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阿片戦争、広東湾の戦い
阿片戦争

最近、タバコが日本政府によって規制されるようになりました。
公共施設などでは全館禁煙となるのみならず、喫煙場所は狭い喫煙所なる狭い空間に制限されています。
このことがいいとか悪いとかの議論は、いまここでするつもりはありません。
タバコを吸わない人にとっては、タバコの煙は嫌なものなのでしょうし、タバコ飲みにとっては、場所が制限されようが、いかにも汚らしくて狭い喫煙所だろうが、吸いたいときは吸いたい。
ボクもいまだにタバコを吸います。
不思議なもので、保守の方の喫煙率がものすごく高い。
保守系の会合やセミナーに行くと、休憩時間など喫煙所はなぜか黒山の人だかりとなる(笑)
さて、この喫煙所を見て、「似ているな」と思うことがあります。
何と似ているか、というと、「阿片窟(あへんくつ)」です。


阿片窟というのは、19世紀初頭、Chinaにあったとされる阿片の吸引所で、映画や漫画では、よくその阿片窟で、阿片を詰めたキセルで煙をくすらせ、ガリガリに痩せ細った人達が、眼をトロンとさせ、男女とも半裸の姿でときにえっちに励む姿などが描かれています。
けれど実はそんなものは「なかった」と言ったら、皆様は「ええっ?!」と驚かれるかもしれません。
が、実は、そうなのです。
阿片(アヘン)といえば、私たちは麻薬の一種と認識しています。
実際その通りで、阿片は、ケシ(芥子)の実から生産されます。
芥子という植物は、芥子の花を咲かせますが、この花が散ると、花があった根元に丸いふくらみが残ります。
これが芥子坊主(けしぼうず)と呼ばれるもので、この芥子坊主にナイフで切り込みを入れると、中から乳液状の液体が出てきます。
ボクは見たことはありませんが、これを乾燥させて、黒い粘土状にしたものが阿片なのだそうです。
そして阿片をさらに精製してそのアルカロイドを抽出したものが、「モルヒネ」。
さらにこの純度を高めたものがヘロインです。
ヘロインまでくると、依存性が格段に高くなり、幻覚症状などがひどくなる。
ちなみにアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出方法が確立されたのは、阿片が土台となっています。
日本で言ったら江戸時代中期の文化元(1804)年、ドイツの薬剤師ゼルチュネルが、阿片からモルヒネを分離抽出した。
いまではカフェインをはじめ、様々な医薬品に、このアルカロイド抽出の技法が役立てられています。
そもそも阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされていたし、5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。
4000年前には、すでにヨーロッパや、中東、中央アフリカで広く芥子は栽培されていたし、3500年前のエジプトでは、阿片が製造されていた事がパピルスの文書に記されています。
阿片は鎮痛剤や、睡眠導入剤として、広く普及していたのです。
Chinaにはシルクロードを経由して、やはり医薬品として持ち込まれ、三国志に登場する医師、華佗の用いた麻酔薬は、阿片だったといわれています。
日本では、阿片は室町時代にChinaからもたらされました。
阿片は日本では阿芙蓉(あふよう)と呼ばれ、鎮痛薬として、ほんの少量が流通するにとどまっています。
よく時代劇などでは、長崎奉行がよく悪徳商人と結託し、阿片を密輸して遊女などに吸わせて中毒にさせてものにしたり、密貿易で大儲けをしたりなどという筋書きが描かれますが、これは大嘘で、実際には江戸中期までは、あくまで阿片は沈痛、解熱、麻酔、睡眠薬として、医師の専管物でしかなかったし、阿片の麻薬性自体が、まったく世に知られていなかったというのが実際のところです。
ところが幕末になってすこし様相が変ってきます。
浪士たちが斬り合いをして、大怪我をする。
その鎮痛剤として、阿片が大量に国内に出回るようになったのです。
江戸中期に、すでに国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていた日本では、万一怪我をしたときの用心で、全国的に広く普及したのでしょう。
