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醍醐忠重海軍中将
醍醐忠重海軍中将

早いもので、今年ももう10月になりました。
先月発表された国税庁の民間給与実態統計調査では、昨年の年収200万円以下の給与所得者は、5年連続で1000万人を超えているとのことです。
2010年の一年間を通じて、勤務した給与所得者数は4552万人です。
そのうち、年収200万円以下の人達は、1045万人に達します。
労働者の4人にひとりが年収200万円以下になってしまっているわけです。


なかでも、パートや契約社員など非正規労働者の場合、4人に3人までもが、年収200万円以下という統計も出ている(厚生労働省調査)。
東日本大震災の前の年ですら、これです。
今年(2011年)は、いったいどうなっていることやら。
これがいまの日本の実態です。
バブル期にあれだけ繁栄を謳歌した日本が、いまや貧国になろうとしているのです。
いま、安定した大企業にいる人も、安閑とはしていられません。
東電などは、極めて大きな親方日の丸的な会社だったのですが、そこでも大幅な雇用カットが行われる見込みです。
さらに加えて、他の電力会社、またその下請けにも雇用カットが促進される。
これからどれだけたくさんの失業者が巷にあふれるようになるか。
考えただけでも恐ろしいことです。
長年勤めていた会社を追い出され、職安に通うけれど仕事が見つからない。
その挙げ句、これまで社会人となってずっとホワイトカラーでやってきた人が、最近では現場労働者や工場で、時間給労働者となって働いてるケースも多くなりました。
中高年になると、若い頃と違い、体の疲れもとれにくいし、腰や肩などへの負担もかかりやすい。
それでも家族を支えるために、年収200万以下でも、一生懸命、黙々と働いている多くの人達が、いま、この日本に増えています。
さぞかしたいへんだろうと思います。
さぞかしおつらいだろうなと思います。
こんなことになるくらいなら、死んでしまった方がましだった、と思い詰められている中高年も多いと聞きます。
そんな人達に、是非知っていただきたいのが、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将のお話です。
醍醐海軍中将は、戦時中、日本海軍の第六艦隊司令長官となられていたお方です。
第六艦隊というのは、潜水艦隊です。
醍醐(だいご)という名字からもおわかりいただけるように、中将は、名門の醍醐家の嫡男としてお生まれになられた方です。お生まれは、明治24(1891)年です。
醍醐家というのは、旧侯爵家です。華族です。
明治時代、身分制保持のために、置かれたのが「公侯伯子男」という位階です。
公爵 Duke, Duchess で簡単に言ったらご皇族です。
侯爵 Marquess/Marquis, Marchioness は貴族。
伯爵 Earl/Count, Countess は元大名家。
子爵 Viscount, Viscountess は武家。
男爵 Baron, Baroness は社会的に成功した人の家です。
こうした爵位制度は、戦後、現行憲法によって廃止となりましたが、戦前まではたしかにあった制度で、いまでも欧州などでは、れっきとした爵位制度が息づいています。
そしてその侯爵家の長男として、家を継ぐ運命を持ってお生まれになった醍醐中将は、幼くしてご両親を失い、みなし子(孤児)となってしまいます。
醍醐中将は、同じく華族である一條家にひきとられて育てられたのだけれど、彼は決して負けない。
乃木大将が院長を勤めていた学習院旧制中学に入校し、講道館で柔道の練習に励んだ。
柔道はとてもお強かったそうです。
そして明治42(1909)年、18歳で海軍兵学校に入校する。
入校時の成績は、150名中、第126位だったそうです。
けれど卒業時には、17位になっている。
兵学校に入ってから、彼がずっと努力し続けた結果です。
兵学校で同期だった福留繁(元海軍中将)によると、兵学校時代の醍醐中将は、「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、上品で服装もきちんとしていた。酒を飲んでも少しも乱れることはなく、謹厳で、しかも謙譲な奴だった」といいます。
兵学校を卒業した醍醐中将は、そのまま海軍に入隊します。
普通、これはありえない。
なぜなら普通なら、海軍兵学校卒業者は、そのまま海軍大学校に進学する。
海軍大学に進学すれば、卒業したらそのまま高級士官となれるからです。
けれど醍醐中将は、兵学校の成績上位者であったにもかかわらず、あえて現場勤務を選択しました。
あえてイバラの道を選択したわけです。
華族だからといって、自分を甘やかすことを良しとしなかったのです。
海軍に入隊した醍醐中将は、はじめ巡洋戦艦「吾妻」の乗組員となり、次いで大正6(1917)年には、初の潜水艦勤務に就きます。
当時潜水艦は、海軍の中でも、非常に危険な乗り物です。
艦内は狭く、排ガスが充満し、室内温度は40~50℃にもなる。
ここでも彼は、あえてイバラの道を選択したのです。
このころの醍醐中将は、肩書きが「大尉」でした。
そして華族であり、海軍兵学校の成績優秀者でもある醍醐のもとには「練習艦隊参謀」にという内示もあった。
けれど、彼はそれを断っています。
