
幕末の志士たちといえば、尊王攘夷と新国家建設の息吹に燃え、命がけで全国を走り回って理想のために全力を果たした若く美しき武士たちとして描かれることが多いです。
けれど、理想に燃えようが、仲間を集めようが、活動するには、資金がいる。
生臭い話と思われるかもしれませんが、幕末の勤王の志士たちといえば、その多くは脱藩浪人です。
生活の基盤となる藩士としての扶持米(給料)を捨てているわけですから、いまで言ったら失業者。定収はありません。
何もしなくたって、人間生きているだけで生活費がかかる。
しかも志士たちは、政治活動に身を投じて東奔西走しているわけですから、ただ食って寝るだけでなく、莫大な旅費もかかる。
遠くまで出かけていって、そこで他の志士たちを語らえば、宴席もあるから、またまたそこで金がかかります。
幕末の志士たちと言っても、見方を変えたら、刀を差した職のない失業侍にすぎません。
その失業侍たちは、いったい生活費やその旅費交通費、政治活動費をいったいどうして工面していたのでしょうか。
実は、スポンサーがいたのです。
坂本龍馬の場合、まず実家が大金持ちであったことに加え、長崎の油問屋の女将の大浦慶(おおうらけい)がスポンサーとなっていた、というのはあ有名な話です。
では、薩摩や長州の場合はどうなのでしょうか。
実は、長州藩で、志士たちの一大スポンサーとなっていたのが、長州藩下関で小倉屋という回船問屋を営む白石正一郎(しらいししょういちろう)という人物でした。
白石正一郎は、文化9(1812)年の生まれです。
白石家は小倉屋という、下関で代々続く荷受問屋で、正一郎はその八代目の惣領(長男)です。
家業は、米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱う他、質屋も営み、酒も造っていた。
その店主の正一郎は、43歳のとき、国学者の鈴木重開(すずきしげたね)の門下生となり、以後、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。
そして45歳(安政5(1855)年)のときには、西郷隆盛が正一郎を訪ねてきて、二人は無二の親友となる。
以後、正一郎が経済的に面倒をみたのが、長州藩の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎、薩摩藩の大久保利通、小松帯刀、筑前の平野国臣、土佐藩の坂本龍馬、久留米藩の真木和泉守、さらには公家の中山忠光、三条実美など、なんと幕末の尊王攘夷の志士たち約400名が、白石正一郎の門をくぐり、そこを宿泊所とし、無料で食事の世話になり、体の具合が悪くなれば、医師の面倒をみてもらい、帰りには路銀をもらって旅費に役立てています。
六卿のひとりである錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)は、下関に到着後に病に倒れ、この白石邸で、わずか30歳の生涯を閉じましたが、そのときの医療費の一切、葬式費用の一切も、正一郎が負担しています。
このとき、錦小路頼徳が辞世の句として詠んだのが、有名な次の歌です。
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暮れなくも
三十路の夢は さめにけり
赤間の関の 夏の夜の夢
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400人の食客が、入れ替わり立ち替わり、ある者は続けて何ヶ月も世話になり続けるという状況が続いたのです。
もっともこう書くと、高杉晋作や桂小五郎は長州藩士だったではないか。藩から活動費が出ていたのではないか、と思われる方もおいでになるかもしれません。
たしかに、そういう時期もあったのです。
そしてそれは、長州藩が、尊王攘夷に傾いたときです。
当時の長州藩は、尊王攘夷か、佐幕かで、反論が二分しています。
あるときは佐幕派が、藩の政権を担い、あるときは攘夷派が政権を担っていた。
長州藩の志士たちは、藩の政権を攘夷派が握っているときは藩費で活動できたけれど、佐幕派が政権を担ったときは、職を追われ、給料ももらえなくなったのです。
そういう窮地のとき、彼ら志士たちを経済的に支えたのが、白石正一郎だった、わけです。
こうして白石正一郎は、幕末の志士たちのスポンサーとして彼ら志士たちの生活や活動を支えたのだけれど、これだけでも巨額の出費となったところに、さらに追い打ちをかけたのが、高杉晋作の「奇兵隊」の設立です。
奇兵隊の設立は、文久3(1863)年です。
このとき、正一郎は51歳。
下関の壇ノ浦の砲台の立て直しの藩命をうけた高杉晋作は、その二日後の同年6月8日に白石邸を訪れ、ここを本陣として奇兵隊を結成したのです。
正一郎は、24歳の晋作の情熱を理解し、彼自らがこの奇兵隊の隊員となるとともに、奇兵隊として集った60人の民間兵たち全員の兵としての装備いっさいの代金を支払い、さらに彼ら全員の衣食住いっさいの面倒をみた。
酒や宴席までも用意したと言います。
その後、奇兵隊は転戦のため本陣を移動させるのだけれど、移動後も奇兵隊員たちは、しばしば白石邸を訪れて、衣食や酒席の世話になっています。
