
昨日、放射線のことを書きましたので、今日は、実際に広島で起きた原爆による被爆者の体験談を書いてみようと思います。
体験者による実話です。
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昭和21年の夏のことです。
京都の西本願寺の接待所で、顔半分にケロイドを負った中年の男性がお茶をすすっていたそうです。
そしてその人が、周囲で腰を降ろしているお爺さんやおばさんたちと四方山話をしていた。
しばらくするとこの人が、茶を飲む手を下に置き、つぶやくように言ったそうです。
「あれから一年、もう一年になるなぁ」
表情にはなんともいいようのない苦渋が刻まれています。
あまりにこの男性が黙ったままなので、そばにいたお爺さんが「どうなさったんかね?」と尋ねたのだそうです。
するとこの男性がお茶碗をにぎりつぶすようにして、
「あれから一年ですよ。本当は私は生きていられなかったのです。それが不思議に命を拾わせてもらって、こうして本願寺様までお参りに来ることができるようになった。もったいないことです」と語りだしたのです。
「去年の8月6日、私は広島にいたんですよ。ちょうど工場に出勤する途中だったのです。
お寺の横の道が工場までの近道だったので、その道を通りがかったのです。
この道が、工場への近道だということを知っている人が何人かいてこの道を通っていました。
もうあとわずかで、お寺の塀が終わろうとしているところまで来た時、何かがピカッと光ったような感じがしました。
そして頭をガーンと殴られたように思いました。
そしてそのまま私は倒れてしまったのです。
何がなんだかわかりませんでした。
長い時間が経ったのか、それとも短い時間だったのかわかりません。
ふと我に返ると、顔に何かヌルヌルしているものが流れています。
それでそっと手を動かすと、何とそれは血だったのです。
私の顔は、血だらけだったのです。
ハッとしましたが、あまり痛いという感じはありませんでした。
これはたいへんなことになったと思って、立ち上がろうとしましたが、何かの下敷きになっていて立ち上がれません。
あたりを見回すと、何とお寺の塀は全部壊れています。
私はその壊れた塀の下敷きになっていたのです。
ようやくの思いで這い出してみると、体は動くのです。
それでそっと体を起こしてまわりを見ると、何と塀の向こうにある筈のお寺が全然ないのです。
消えてなくなってしまっているのです。
私にはそうとしか思えなかった。
堂々とした甍(いらか)を誇るようにして建っていたお寺の本堂が消えてなくなるということは、とても考えられなかった。
でもそれが事実だったのです。
何があったのかわからなかったけれど、とにかくたいへんなことが起こったということだけはわかりました。
それで私は、壊れた塀のかけらを押しのけるようにして取り除き、重圧から抜け出してそっと立ち上がりました。
するとどうでしょう。
見渡す限り、何もないのです。
広い広島の市内が、何もなくなっているのです。
牛田山や三滝山が目の前にあるのです。
あの山を目の前に見るということは、今までかつてなかった。
それが私の目の前に、ぐーっと迫っているのです。
いったい何があったからわかないまま、私はフラフラとしながら、歩いてみようとしました。
すると歩けるのです。
一生懸命歩きました。
けれど、どこがどうなっているのかわかりません。
だって、何もないのです。
私はモウロウとした意識のまま、歩き始めました。
そのとき、私のモウロウとした意識の中では、驚くということが消去されてしまっているようでした。
現実に起こっていることにたいし、ただモウロウと眺めていました。
惨劇であろうとなかろうと、それを判断することは、あのときの私にはできませんでした。
実際には大変な惨劇なのに、それが惨劇であるという意識は、あのときの私には全然ありませんでした。
ただ、もうろうとそれを眺めていたのです。
私は歩きました。
どこをどう歩いたかはわかりません。
いや、何もかもなくなってしまった広島は、どこがどうであるかさえ、わからなかったのです。
広島で育った私は、広島のことは何でも知っているのですが、その知っているはずの広島がわからなくなってしまっていたのです。
あんなに何もかもなくなってしまったら、誰でもあのときの私と同じようになってしまっただろうと思うのですよ」
ここまで話すと、そのケロイドの男の人は、そっと茶碗をそこに置きました。
そして大きく息を吸い込みました。
もっと話したいと思っているのでしょうが、その話したいことを、どう話したらよいか、また、その真実を話してよいものか、よくないものか、判断に困っているようでもありました。
そばに座っていたお婆さんが、
「どないしなすった? からだ、しんどおますか?」と尋ねると、そのケロイドの男の人は、はっとしたように、そのお婆さんの顔を見直しました。