生涯を、その狭くて苦しくて、命の危険と常に隣り合わせにある潜水艦乗りを選択したのです。
彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行う、という機会がありました。
このとき、醍醐少佐が艦長を務める潜水艦は、たった1隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させてしまった。
もちろん演習ですから実弾は使用していません。
けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく、全滅させられたというのは、まさに海軍を震撼させる大事件となった。
醍醐少佐の手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれたのです。
たった一隻で全艦を轟沈させるというのは、単に運がよかっただけではすまされないことです。
艦長の冷静さと沈着さ、作戦の良さ、そしてなにより乗組員全員と艦長の強固な信頼関係と一体感がなければできる業ではないです。
ともすれば華族の艦長として、その地位に安閑とし、部下から「身分が違わあ、やってらんねえよ」と、面従腹背されがちです。
ところが醍醐少佐は、この艦の全乗組員の心をしっかりと掴んだ。
だからこそできた離れ業だったといえます。
人の心というのは、異体同心で、ひとつにまとまったとき、本当に大きな成果を生むことがあります。
私の会社でも、あるきっかけでみんなの心がひとつになったとき、いきなり生産量が倍増したことがある。
そうした経験は、おそらくこれをお読みの多くの方がきっと持っておいでのことだろうと思います。
昭和13(1938)年、醍醐47歳のとき、ご皇室の侍従武官の話が出ます。
このとき、彼は海軍大学校を出ていないから、と反対する人もあったそうです。
しかし、人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官となる。
当時を振り返って、入江侍従が次のように述べています。
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醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした。
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こういうまじめさ、あたたかさというのは、こんど記事でご紹介する谷藤少尉にも共通することです。
谷藤少尉は、最後の特攻兵となった方ですが、やはりクラシック音楽の好きな、まじめで平素はおとなしい方だった。
拉孟の戦いで、わずか1280名で2ヶ月間もの長きにわたって敵の5万の最新鋭部隊の攻撃を防ぎきって玉砕した金光恵次郎(かねみつえじろう)少佐も、どちらかというと、まじめて控えめでおとなしいタイプの人です。
平時なら、舐められるようなこうした真面目でおとなしいタイプの人が、本当に勇気を必要とする非常時において、ものすごく大きな力を発揮する。
さて、戦争も末期となった昭和20(1945)年5月のことです。
醍醐は、第六艦隊の司令長官に就任する。
第六艦隊というのは、潜水艦だけの艦隊です。
就任のとき、第六艦隊の潜水艦搭乗員、整備班、その他食堂の職員や予備兵にいたるまでの全員が、歓喜して彼を迎えたといいます。
醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新されたのです。
これもすごいことです。
日頃の醍醐中将の素行と信頼が、こうした大歓迎となってあらわれている。
この頃、作戦可能な潜水艦はたった9隻しかありませんでした。
そのたった9隻が、醍醐が司令長官となって以降、めざましい戦果をあげ続ける。
重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。
とりわけインデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊58潜水艦は、6本の魚雷を発射し、3本命中させて撃沈しています。
≪伊58潜水艦と原爆のお話≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-887.html
当時ニューヨークタイムズはインデアナポリスの轟沈を、「わが海戦史上最悪の1ページ」と書いている。
インデアナポリスが伊58の雷撃で沈没したのは、昭和20年7月30日のことです。
まさに終戦直前であり、戦況は完全に米軍有利となり、制海権、制空権とも、日本本土まで米軍側にあった時代です。
その時期に米軍の誇る重巡洋艦が撃沈させられたというのは、それほどまでに衝撃的な事件だったのです。
このことについては、もうすこし解説が必要かもしれません。
当時の米国は、いまの日本と似ているところがあって、民主主義の国家です。
第二次世界大戦で多くの国民が死に、全米には大きな厭戦気分が広がっていた。
それでもまだ勝ちいくさなら、人々の心は戦争遂行に傾きます。
けれど負ける、人が死ぬ、身内が死ぬとなると、多くの国民は戦争を遂行しよう、継続しようとする政府に対して、異を唱えるようになる。
米軍は、硫黄島、グアム、サイパン、沖縄戦等で、膨大な死者を出しています。
米国内には、もうこれ以上、死者を出さないで欲しいという気分が広がっていた。
