴史が好きな小生は、叔父からインパールでの戦いと、日本軍の撤退状況について聞き取りをして、書き残していますが、タダ、悲惨の一言に尽きます。
たとえば、叔父が申しましたのは、食料不足が原因で栄養失調になる兵士が出てきたそうです。
そんな兵士は、行軍できません。
と言っても、物量にまかせた英軍が攻撃してくるので、部隊が行軍(=撤退)しなければ、全員が死ぬことになります。
なので、飢餓に苦しんでいる兵士は、部隊長が衛生兵に命じて安楽死させたそうです。
もちろん色んな意見があるでしょう。
しかしながら、部隊長とか叔父を責める気持ちは毛頭ありません。
ナゼナラ、部隊長の行動は、部隊が全滅するのを防ぐための行為と言えるからです。
これは、生き残った叔父の戦友も申しておりました。
それよりも、現在の価値観で歴史を裁いても無意味と考えるからです。
そんな歴史の暗い一面もありますが、誇りに思うこともあります。
戦局が悪化して敗残兵の様な状態になっても、高橋部隊長の指揮の下、皇軍としての士気は高く、軍律は守られて、兵士は食べるものがなくとも、現地の人々から食料を奪うようなことは決してせず、それどころか、撤退する日本軍に協力的だったのが現地の人々だったと伺いました。
また、叔父は衛生兵であったゆえに、ビルマの村人に基本的な治療法を教えたところ、嫁を世話するから村に残ってくれと村長から懇願されたそうです。
アジアを侵略したという輩がマスコミで跋扈していますが、ねずきちさん、われわれの先人は、アジアで決して無用な殺傷はいたしておりません。
叔父は申していました。
そりゃ、原住民から食料を略奪すればことは簡単だり、第一、飢えて死ぬこともなかっただろうと!
(後略)
~~~~~~~~~~
「歴史は学ぶためにある」というのが、ボクの変らぬ主張です。
ねずブロもそのことをテーマに書き続けています。
戦後の私たちは、何事につけ「評価」し、「裁く」という習慣付けがされているように思うのです。
ランキングなんていうのもその典型で、いろいろな物事に、すぐに順位をつけ「評価」しようとする。
歴史に対しても、たとえば「インパール作戦は間違っていた」という先入観から、作戦そのものを裁こうとする。そんな風潮があります。
ボクは、これは間違った歴史との向き合い方だと思っています。
謙虚にインパール作戦から「学ぼう」とするなら、不思議な点がいくつもでてきます。
白骨街道で餓死した。なぜ?
民家はなかったの?
現地の人はいなかったの?
兵隊さんは武器を持っていたのじゃないの?
それならどうして村人を襲って牛や馬を奪って食べなかったの?
インパール作戦って、日英両軍ともに10万人以上の陸軍兵力を繰り出した世界史上まれにみる大陸戦でしょ? なのにどうして英国はインパール作戦勝利の日を【陸軍記念日」にしないの?
そしてその英国は、自国の支配地のインドから、あのパル判事を東京裁判に差し向けている。なぜ?どうして?
歴史を評価したり裁いたりするのではなく、謙虚に学ぼうとすれば、そうした疑問がたくさんわいてくる。
そして、疑問というのは、調べれば必ずちゃんとした答えがあるものです。
インパール作戦は、インドの植民地支配からの開放を目的として断行された戦いです。
そして出撃に際して総責任者である牟田口中将は、次のように述べています。
~~~~~~~~~~~~
ここに諸氏に告ぐ。
河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、「駿足にして無敵なる進攻」のみが本作戦勝利のカギと知るべし。
~~~~~~~~~~~~
要するに何が言いたいのかというと、そもそもインパール作戦は「迅速」を旨とする作戦であったということです。
日本は初動段階で、インパールの入り口をふさぐコヒマを占領します。
すぐ近くには、ディマプールという、英国軍の物資補給基地があった。
コヒマからディマプールまでというのは、わずか2日の距離です。
もし日本が、そのまま電撃作戦を止めず、ディマプールまで一気に攻め陥としていれば、補給の問題は解決した。つまり十分な食料を手に入れ、腹一杯食べて敵を粉砕することすら可能だった。
実際、アーサー・スウィンソンという英国のインド駐留軍第二師団参謀が、その著書である「四人のサムライ」の中で、次のようにインパールの戦いを記述しています。
~~~~~~~~~~~
当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。
~~~~~~~~~~~
実際に戦記を調べてみると、たしかに中盤までは、完全に日本側の勝利勝利の連続だったのです。
彼はさらに述べます。
~~~~~~~~~~~
当時のディマプールは、全地域にわたって、狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから、牟田口は確かに勝っていた。
~~~~~~~~~~~
ディマプールまで攻め込まず、コヒマで進撃を勝手に止めてしまったのは、現場の指揮官の造反です。
牟田口中将の作戦計画の総体を理解できず、あろうことか軍規に平気で違背して、我説をもって上官である無田口中将を批判し、勝手に進軍を停止させてしまった。
迅速果敢な進撃をすべき戦いにおいて、軍の進撃を勝手に停めてしまったのです。
こうした下士官の勝手な行動が、敵に巻き返しの隙を作ったのみならず、全軍を飢餓に陥れ、軍そのものの敗退を招いています。
そのことは、誰よりも敵将であり、ディマプールにいた英国スタッフォード将軍が、
~~~~~~~~