そして冷えきった茶碗を手に取りました。
するとお婆さんが、その茶碗に、お茶を注いであげました。
「あれから一年、もう一年になるのですよ。
よう私は生きていたと思うんですよ。
私は歩いたののです。
原爆のため、何もかもなくなってしまった広島の街を歩いたのです。
なぜ歩いたのかと聞かれても、それを説明することはできません。
さっき申しましたように、私の頭はモウロウとしていたのです。
そのモウロウとした頭で、なぜ歩くのか、なぜ歩かなくてはならないのか、そんなことを考えることさえできませんでした。
ただ、しいて申すなら、生きているのだ、という感じだけは、そのときの私の心の中にあったのではないかと思います。
生きている。だから歩いた。
もっと違った言い方をすれば、生きているということを歩くことによって確かめていたのかもしれません。
よく『生きててよかった』というような喜びがあるというようなことを申される方もおいでですが、あのときの私には、生きておってよかった、というような、そんな感じは全然なかったのです。
生きているのか、死んでいるのか、歩きながら、それすら考えようとしていなかった。
ただ、モウロウと歩き続けていました。
そこで何を見たかと申されても、それはただモウロウとしてしまうのです。
何かを見たようにも思うが、そうでもなかったようにも思う。
実際には、いろんなものを見ているのでしょうが、あのとき見たものは、何がほんとうのもので、何が嘘なのかさえ、いまだに私の頭の中で、もやもやとしてはっきりとはわからないのです。
ただ、歩いている時、何か太い丸太のようのものがあると思っているいうちに、その丸太に足をとられて、バッタリとその場に倒れたのを覚えています。
私はノロノロと起き上がりながら、その丸太をそっと触ってみたのです。
するとその真っ黒な丸太が、ぐにゃりとします。
そして私の顔に流れているヌルヌルとした血と同じような感じのするものが、その真っ黒な丸太から流れているのです。
そのとき私は、ノロノロとした考えの中で、これは丸太ではなく、人の足だなあと考えさせられました。
でも、驚きもなければ、恐ろしいとか、汚いとかいった感じもおこりませんでした。
ただ、ここに人が死んで、その足が転がっているなあという感じは、あるにはありましたが、あのときの私には、人が死んでいるということも、その死んだ人の足が転がっているということに対しても、ぜんぜん何の感じも起きてこなかったのです。
これはあとで思いついたことなのですが、あのとき、死んだ人がたくさんいて、血も流れていただろうけれど、全然においがしなかった。
人が死んでしばらくすると、普通なら死臭というか、あの一種独特なにおいがしてくるものなのですが、あのときは全然、その独特のにおいがしてこなかった。
そのことはいまでも不思議に思います。
私の嗅覚が異常になっていたのかもしれません。
けれどあの、人間の大腿部と思われる足の感覚は、いまでもときどき思い出されるのですよ」
ケロイドの男は、つぶやくように、周囲のお爺さんや、お婆さんたちに話し、一息つくように、大きく息を飲み込みました。
周囲にいた人達は、この男の人が人間の足に触ったというところで、「ひえ~」とか「まあ!」とか悲鳴に似た声をあげていました。
いつのまにか、この男の人の周りには、たくさんの人達が集まっていました。
「それから私は、なお歩き続けていました。
さっきも申しましたように、なぜ歩くかといえば、それは何の理由もないのです。
ただ、歩き続けるだけなのです。
何もないと見えた広島の街にも、いろんなことが起こっていたのです。
やはり、生き残った人達も、案外多かったのです。
そしてそれは、私と同じで、やはり歩いているのです。
この歩いている人の数が、だんだん多くなってまいりました。
上半身火傷のため、無惨になりながら歩いている人もあります。
足を引きずりながら歩いている人もいます。
そのほとんどの人達の身体が、正常ではないのです。
そのうち、全裸になった人も歩いています。
この裸というのは、一糸まとわぬ裸、ということです。
男もです。女もです。
年をとった人も、若い人も、子供まで、裸体のままで歩いているのです。
これはあの原爆が落ちた時、ほとんどの人が防空服やモンペを身につけていました。
あの当時、上層からの指示で、この防空服やモンペは、常時身に付けておくようにしろとのことだったのです。
それが原爆の光を浴びた時、たいへんなことになったのです。
原爆の光線が防空服とモンペと人間の体を接着してしまったのです。
あのときのモンペや防空服は、だいたいが絣(かすり)が多かったのですが、絣には独特の色彩があります。
その色物が原爆の光を吸収して、人間の体に焼き付けたのです。