そしてヨーロッパ戦線も終結し、日本には原爆が投下され、もう制空権も制海権も握ったから大丈夫、あと少しの辛抱ですと米国政府は宣伝していた矢先に、艦が沈められ、膨大な死者をまた出したわけです。
米国内に厭戦気分、反戦気運が高まれば、それだけ日本は有利に講和を進められる。
日本から見れば、特に終戦間際の頃の日本では、仮に敗戦となるとしても、できる限り有利な条件を相手国から引き出す必要が遭ったし、そのためには米軍に対して、大打撃を与える戦果が必要だったわけです。
その目的を醍醐中将率いる第六艦隊は、見事に果たして行ったのです。
ただし、これを実現するために、醍醐中将はおおきな犠牲を払う必要があった。
人間魚雷「回天」です。
醍醐中将は、回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与したといいます。
そして、ひとりひとりの隊員の顔と名前を、しっかりと彼の心の中にきざんだ。
醍醐中将は、回天乗組員の若者一人一人と握手した。
ひとりひとりの顔と名前と中将は、しっかりと心に刻み込んだのです。
そのとき、醍醐中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたといいます。
優秀な若者を特攻させなければならない、出撃を命じる第六艦隊司令長官は、まだ同時に若者達の命が失われることに深く悩んでいた司令長官でもあったのです。
終戦後のことになりますが、実は、艦隊司令部に、少なからぬ機密費が残りました。
そしてそのお金の処分が、醍醐長官の決定に託されたときのことです。
醍醐中将は、鳥巣参謀とその処理を協議します。
醍醐「このお金は国家のお金です。ですから一銭たりとも私すべきものではありません。何か有意義な使い道はありませんか?」
鳥巣参謀が答えます。
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、この混乱の中ではとても手が回りかねます。回天関係ならば全員わかっていますから」
醍醐中将は、この方法に賛成し、決定します。
決定は、昭和21(1946)年正月から春にかけて実行に移されました。
各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えたのです。
遠距離で行けないところには郵送しました。
このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
以下にその弔辞を引用します。
原文は文語体ですので、口語体に直したものを掲示します。
ぜひご一読いただきたい。
~~~~~~~~~~~
【弔辞】謹んで回天特別攻撃隊員の英霊に捧げます。
去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
皇国は鉾を収め、ポツダム宣言を受諾するに致りました。
まことに痛恨の極です。
何をもってこれにたとえたら良いのでしょう。
特に、散華された君の忠魂を偲ぶとき、哀々切々の情は、胸に迫り五臓がはりさけんばかりです。
かえりみると、君は志を海軍に立て、勇躍大東亜戦争に臨んだけれど、戦いは中途から利がなくなり、そのため憂国のため義に就こうと、君は回天特別攻撃隊員となり、もって戦勢を挽回しようとしてくださいました。
其の闘魂精神は、まさに鬼神をも泣かしむるものです。
そして毎日の厳しい秋霜烈日の訓練に従事し、ひとたび出撃するや、必死必殺の体当り攻撃をして、敵艦船を轟沈するの偉功をたてました。
そして、悠久の大義に殉じられた。
その忠烈は、万世に燦然と輝くものです。
けれど、君の武勲は輝かしいものであったけれど、戦況に利がなく、ついに今日の悲運に遭うことになりました。
いったい誰が、この事態を予期したことでしょう。
私たち幹部は、君の期待に副ひ得ず、また君の忠魂を慰めることはできません。
ああ、また何をか言わんやです。
けれど、君の誠忠遺烈は、万古国民の精髄です。
君の七生報国の精神は、脈々として永遠に皇国を護ります。
今や皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
今後の皇国が受けるイバラの道は、実に計り知れないものでしょう。
けれど私たちは、君の特攻精神を継承し、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て新日本建設に邁進しようと思います。
願わくば成仏してください。
ここに恭しく敬弔の誠を捧げ、君の英霊を慰めます。
在天の霊来たり餐けよ。
元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
~~~~~~~~~~~

醍醐中将の弔辞(原文)
醍醐中将弔辞

遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた、という方もあったようです。
その弟さんは「亡き兄のひき合わせである」と、父母と共にたいへんに喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になった。
それを聞いて、鳥巣元参謀は喜んだそうです。
「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」
