
昔、Chinaや満州に駐屯していた関東軍というのは、東京や埼玉、千葉の関東地方とはなんの関係もない名称です。
日本がChinaから租借した遼東半島のあたりが、その昔、Chinaで関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊として関東軍の名前がついた。
その関東軍の指揮下で、満州の北端、牡丹江省に、「石頭予備士官学校」という士官学校がありました。
生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の学校です。
昭和20(1945)年8月9日未明のことです。
突然、一方的に日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が、満洲地方になだれ込んだ。
その日、石頭予備士官学校では、早朝からけたたましく非常呼集のラッパが鳴り響きました。
校庭に全員整列します。
校長は、全校生徒に「本日未明、ソ連軍来襲、目下交戦中」と非常事態を伝達します。
そしてその場で、3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(とんきん)城に布陣することになりました。
東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍です。
メレンコフ元帥が直接率いたこのソ連部隊は、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊を保有する、ソ連の最強軍団です。
これを、歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たちが、わずか3600名で迎え撃つことになった。
士官候補生たちが士官学校を出て、東京(とんきん)城方面に向けて駆け足で行軍しているときのことです。
満州北部から避難する、在留邦人を満載したトラックとすれ違います。
避難する老人や女子供たちにとって、軍隊だけが唯一の頼みの綱です。
トラックの荷台から、彼女たちは「お願いしま~す」「頑張ってくださ~い」と、悲痛な声で叫びます。
そして祈るようなまなざしを向ける。
士官候補生たちは、すがりつかんばかりの必死の叫びに、胸をしめつけられるような、全身に激しい闘志と責務に奮い立ちます。
俺たちが頑張らねば・・・・。
士官候補生たちは、夜を徹して駆け足行軍をし、翌未明、「隘路口(あいろくち)」に到着します。
そこで敵戦車を迎え撃つべく、一文字山峡に布陣する。
そして正午ごろ、山麓の川辺で大休止をします。
ハンゴウを出して、飯を炊きだした。
ずっと駆け通しで、汗みどろです。
素裸になって、川に飛び込んで泳ぐ者もいた。
そこに突如、ソ連の爆撃機が飛来します。
爆弾が落下する。
大地を揺るがす轟音とともに砂塵が吹きあがる。
いましも湯気のあげるハンゴウに敵弾が命中する。
川面にも機銃掃射のしぶきがあがる。
静かだった山峡はたちまち戦場となります。
士官候補生たちは、軍服をまとう暇もなく、慌てて身を伏せます。
川で泳いでいた者は、素裸のまま重機関銃に飛びつき、対空射撃の命令とともに、機関銃を発射する。
といっても弾はわずかしかないのです。
敵を十分引きつけて、一発、一発で敵機を撃つ。
それでも思いもよらぬ対空射撃にに驚いた敵機は、そのまま逃げて行きます。
ただちに予備士官候補生たちも移動を開始する。
この戦闘で、青木中尉他、多数の死傷者が出ます。
すでに敵はすぐ近くまで来ている。
この頃の関東軍は、軍事物資を南方戦線に送っています。
ですから、重火器の数もなく、弾薬も不足していた。
歩兵全員に支給されるべき歩兵銃も、数名にひとつくらいしかない。
要するに、完全武装で戦車まで繰り出しているソ連軍に対し、味方の軍団には、武器らしい武器がないのです。
これで敵の重火器軍団と戦わなければならない。
武器があろうがなかろうが、戦うべきときには戦わなければならないのが、帝国軍人です。
で、彼らがどうしたか。
予備士官候補生たちは、全員、あらかじめ準備してあったランドセルを持ったのです。
当時、満州にはもはや武器らしい武器はほとんど残っていなかったけれど、民生用の土木工事のためのダイナマイトは、まだ豊富にあったのです。
彼らは、その民生用のダイナマイトを、ランドセルにびっしり詰め、それに30cmくらいの導火線を結んだ。
そしてその先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけていたのです。
敵戦車が接近したら、マッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込む。
それしか戦う術がなかった。
ランドセルは、点火すると3~4秒で爆発します。
彼らはこれを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んでいた。
敵は明朝になれば必ず攻めてきます。
来ればどうなるかは、もう誰もがわかっていることだったのです。
あと数十時間の命です。
「お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください」
8月13日、代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、ついに磨刀石にその姿を現します。
地面を揺るがせながら、道路を一列になってゆっくりと士官候補生たちの陣地内に侵入してくる。
この道路の両側には、草や小枝で擬装した蛸壺の中に「急造爆雷」を抱いた候補生が潜んでいます。
戦車が近づく。
すると次々に、「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行く。
戦車には自動小銃を構えた敵兵が随伴しています。
蛸壺を見つけると、中に潜む肉攻手を狙い撃ちする。
ですから飛び込む前にやられる者もいる。
同時に爆薬を炸裂させ、敵もろとも吹き飛ぶ者もいる。
味方の重機関銃も猛然と射撃を開始する。
小型迫撃砲も一斉に発射する。
この重機関銃陣地をつぶそうと、敵の戦車砲、機関銃が集中砲火を浴びせる。
後方の高台に布陣をしている友軍砲兵が援護射撃を開始する。
そして榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。
敵は炎上する戦車を道路下に突き落として、次々と進撃してくる。
蛸壺の中では、爆薬を抱えた数百名の候補生が息を殺して潜んでいる。
やがて、肉攻壕の土が、ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。
耳を聾するキャタピラの音、重油の焼け焦げる匂いが胸をつきます。
敵の随伴歩兵がトラックから降りて、自動小銃を構えて、戦車の周りに見え隠れして続々と向かってくる。
ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙う。
肉攻手は、即座に自爆する。
重機関銃隊が、銃の偽装の小枝をそっと払う。
たちまり味方の重機関銃がうなった。榴弾筒部隊も発射した。
二十数名のソ連兵がぶっ倒れる。
ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。
肉攻手が爆弾を抱えて踊り出る。
ひとりの肉攻候補生が、蛸壺を飛び出す。
爆雷を道路に置いて伏せる。
ソ連戦車は急ブレーキをかけて爆雷の3M手前で停まる。
候補生は、ほふく前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとする。
戦車の直前で、爆雷は轟音を発し、士官候補生の半身が、高さ20Mまでも白煙とともに砕きあがる。
そして鮮血を撒き散らしながらぐるぐると回転して、またもとの位置に落下する。
東満洲の軍都、牡丹江の防衛最前線として磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、ソ連戦車体当たり戦法は、こうして開始されたのです。
またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出す。
一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・
突然、戦車の砲頭の下から吐き出す紅蓮の火炎に巻き込まれ、すさまじい轟音とともに自爆します。
肉攻陣地があることを察知したのか、敵戦車はしばらく全身を躊躇(ちゅうちょ)したが、こんどは火炎放射機で周囲の肉攻壕を焼き払いながら、その上に乗っかってグルグルと回転しはじめる。
敵の歩兵も散開して肉攻壕に、自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。
味方の重機関銃が銃身も裂けんばかりに撃ちます。
敵戦車の砲身や機銃が、一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。
第一分隊の銃手が即死する。
重戦車の巨砲が向きを変え、味方の陣地に向かって水平射撃の位置に砲身を構えます。
五体を揺るがすような炸裂が山野をゆるがす。
体が壕に叩きつけられ、舞い上がった土砂で半分ほど埋まる。
陣地における指揮連絡はまったく寸断され、日が暮れて、生き残った者同士が、負傷者をかばいながら引き揚げる。
けれど集合場所さえ定まらない乱戦です。
当時のことを、川上哲次候補生は、手記で以下のように報告しています。
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道路上に、3~40両の敵戦車が轟音をあげてあらわれた。
まるで動く岩のようであった。
またひとりの肉攻手が、爆薬をかかえておどりでた。戦車はとまらない。
肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。
次の瞬間、肉攻手は、戦車のキャタピラに腕を挟まれ、逆さ宙づりになった。
おもわず息をのむ。
そのとき爆薬が炸裂した。
ピカッ、グワーン!
閃光が走り、ものすごい煙に包まれ、敵戦車は立ち往生した。
恐ろしくなったのであろう。ソ連兵は戦車から飛び出し、逃げ出した。
勇敢な肉攻手が2~3名、壕から飛び出し、敵の戦車に躍りあがり、掩蓋(えんがい)から中にはいる。
戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。
ズドーン!
すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、ぶっ放したのである。
「やった!」と壕の中では歓声があがった。
続いて戦車めがけて一発! そしてまた一発!
分捕り戦車は猛然と火を吐いた。
痛快極まるとはこのことか。
たちまち5~6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。
後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。
そのときの勇士は、鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。
鈴木候補生は、敵戦車の構造をよく知らず発砲の折、砲座で顔面を強打し、大腿部も負傷していた。
彼は、戦車から外に出て、中隊長や戦友に向かい、
「自分は負傷してこれ以上戦えない。速射砲の分隊長として、砲と運命を共にする責任がありながら、砲は射撃不能となった。自分はここで砲とともに自爆する。天皇陛下万歳!」
そう叫ぶと、10キロの爆弾を抱きしめ、壮絶な爆死を遂げた。
猪俣大隊長は、戦車砲撃の直撃を受け、一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。
代わって大隊の指揮は、梅津眞吾中尉がとられ、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。
梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。
8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。
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予備士官候補生たちが戦った相手は、自分たちの140倍近い人数の完全武装した敵です。
しかも相手には豊富な武器弾薬、火炎放射器に、戦車まである。
こちらにあるのは、ランドセルに仕込んだダイナマイトと、少数の迫撃砲、弾の少ない重機関銃だけです。
勝ち目は最初からありません。
けれど彼らは、自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも敵を釘づけにしさえすれば、民間人の婦女子たちが逃げることができる。そう考えました。
そうすることで、牡丹江に向かって、続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸びれる。
彼女たちが日本に帰還することができる。
そう思いました。
だから死を恐れず、戦ったのです。
ひとつ、申し上げておかなければならないことがあります。
予備士官候補生たちは、ただ上から命令されたから戦い、散華したわけではない、ということです。
彼らは、命令以上に崇高な使命のために、戦い、散って行かれた。
命令はそのきっかけにすぎなかった、ということです。
彼らの気高い魂を、彼らの勇気を、私たち日本人が語り継がないで、いったいどこの国の誰が、語り継ぐのでしょうか。
(参考資料)高崎弥生著「実録 遥かなる回想」
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