防空服を着ていた人が、その防空服を脱ごうとしてみると、その服が自分の体に焼き付けられているので、服を脱ぐことができないのです。
ヒイヒイ泣きわめきながら服を脱いでいる人、どうしても自分では服を脱ぐことができず、その服を他の人に脱がしてもらうとき、ぼろぼろになった着衣に、その人の肉片がついて離れるのです。
そんな姿をみていると、まだ原子爆弾の光線を受けていない人が、また原子爆弾が落ちて自分もあんなことになったらたいへんだ、ということで、自分で身につけている着衣のすべてを脱ぎ捨ててしまって、素っ裸になってしまった人が、そうとうたくさんあって、広島の街を歩いているのです。
普通のときだったら異様としかいいようのない情況ですが、あのときの広島は、そんなことが異様でもなんでもなかったのです。
あたりまえのことだったのです。
ただ、あとで気付いたのですが、あのとき白い衣類を付けていた人は、原子爆弾の光線を吸収していないのです。
これはおそらく、光線を反射したものと思われるのです。
私は、そんな人達が歩いていることに特別関心を持つということはありませんでした。
それはあのときの広島の状況が、そんなことくらい異常と思わせる状況になかったからです。
ただ私は歩き回った。
いろいろなことを見ながら歩いていた。
けれどあのとき、異常と感じなかったことのすべてが、少し時間が経ってみると、ぜんぶ異様なことばかりだったのです。
異常が正常だった。
あのとき広島の街を歩いていた人達にとっては、あの状況があたりまえだったのです。
街を歩いているうちに、私は喉の乾きをすごく覚えました。
水が飲みたいのです。
あたりを見回しましたが、どこにも水はありません。
でも喉の乾きは、さらに深刻になってきます。
どこかに水はないかと思って、歩き続けました。
そして水があったのです。
それは防空用水ということで、各町内に何カ所か作られていたのです。
防空用水には水がある筈だと思って、そのそばまでいきました。
防空用水の水はまだ残っていました。
ふらつく頭をしっかり支えるようにして、防空用水の中をのぞくと、何とその防空用水の中に、二人ほど人が倒れています。
それは原子爆弾によって倒れたのではなく、私と同じように水を求めてここまできて、そして水を飲んだか飲まないか、ここまできて力つきてしまったのでしょう。
その倒れている二人を見たとき、私の脳裏に一種、いやな予感のようなものが走りました。
これは危ない。この水を飲むと大変なことになる、という思いが脳をよぎったのです。
私は防空用水の水を飲むことを、必死の思いであきらめました。
でも喉の乾きは、さらに激しさを増します。
どうにもならないほど、喉が渇くのです。
これは、あのとき原爆を経験したほとんどの人が、同じ思いではなかったのでしょうか。
火傷をすると喉が渇くというのは、ずっと昔、お爺さんかお婆さんが言っていたように思います。
顔と頭を原爆のため火傷した私は、昔の人が言っていた通り、たいへんな乾きをおぼえたのです。
乾きを覚える、といいますが、それは誰にも理解できないほど深刻なものです。
ぼんやりした私の意識の中で、この水を飲みたいという本能だけが、異常な昂りを見せてきました。
人間などというものは、所詮、動物の一種ですから、本能の昂りの前には、理性などというものは何の力にもならないことを、あのときほど教えられたことはありません。
道ばたに転がっている屍体が水筒を持っていないかと、いつのまにか私は人間の屍体より、水筒ばかりを求めて歩いていたのです。
丸い黒こげの水筒と見えるものを見つけたとき、私は駆けるようにその黒こげに近づきました。
そしてその黒こげの水筒を手に取りました。
するとどうでしょう。
それは水筒ではなく、黒こげになった人間の頭だったのです。
ハッとするというのは、平常のときの人間の心です。
あの異常事態の中で、私はハッとするより、なんだ人間の頭かと、黒こげの頭をその場に投げ捨てたのです。
ところがその黒こげの頭は、私の足下にコロコロと転がってきました。
私はその人間の頭を、靴で蹴ったのです。
その人間の頭は、ゴロゴロと転がって行きました。
私には、何の感傷もなかったのです。
それでもなお、私は喉の乾きを満たすべく、水を求めてとぼとぼと歩き続けたのです。
すると私の目の前に、私と同じような格好をした人達が、同じようにトボトボと歩いています。
どこに行くのか、相手の人に尋ねるという意欲もなければ考えもありません。
ただ、喉が渇いた、飲みたい、飲みたい、という一心で、その人達の後を歩いたのです。
前を歩く人達が、喉が渇いているのか、水を求めているのか、それはわかりません。
ただ、なんとなくこの人達と一緒に歩いていたら、水のあるところへ行くことができるであろうといった思いが、私の中にぼんやりと動いていました。
そしてようやく、水のいっぱいあるところにたどりついたのです。
それは確か、元治川であったように思います。
