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握り寿司

以前、東北の宮城県の白石藩で、新田開墾のために私財を投じて水路を切り開いた片平観平(かたひらかんぺい)のことを書きました。
「名を残す・・・片平観平」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1133.html
この記事の中で、江戸時代の文化文政時代が、まさに江戸時代の中の江戸時代、江戸の庶民文化が花開いたときだと書きました。
江戸の町が舞台となる、たとえば銭形平次の物語とか、浮世絵の興隆、歌舞伎役者が世の人気をさらったのも、この文化文政時代です。


これより少し前の元禄時代というのは、どちらかというと江戸より上方(大阪)の文化が花開いた時代で、大阪の豪商、淀屋辰五郎が大名をもしのぐ大金持ちとなって天井に水槽を築き、そこで魚を飼ったなどという逸話が残されたのが、まさに元禄時代です。
文化文政時代というのは、これより100年ほどあとの時代で、第11代将軍の徳川家斉が、将軍職を引退して大御所となって牽制をふるった時代にあたります。
家斉は、わりと贅沢嗜好が強くて、おかげで江戸の文化が花開きました。
文化文政時代に出た有名人としては、東海道五十三次の安藤広重、世界的に有名な歌麿、北斎、東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九、天才歌舞伎役者として有名な七代目市川団十郎。
学問の世界では、35年がかりで古事記全巻の通訳本を出した本居宣長、解体新書を出した蘭学の杉田玄白などが生きたのも、この時代です。
そして忘れてならないのが、「寿司」と、「酢」です。
寿司といえば、ボクなどは貧乏性で、ひとりではなかなか知らない寿司屋の暖簾をくぐれず、もっぱら回転寿司のお世話にばかりなっているのですが、シャリの上にネタがちょいと乗っかった、江戸前寿司が生まれたのも、この文化文政時代のことです。
もともと、寿司自体はたいへん歴史の古い食べ物で、紀元前4世紀頃には米の中に塩味をつけた魚を漬けて発酵させた魚肉保存法として誕生したとされています。
魚からモツ(内臓)を取り出し、身の部分をお米のご飯に漬けて、ご飯の自然発酵作用によって、魚の保存性を高めた。
要するにご飯の中に「塩から」を包み込むことで、保存を高めたのだけれど、これを「なれずし」といって、数十日から数カ月たったところで魚をとりだし、発行に用いられた米は捨てていたのです。
「なれずし」として有名なのは、滋賀県琵琶湖の鮒寿司や、いま大雨による被害でたいへんな状況となっている和歌山県の「サンマのなれずし」などが有名です。
とりわけ和歌山県の「サンマのなれずし」などは、30年ものの長期保存のなれずしで、美肌効果だけでなく、一日一舐めするだけで、整腸、便秘解消、体内毒素の排出効果など、味のおいしさもさりながら、きわめて健康に良い食材としても有名です。
こうした「なれずし」が大きく変化したのが大阪市場で、いまでもバッテラと呼ばれる押し寿司が大阪寿司として有名です。
そしてこの押し寿司が、大きく変化したのが、文化文政時代の江戸だったのです。
それまでの寿司は、魚を保存するために米を使って発酵させて食するものだったのです。
ところが、発酵食品というのは、なんでもそうですが、出来上がるまでにものすごく時間がかかる。
魚を仕入れて、米に漬けて発酵させて、いざ食べれるようになるまでに、早くて1~2週間、長いものでは一年以上かかるわけです。
気の短い江戸っ子が、そんなに待ってなんていられねえ!とばかり、炊きたてのご飯に「酢」を混ぜて、発酵米のように装って、そこに新鮮な魚をちょいと乗せ、わさびを加えて、醤油に浸してポンと口に入れた。
これが江戸前寿司で、手軽に作れて、すぐに食べれることから、大評判になっていっきに普及した。
あまりの人気に、江戸前寿司は関西にも流れ出て、押し寿司の大阪寿司も、酢飯が用いられるようになった、というわけです。
実はこれには、「酢」の開発と量産化が重大なファクターになっています。
どういうことかというと、文化元(1804)年に、尾張名古屋の半田村で、造り酒屋を営んでいた中野又左衛門という人物が、江戸に出てきた。
そして彼は、酒粕を用いて、「酢」を作る技術を開発する。
ここで生まれた「酢」が、大阪から江戸に進出してきた寿司と出会います。
ご飯を発酵させて寿司を作るのではなく、炊きたてのご飯に酢を加えてこれを混ぜ、食べやすい大きさにシャリを握ってその上にネタを乗せて出したらどうか。
この提案に飛びついたのが、華屋という寿司店を営んでいた、華屋与兵衛です。
華屋与兵衛は、いまの北陸は福井県南部の若狭の生まれです。
伝染病のために両親が相次いで他界した与兵衛は、単身、江戸に出て小さな発酵寿司の店を開く。
そうです。若狭といえば、サバ寿司が有名です。
そこに現れたのが、酢造りの中野又左衛門でした。
米をいちいち発酵させなくても、酢を加えれば、あっという間に酢飯ができる。
なるほどと納得した与兵衛は、さっそくそれを「江戸前握り寿司」として商売にします。
これが大ヒットした。
なにせ手軽で早い、安い、旨い。
華屋が、江戸っ子にもてはやされて行列のできる店となると、次々と真似て新規出店する者が現れます。
おかげで、にぎり寿司は、瞬く間に江戸中に広がった。
江戸には、屋台で廉価なすしを売る「屋台店」が市中にあふれ、料亭のような店舗を構えて寿司を握る者、あるいは持ち帰りや配達ですしを売る者など、あっという間に江戸中に寿司が普及したのです。
そして箱寿司が主流であった大阪にも、江戸前寿司の店は広がり、天保年間には名古屋にも寿司店ができるようになった。
手軽な握り寿司は、あっと言う間に全国に広がったのです。
こうして江戸前寿司が普及するにつれ、酢の需要もうなぎ上りに増大します。
そしてこの「酢」を造っていた中野又左衛門の、酢屋も、またたく間に巨大な酢のメーカーに育って行きます。
その中野又左衛門が創業した酢屋は、いまでも営業していて、その社名が「ミツカン」。
そうです。あの「株式会社ミツカン」です。
ミツカンは、いまでも社長は中野又左衛門(中埜又左エ門)を名乗っている。
そして江戸で江戸前握り寿司をはじめた、華屋の与兵衛さんは、いまはライフコーポレーションの清水会長が設立した「華屋与兵衛」として、関東のファミリーレストランのチェーン店となっています。
ちなみに、どうも戦後の歴史教科書というのは、とにもかくにも江戸時代は貧しい時代で、武家が贅沢三昧な王侯貴族のような暮らしをし、庶民は貧窮のどん底暮らしを余儀なくされていたという史観を無理矢理生徒たちに刷り込もうという風潮があるようです。
こうした考え方は、共産主義の階級闘争史観に基づくもので、つねに物事を支配するものと支配される者、収奪する者と収奪される者という二極化した闘争という概念で語ろうとする。
けれど、すこし考えたらわかることなのだけれど、武家の家というのは、お城の中ですら空っぽで、西洋の王侯貴族のように、屋敷中に高価な宝玉がそこここに飾り立ててあるなんてことはまるでない。
武家しか米が食べられないような生活が支配していたのなら、江戸前寿司なんて普及するはずもない。
実際にはまるで逆で、民が豊であることこそ、武家の役割として認識されていたのが、江戸の武家社会です。
だからこそ、寿司だって、歌舞伎だって、江戸中期に花が咲いた。
さて、今夜は、まわり寿司でも食べに行こっかな(笑)
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