このとき、もし日本軍が、コヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら、(作戦全体において)英国に勝利はなかった。
~~~~~~~~
と書いている。
初戦の日本軍の猛攻に、国のアジア総司令官であるマウントバッテン卿は、ロンドンにある英国統合本部に、3月25日、次のように打電しています。
~~~~~~~~~~~~
もはやインパール街道と、ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。
第四軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。
唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。
よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい。
~~~~~~~~~~
その空輸がはじまったのが4月6日で、その日に、コヒマが陥落しているのです。
そしてディマプールは、目と鼻の先立った。
このとき、コヒマで進軍を勝手に停めてしまったのが、佐藤幸徳中将です。
佐藤中将は、進撃を停めてしまっただけでなく、日本側の敗色が濃くなって来た時点で、指揮下にある1万の将兵をさっさと戦線離脱させ、撤退している。
これが抗命事件で、この結果、戦後の歴史学者の間では、佐藤中将は部下1万名の命を救った英雄と讃えられている。
ところが、この佐藤中将の勝手な進撃放棄と独断撤退によって、インパル作戦全体では、出撃した9万の日本兵のうち、3万名が戦死し、4万名が戦病死しています。
9人に7人までもが還らぬ人となった。
そして戦死、戦病死とも共通しているのは、餓死が大半を占めていたという事実です。
疾風怒濤の進撃を旨とすべき作戦で、軍を勝手に停止させ、身勝手な言い分で勝手に部下を撤退させ、結果として1万の部下の将兵を救うために、他の7万の同胞を見殺しにした佐藤幸徳中将が高く評価され、本来勝てるべく作戦を遂行した牟田口中将が誹謗され、中傷される。
これが戦後の日本の歴史家の姿勢というのなら、そのような歴史家は、いらない。
ボクはそう思います。
そしてそれ以上に、インパールで作戦に従事した日本の将兵は、実に立派だったと思う。
大怪我をして痛む体を引きずり、マラリアに侵されて高熱を発し、しかも何日も食べ物を口にしていない。
そしてその撤退ルートには、英国兵が現れては、日本の敗残兵狩りをしていた。
道ばたには、そこここに、日本兵の半ば白骨化した屍体が転がっている。
その屍体にはハエがたかり、ウジがわいている。
そんな過酷な状況の中で、怪我をし、腹を空かせて、お昼時や夕暮れになると、おいしそうな匂いが、現地の人達の家々からたちのぼってくるのです。
日本兵たちは敗残兵とはいえ、銃を持っています。
手榴弾もある。
非武装の民家を襲えば、食べ物だって手に入るし、酒もある。
腹一杯飯を食ったら、そこには若くてきれいな娘さんがいる。
裸にして強姦すれば、何日もしていない精を吐き出すことも可能です。
ところが、実際に起こったのは、戦いに破れ、潰走する街道筋で、日本兵に教われたという家は一件もない。
それどころか、心配した現地の人達が、道ばたに現れて、日本兵のために炊き出しをしてくれたり、飲み物や果物を提供してくれたりもした。
そうしてたすけられた中のひとりが、メールをくださった方の今年93歳になる叔父様で、彼は衛生兵だったから、お礼に現地の人に基本的な治療法などを教えてあげたところ、これがたいへんに喜ばれ、嫁を世話するから、どうしても現地に残ってくれと懇願されています。
もし日本兵のひとりでも、民家を襲ったり奪ったりしていた事実があるのなら、嫁を世話するから残ってほしいなどと、そんなことは絶対に起こりえない。
9人に2人しか生きて帰還することができなかった街道筋において、9万人の日本兵が、撤退に際し、バラバラになって軍の指揮命令系統がめちゃくちゃになっていながら、誰ひとり、民家を襲ったりせず、お腹を空かせて飢え死にしたという事実。
人間飢えたら、泥水だって平気ですすると言うけれど、どんなに飢えていても、平和に暮らす現地の人を襲ったり、奪ったり、強姦したりする者が、日本兵の中には誰一人いなかったという事実を、私たちはよくよく噛みしめてみなければならないと思うのです。
そしてこのことは、東日本大震災において、多くの日本人が、あの非常時においてすら実に整然と行動したことと、ある種、共通するものといえるのではないでしょうか。
これこそ日本の誇りなのではないかと、ボクは思います。
【関連記事】
■インパール作戦とパル判事
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1164.html
■インパール作戦・・・続き
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1170.html
■勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html
■チャンドラ・ボーズ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html
よろしかったらクリックを。
↓ ↓

【メルマガ購読予約募集中】
ねずブロのメルマガを購読し、ご一緒に日本の良い話を拡散しませんか?
購読のお申込は↓コチラ↓から。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
※発行開始は2011年10月3日からです。