しかしその頃、醍醐中将はすでに生きていなかった。
実は、今日、いちばん書きたかったのが、これからお話する事柄です。
昭和21(1946)年12月のことです。
醍醐中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けたのです。
そしてその日のうちに巣鴨に収容された。
そしてバタビアを経て、翌年二月上旬には、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。
実は醍醐中将は、昭和18年11月から第22特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのです。
そこでポンチャナック事件に遭遇した。
この事件は、昭和18年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオで、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化したときのものです。
ある日、ポンチャナックの特別警備隊長のもとに、副隊長がつかんだ情報がもたらされた。
それは、12月8日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を入れる、というものです。
その毒で、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようという計略でした。
報告を受けた第22司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令した。
そして調査の結果、これら千余人は、まちがいなく毒殺と反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。
しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没している。
いつ連合軍の上陸があるかも知れないという緊迫した状況です。
加えて日本軍警備隊といっても、たかだか百人ほどしかいない。
逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかも知れないし、いったん反乱が起きれば、日本側が全滅するのは火を見るより明らかだった。
そこで司令部は、4月上旬、事件首謀者の即時処刑を命じました。
そういう事件です。
一方、終戦後のボルネオでは、植民地支配者であるオランダに対して、猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
オランダにしてみれば、自分たちが支配するボルネオで、犬猫以下と思っていた原住民たちから、反乱されたのです。
オランダからすれば、現地人に武器の使い方や、行政の仕方や自治統治を教え、植民地支配からの独立を煽った日本が憎くてたまらない。
そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、君たちを苛んだ日本軍を「我々が追い出してあげた」というポーズを作ろうと画策します。
そのためのやり玉として、醍醐中将への報復裁判を演出しようとしたわけです。
こうして醍醐中将は、事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されたのです。
実に身勝手で酷い話です。
けれどこういう無法が戦勝国によって現実に行われた。
日本では「勝てば官軍」というけれど、これは日本だけに通用する世界の非常識です。
世界は「勝てば絶対的支配者、負ければ生命財産貞操の全てを奪われる奴隷となる」というのが常識なのです。
醍醐中将が収監されたポンチヤナック刑務所というのが、これまたとてもひどいところでした。
場所は、郊外の沼田の中にある。
土地が低いから雨が降ると水びたしになる。
井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわいている。
昭和49年になって、作家の豊田穣がこの地を訪れました。
戦後30年経っても、その汚さ、不衛生さはまったく変わりがなかったといいます。
刑務所の周囲には、深さ2メートルほどの「どぶ」があります。
そこは、猫の死体などが浮いています。
泥水にヘドロやゴミ、排泄物などが混じって、臭気がひどい。
オランダ人の看守は、そのどぶさらいを醍醐中将に命じた。
醍醐中将は、その真っ暗などぶのにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何日もかけて掃除をさせられた。
敵といえども将は将として遇する。
日本はいつもそうしてきました。
けれど醍醐中将は、まさに復讐の意図を持って、報復的に働かされたのです。
毎日、笞で打たれた。
毎日、殴られた。
けれど醍醐中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしなかった。
このときの醍醐中将の年齢が56歳です。
実は、ボクと同じ年です。
昔の人は体が強かったとはいっても、寄る年波には勝てない。
目にも腰にも足にも肩にも来るのが、中高年です。
それでも醍醐中将は、愚痴ひとつ言わず頑張った。
インドネシア人の看守は、醍醐中将の堂々とした態度に、次第に心を惹かれてしまいます。