とにかく全員が若くて体力の有り余った連中です。
猛烈に食い、かつ飲む。
しかも奇兵隊員の装備については、藩は「百姓町人の兵なぞに何ができるか」と、まるでお金を出してくれない。
藩がお金をだしてくれなかったにもかかわらず、奇兵隊が完全西洋式軍装を整えることができたのは、要するに豪商の白石正一郎が、すべての費用を賄ってくれたから、というのが真相です。
もっとも、店主(社長)が、自社の店(会社)を省みずに、国を想う一念でその経済力の全てを活動に傾け、自らも進んで奇兵隊などに参加するとどうなるか。
白石正一郎の小倉屋も、そのわずか2年後の慶応元(1865)年には、完全に資金繰りが厳しくなり、家業は破産寸前に追い込まれる。
それでも正一郎は、家業の取引先にだけは迷惑をかけられないからと、商売をなんとか継続し、奇兵隊も戊辰戦争を通じて各地を転戦し、官軍を勝利に導く大活躍を遂げた。
この戊辰戦争当時には、奇兵隊の隊員の規模は、すでに5000人を擁する大部隊となっています。
家計が苦しい中、それでもなんとかやりくりして奇兵隊のために資金援助する正一郎。
ところが、明治2(1869)年に戊辰戦争が終わってしまうと、そんな奇兵隊の大部隊は、平和時には無用の長物です。
長州藩は、奇兵隊の編成替えを行い、5000人の部隊を2000人の部隊へと人員の大削減を実施します。
もともとは、奇兵隊は農民や町人、商人などからなる非武士軍団です。
それが途中から徴収藩の正規軍団となり、武士団との混成軍になる。
それがいざ解体となると、家柄の良い武士団だけが残され、農民や町民兵は、いきなりリストラの憂き目にあったのです。
首を切られた元奇兵隊員たちは、これを不服として山口県庁を取り囲んだ。
反乱軍となったのです。
知らせを受けた木戸孝允(桂小五郎)は、明治政府の鎮圧軍を率いてこれを撃退した。
そして反乱の首謀者133名を処刑し、遺体の埋葬も禁じてしまう。
さらに逃亡した元奇兵隊員たちは、全国指名手配となり、以後10年のうちにことごとく捕らえられ、投獄され、殺害されたと言われています。
奇兵隊結成時の資金をまるごと供出した白石正一郎は、奇兵隊が5000人の大所帯となっても、その面倒を見続け、さらに元奇兵隊員たちが逃亡生活となると、その生活の面倒まで、裏で見続けた。
ところが、こうした家業を傾けての彼の活動は、結果として商売を傾かせ、結局、彼は明治8(1875)年には、自己破産してしまいます。
破産した正一郎は、過去、正一郎に世話になり、いまは明治の元勲となっている一部の人々から、明治新政府の高官に取り立てようという話も断り、故郷の赤間にある、平家一門の霊を弔う赤間神宮(安徳天皇なども祀られている)の宮司として、余生を送ります。
そして破産から5年後の明治13(1880)年、69歳で人生の幕を閉じた。
ちなみに世界の歴史に登場する革命には、必ず戊辰戦争に置ける白石正一郎のようなスポンサーが背景にあります。
ロシア革命によってレーニン率いるソ連共産党が、革命に成功したのは、当時ロシアの南下を恐れた日本が、明石元二郎
に100万円(いまでいったら約400億円)の工作資金を渡して、レーニン一派の革命資金の援助をしたのが原因です。
初期の頃のレーニンら共産主義者は、ただの酔っぱらいの政治カブレの過激派オヤジ集団にすぎなかった。
その彼らが、400億円という巨額の革命資金を手に入れたことで、彼らは軍備を整え、人を集め、広告宣伝し、結果としてロシア革命を成功させています。
ヒットラーのナチス党が、第一次世界大戦の戦費賠償のため、不況に喘ぐドイツ社会の中にあって、ただウルサイだけの弱小過激派にすぎなかったのに、後にドイツ一の巨大政党となり、ヨーロッパの三分の二を統合する巨大帝国となっていったのも、ヒットラーの陰に、ひとつはアメリカの工作資金援助、もう一つはドイツ銀行総裁だったシャハトの巨額の資金援助があったからだといわれています。
そして現在の日本では、左翼売国政権に特アからの巨額な政治工作資金が流れ込み、財界も経済に眼がくらんで媚中、媚韓に傾倒している。
一方、日本を愛し、日本を憂う保守系団体はというと、どこも資金なんてものはほとんどなく、みんな手弁当で、ただ個人の信じる正義感だけで活動しているというのが実情です。
巨額の政治活動資金を持って行動している左翼や売国主義者、なんの経済的裏付けもなく手弁当で活動している保守系の活動家。このままでは結果はかなり苦しいものとなる。
日心会は、日本の心を語り伝えるという活動を通じて、日本人の魂の覚醒を促そうという保守の中ではかなりゆるゆるの活動団体だけれど、それでも現実問題として手元資金は飛ぶように出て行きます。
もしかするとボクも白石正一郎になるかもしれない。
けれど、思うのです。
白石正一郎は、なるほど経済的には破綻者となり、貧しく生涯を閉じることになったけれど、彼にとっては、新しい日本を築くことそのものが、彼の中のすべてに優先したのではないか。
もしそうであるとすれば、彼の生涯は、何にも代え難い、幸福な人生だったのではないか。
そんな気がします。
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