ところが、ここに問題が起きます。
それが、天保11(1840)年から、約2年間続いた、Chinaの清国と英国の間で行われた「阿片戦争」です。
「阿片戦争」と聞くと、大概の方は、英国がChineseを麻薬漬けにするために阿片を大量にChinaに持ち込み、そのためにChinaのあちこちに阿片窟なる阿片の吸引所ができ、そこにたくさんの廃人が集まり、清国内で大問題になり、戦争に至った、と理解している方が多いのではないかと思います。
まあ、実際、教科書にもそう書いてある。
ところが実際には、だいぶ様子が違います。
この時代、阿片を含めて、いま言われるところのいわゆる「麻薬」の販売、所持、吸引などは、まったく規制外だったのです。
有名なシャーロック・ホームズは有名なコカイン常習者だし、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、麻薬で酩酊状態になったときの世界観を表現したものだったとされています。
なかでも阿片は、沈痛、咳止め、睡眠導入効果のある嗜好品として、ガムやあめ玉と一緒に、普通にそこらで売られていたのです。
加えて、精製がさほどよくもなかったから、日常生活に異常をきたすような重度の中毒者もいず、ましてや阿片窟なんてものも、存在しなかった。
このことは、タバコを例にとるとわかりやすいかもしれません。
ニコチンは、精製したものは、少量でも即死に至る劇薬です。
けれどタバコを吸ったからといって、ショック死する人はいない。これと同じです。
こうして鎮痛効果もある、吸えば気持ちいいという阿片は、1830年代には、世界貿易のまさに主役となります。
とりわけインドを統治する大英帝国の東インド会社が精製するインド・ベンガル産の阿片は、とびきりの高品質で、高級品として世界中に輸出されていた。
これで東インド会社が大儲けし、世界中で商品がひっぱりだこになっているという状況になると、だいたいそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で輸出品としはじめるのが今も昔も変わらないChineseの特徴です。
実際、東インド会社産の阿片に対し、China産の阿片は価格は半分。
それで粗悪品を世界に流通させようとした。
問題は、その商業のやり方です。
英国は、今も昔も、民間会社が公正な法のもとに貿易をし、その法が守られるよう、英国軍が商人たちを保護するというスタイルの国です。
これに対し、Chinaは、儲かる商売は官営とし、官憲が賄賂をとって私服を肥やすという国です。
当時、英国は陶磁器や茶などをChinaから大量に買い付けており、一方で良質な阿片をChinaに販売していた。
繰り返しますが、この時代、阿片は禁制品とも麻薬としての危険物とも、どこの国も認識していません。
極端に見えるかもしれませんが、砂糖や塩の売買と同じように、普通の健全な流通品だった。
ところが、東インド会社の対China貿易では、良質な阿片の販売をする英国に対し、China産は粗悪品。
人々の人気は、どうしても英国産に偏ります。
結果、阿片を買うために、貿易通貨としてのChinaの銀が大量にChinaから流出した。
このことに青くなった清国は、阿片の輸入を規制し、銀の流出を阻止しようと目論見ます。
そして英国から輸入する阿片については、頭ごなしに規制をします。
もともとは、英国と清国の貿易収支は、英国側が大量の茶葉と陶器を買付けていたので、清国が大儲けしていたのです。
ところが、阿片の流通で、この貿易収支が反転した。
英国の貿易収支が黒字になり、清側が赤字になって銀が流出しはじめたのです。
この事態を重く見た清朝政府は、英国東インド会社からの阿片の輸入を規制しようとした。
ところが、そこがChinaです。
中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって大儲けした。
結局、官僚たちの賄賂の分だけ、阿片が高値になっただけで、阿片の清国内流通はまるで止まらず、当然、清国内の銀の流出も止まらない。
こうなるといきなり過激になるのも、Chinaの特徴です。
なんと天保9(1838)年、阿片を吸引した者は死刑にすると決めてしまう。
これでは英国の東インド会社は、商売になりません。