あるいは猿猴川だったかもしれません。
ひょっとしたら京橋川かもしれない。
ただ、水がある、水を飲めるということで、その川辺に歩きよったのです。
ところがどうでしょう。
その川辺には、私と同じ思いの人が、たくさん集まってきているのです。
そしてみんなが我先にと、川淵に群がっています。
それはちょうど、砂糖にたかる蟻のようなものでした。
それが川淵に両膝をついて、水を飲んでいると、後ろにいる人が前の人を押すのです。
押された人の中には、川の中に落ちる人もいるんです。
溺れそうになって助けを求めるのです。
けれど誰も応ずるものがいません。
とうとう溺れながら、川の中をゆっくりゆっくり流されて行く人達は、三人や五人ではなかった。
数えることもできないほどたくさんのひとがこの川にきたばかりに、川の中に押し落とされ、助けを求めながら死んで行ったのです。
しかしそうした姿を見ながら、私には何の感傷も起きなかったです。
ただ私は、目の前に溺れながら死んで行く人の姿を見ても、ああ、死んで行くなあ、といったくらいのことしか考えられなかったのです。
あとで考えれば、恐ろしいこと、悪いことです。
けれどそのときの私の感覚の中には、そんな感情はただのひとかけらもなかったのです。
人間というのは、まったくどうにもならないものですね。」
そう言ってこのケロイドの人は言葉を閉じました。
「あんた、そんな中生きていたということは、ただごとではありませんで。よくよくのご因縁だすなあ」とそばにいるお婆さんが語りかけました。
「どうして私が生きていたのか、またどうして今日まで『いのち』を頂戴したのか、それは私にはわかりません。ただ、あれから一年、おもえば27万人の人が死んだのに、私だけがこうして生きている。何か自然を超えたおおきなものがあるように思えてなりません。
最近になって原爆の被害について、いろいろ話が混線してまいりました。
私もあらためて原爆というものを考えずにはいられないというようになってまいりました。
特に、原爆で亡くなった人達の数については、アメリカが日本を占領して発表したときには、広島で7万人というように申しました。
これはやはりアメリカにも人間の心というものが残っていたからなのか、それともアメリカ人の宗教的なものであるのか、それはわかりません。
ただ、自らの行った悪行を糊塗するためであるのかもわかりません。
けれど、突然7万人という数字が出てまいったことについては、不審を感じました。
原爆が投下されたのちに、日本軍が27万人といった数字と、あまりにかけはなれていたので、これはアメリカの戦略かなあと思いました。
いや、いまの私にとっては、どちらでも良いのです。
ただ、7万人にしろ、27万人にしろ、その数字の中には、あの元治川で水を飲みにきた人が川に落ちて死に、そのまま流されて行った数千人か数万人かわからないけれど、この人達の人数は、7万人にも27万人にも入ってはいまい、ということです。
最近私は、体全体がとても熱っぽくなってきました。
じっとしていても、起きていることができなくなりました。
もう、あまり長い命ではないように思います。
父が、母が、ご本山と申しておりました本願寺さまに、一度はお参りしたいと思っていましたが、今日、こうしてお参りできたのは、とてもありがたいことです。
もう思い残すことはありません。
父母がお参りしているお浄土へ参る日も、あまり遠くはないように思います。」
と長い長い話を終わったこのケロイドの人は、ホッとしたように、ガックリとうつむいてしまわれたそうです。
そしてさっきから、ケロイドの人の話を熱心に聞いていた人達も、全員がホッと大きなため息をついたようです。
さっきからこのケロイドの人の話を聞きながら、うなづいたり、相づちを打っていたお婆さんの顔には、涙がいっぱい流れていました。
「えらいこっちゃなあ、えらいこっちゃなあ。どえらいこっちゃあ。あんた苦労しやはったんやなあ。しかし、生きていやはって、ほんま、よかったやん、なあ」と涙ながらにケロイドの人に話しかけました。
「そうです。ほんとうに生きていてよかったと思います。ありがたいと思うんです」
「そや。そや。そやさかいに、こうしてご本山にお参りすることができたんや」
とお婆さんが申しますと、ケロイドの男の人もうなづきます。
そして、そこに集まっていた人達も、いっしょにうなづいた。
そこには何とも言えないような、あたたかな気持ちがあふれていたそうです。
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※ しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」より
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