そして、「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」とまで言ってくれるようになった。
報復と復讐のために刑務所に収監し、中将に過酷な労役を課していた、その当の本人が、中将のために、自分が何か役立てることはないかとまで言い出したのです。
どんなに馬鹿にされても、罵られても、苦痛を強いられても、苦しくても辛くても、それに耐えぬき、堂々と生きる。
それが日本人の姿だとするならば、このときの醍醐中将の生き方は、まさに醍醐中将の姿によって敵の心をさえ、動かしたのです。
それでも中将の裁判は、はじめに結論ありきですから、すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も証人を呼ぶことも許されず、わずか3時間で、法廷は結審し、その場で死刑の判決が醍醐中将に与えられました。
死刑が確定した時、通訳が醍醐にそのことを伝えると、醍醐は、
「ありがとう。大変お世話になりました。オランダの裁判官の皆さんに、あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。
醍醐中将の処刑は、民衆の面前で行なわれました。
その様子を当時の華僑新聞が伝えています。
~~~~~~~~~~~
醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、身には真っ黒の洋服を着用、頭にはラシャの帽子を被り、目かくし布はなかった。
努めて平静の様子だった。
刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、彼は国歌を歌った。
その歌調には壮絶なものがあった。
歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
それが終わると、直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。
~~~~~~~~~~~
陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐の4カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著『生命の実相』 という本の行間に、針穴で次の文を書き綴りました。
これはのちに彼の遺品として日本に返還されました。
そこには、針の穴で次のように書いてあった。
~~~~~~~~~~~
12月5日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
かつて侍従武官までされた人だったのに。
12月6日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、閣下は私のお貸しした「生命の実相」をよくお読みになり、死の前日、そのお礼を申された。
閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。
~~~~~~~~~~~
「頑張る」と言う言葉があります。
その「頑張る」は、顔が晴れているから「顔晴る(がんばる)」ともいいます。
醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれました。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働こうとした。
そして誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世されました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。
そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接した。
そして君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。
ボクは、醍醐中将の生きざまに、まさに日本人としての生き方があるように思えるのです。
冒頭、書きましたように、いま日本人労働者の4人にひとりが年収200万以下の低所得者となっています。
妻子を抱え、住宅ローンを抱え、給料が減り、ときに職さえも失って、アルバイトやパートや、夜勤等の仕事をしながら、ギリギリの生活で家計を支えておいでのお父さんたちが、いまの日本には、たくさんおいでになる。
醍醐中将が亡くなられたのが64年前の10月です。
人は、「生きている」のではなくて、「生かされている」のだそうです。
命ある限り、生きて生きて行き抜かなければならない。
醍醐中将の死は、64年を経由したいま、現代の私たちに、
「どんなに辛くても、苦しくても、笑顔と誠実さを忘れることなく、しっかりと生き抜きなさい。顔晴れ!」とメッセージを発してくださっているような気がします。
醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
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※発行開始は2011年10月3日からです。

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