抗議はするけれど、清国側は強硬で、「今後一切阿片を清国に持ち込まないと誓約書を差し出せ」ときた。
Chineseにとっては、誓約書というのは、一時しのぎのための建前のための紙でしかない、というのが常識です。
ところが、西欧的近代化精神をもった英国にしてみれば、誓約書を差し出すことは、契約を交わすことであり、破れば法外な損害賠償を請求されるというペナルティのある、今後の商売そのものの根幹にかかわるものです。
当然、英国は拒否をする。
ところが、民間貿易というのは複雑です。
同じ英国企業でも、トマス・カウツという商船は、阿片以外の商材を扱っていたから、ハイハイと、気軽に誓約書を出してしまった。
これに怒ったのが英国の観察官のチャールズ・エリオット卿です。
他の商船まで、トマス号に便乗して誓約書を出そうとしたから、これを軍艦を出して引き止め、再度、清国に対して、阿片貿易禁止解除の要望書を出した。
丁寧に文書で要望書を書いたのです。
当然、国際関係に置いては、清国は文書でこれに答えなければならない。
ところが、清国の特命大臣の林則徐は、これに対して、口頭で貿易拒否とやった。
これは失礼千万です。
いままでさんざん法外な賄賂をとっておいて、こんどは丁寧な文書での要望に対して口頭でけんもほろろに回答する。
いったい何様のつもりだ、となる。
そもそも、当時の(今もそうですが)国際関係交易というのは、法がありません。
だから、約束を守らないなら、武力をもってお答えする、という軍事力が背景となって国際貿易の安全性が担保されていた、というのが、19世紀の国際交易です。
チャールズ卿は、事態の趨勢を英国議会に報告し、英国議会は賛成多数で清国との戦争を承認。
その結果、天保9(1838)年11月3日に、勃発したのが、阿片戦争です。
英国海軍はその日のうちに、清国海軍を壊滅させます。
そして艦隊をいきなり清国首都の北京近郊の天津に出現させ、清国政府に圧力をかけた。
当時の清国というのは、人口が3億5000万人です。
動員できる軍事力は、20万人程度。
これは国際関係においては、弱小の部類にはいります。
要するに、戦えば必ず負けるという状況にあった。
よく、当時の清国を称して、「眠れる獅子」だったなどという教科書や教師がいるけれど、全然そうではない。
獅子どころか、軍事弱国とみなされていたというのが正解です。
そういう状況のところに、北京のすぐそばに、英国艦隊が現れた。
これは日本で言ったら、江戸湾に黒船が現れたというのとまったく同様の大事件です。
清朝政府は上を下への大騒ぎになる。
そしていとも簡単に、阿片の取り締まりのための特命大臣だった林則徐を解任し、阿片交易についても態度を軟化させます。
けれど、ここまで来たら、英国もただで引き下がるわけにはいきません。
軍事展開をしたのです。
当然巨費がかかっている。
その賠償金を清国政府から取らなければならない。
そのために英国は、賠償金として香港の割譲を要求します。
ところが自尊大国の清国は、これを拒否する。阿片の輸入を認めてやったんだから、それでいいだろう、というわけです。
国際的非常識と言うほかない。
天保12(1841)年1月7日、香港割譲を拒否した清国に対し、英国は再び艦隊攻撃を開始します。
圧倒的な力の差です。
清国軍は瞬く間に粉砕された。
そして2月には黄档・永安・靖遠・鎮遠・威遠・鞏固の諸砲台を砲撃のうえ陥落させ、3月には黄埔を占領、
清国側はほとんど一方的な損害を被り、捕虜だけで数千人、戦死者は数万の規模に達します。
清国の完敗です。
エリオット卿は、ここで広東市内への進入を停止させ、外交交渉への移行を提案し、戦闘を休止させます。
一番喜んだのは英国人たちです。
一方的な勝利で、戦争も終わったのです。
ところが、この終わったと見せかけたのが、Chineseの腹黒いところです。
清国側は、5月まで広州付近に陸兵を集結させる。
そして5月21日の深夜、陸兵を小舟に乗せ、広州湾に浮かぶ英国艦船を奇襲攻撃しようとします。
タキギを満載した船を夜陰にまぎれて英国艦隊に近づけ、砲火し、火勢に乗って英国人たちを皆殺しにしようとしたのです。
考えが甘いとしか言いようがありません。
相手は清国軍船ではなく、世界最強の大英帝国海軍の鋼鉄の船なのです。
深夜とはいえ、近づこうとしたChineseたちの船は、英国軍艦の歩哨に、事前に発見されてしまう。
そして、百隻以上のChineseの兵船は、瞬く間に英国軍艦の重砲火によって、撃沈された。
それどころか、火船を壊滅させられたChina軍に対し、英国海軍の陸戦隊2万4000が、広東に上陸し、広東市街の砲台を占領。
China兵たちは、慌てて広東城内に逃げ込みます。
エリオット卿は、あまりのChina軍のだらしなさに、これ以上の進撃はもはやなぶり殺しになると判断、広東城に立てこもる奕山、祁貢という二人の将軍に対し、賠償金として600万ドルの支払いと、China兵の退去をすれば、占領した砲台はすべてChinaに返してあげようともちかけます。
二人のChinaの将軍は、これを受け入れ、China兵を退去させ、賠償金を支払らい、英国も兵を引き上げた。
ところが、です。
この二人の将軍、清国皇帝の道光帝に対しては、まるで虚偽の報告をする。
この戦いを「英兵は、溺死者、死傷者が多く、清国側の損害は軽微であり、戦いはChina側の大勝利に終わった」と報告しているのです。
とにかくデタラメです。
ともあれ、二人のChineseの将軍は、広東城内で、金目のものをかき集め(どうやってかき集めたかはご想像におまかせします。大変なことがそこで起こったことは容易に想像できますが)、賠償金を支払った。
そんなこんなで、5月30日、英国軍は、賠償金も得て、約束通り広東を退去します。
このとき、「平英団」を名乗る集団が三元里に現れ、小競り合いが起こっています。
英国側はインド兵1名が死亡しただけで、民間の自警団の「平英団」は壊滅し、算を乱して逃げ出している。
この三元里での「平英団」事件のことが、ウイキペディアに乗っていました。
おもしろいので、いかに紹介します。
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【三元里事件】

1841年5月、イギリス軍は広州城において靖逆将軍愛新覚羅奕山ら清の首脳部と停戦協定を締結していたが、一部のイギリス軍は郊外の三元里で略奪や暴行事件を起こし民衆の怒りを買っていた。
このため三元里並びに周辺郷村の民衆1万余が決起して水勇統領林福祥らの指揮の元「平英団」を名乗り、ヒュー・ゴフ少将が率いるイギリス軍を包囲して攻撃した。
このとき民衆が手にしていたのは大刀や長矛などの伝統的な武器であり、本来であれば銃砲を有するイギリス軍に敵うべくもない戦力ではあったが、
民衆は地の利を得ていて巧みに遮蔽物に隠れながら戦うことができたこと、
大雨によりイギリス軍の火砲が使用不能に陥ったことなどの条件に恵まれ、
数で優位に立つ平英団は徐々にイギリス軍を包囲、殲滅の危機に陥れた。
このため英軍は清朝の広州知府であった余保純に停戦協定違反を抗議し、併せて戦後の報復を示唆して平英団を解散させ、包囲を解くように求めた。
このため清当局によって平英団は解散させられ、戦闘は終結した。
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もっともらしく書かれていますが、大嘘です。
だいたいもし、英国軍が包囲殲滅されるという事件が起こっていなら、このあと徹底的な報復戦が行われている。
実際に起こったのは、先に述べた通り、インド人兵1名が死亡しただけでしかない。
こうやって歴史をねつ造するのは、Chinaの伝統的お家芸だということです。
こうして天保13(1842)年8月29日、清国と英国の両国は、南京条約を調印し、阿片戦争が終結します。
この条約で、清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを認めることになった。
その結果、英国の勝利に便乗した米国、フランスなどが、それぞれ望厦条約、黄埔条約を締結し、清国は国力をさらに低下させることになった。
これが、阿片戦争のおおまかな顛末です。
いまどきの日本人は、喫煙者が、狭い喫煙場所に閉じ込められてタバコを吸っている姿を見て、阿片戦争時代の阿片窟を想像するけれど、おそらく当時のChineseや英国人たちがいまの日本の喫煙所を見たら、これを異様な「煙草窟」とみるのではないかなあ、などと思ったりします。
異常なのは、戦後の日本です。
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