
「日本文化による国際貢献を考える研究会」という組織があります。
参議院議員中山恭子先生が主催する会なのですが、この第11回の研究会で、作家、随筆家の半藤一利氏が「夏目漱石の『坊ちゃん』を読む」という演題で講演をされました。
このときのお話が、中山恭子先生の「国政報告、第13号」に掲載されましたので、今日はそのお話をご紹介してみようと思います。
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1 博士号の辞退
明治44年に、文部省は漱石に文学博士号を出しました。
漱石は「文学博士なんていらない」と、文部省と激しくやりあいました。
「文学博士夏目漱石殿」との手紙が届くと、漱石は「俺じゃない」といって返すんです。
断固として「自分は文学博士ではない」とがんばった訳です。
後に、「自分はあくまで、ただの夏目某という人間でありたい」と説明しているようです。
実に、漱石らしくて気に入っている話で、この博士号の辞退という問題は、漱石らしいところが一番出ていると思います。
2 「坊ちゃん」の文明批評
「坊ちゃん」は、漱石が愛媛県の松山中学校の英語の先生をしたときのことが書かれているというのが定評ですが、実はそうではないということをお話します。
「坊ちゃん」は、明治39年3月17日から一週間で書き上げたと思われています。
3月13日に漱石は、11章からなる「我が輩は猫である」の10章を書き終えています。
そのまま続けて11章を書かないで、突然思いついたように、17日から「坊ちゃん」を書き出したのです。
このとき漱石は、東京帝国大学の英文科の講師をしており、その年の2月の入学試験で、試験委員を命ぜられます。
漱石はそれを断ったんです。
「問題を作っているのは教授会じゃないか。問題も作っていない連中に、後から採点しろと言ったって駄目だ」といって、突っぱねたらしいんです。
教授会は驚きまして、大騒動となる。
間に入った人がいろいろやったんですが、漱石は頑としてきかなかった。
翌年、漱石は講師をやめちゃいます。
みずからの意思で、みずからの前途を断ち切った。
凄い闘争を行った訳です。
とつおいつ考えているうちに、突然、東京大学の馬鹿馬鹿しさ、この御役人風、御大名風になっている大学の中味を書いてやろうと思ったに違いない。
赤い表紙の帝国大学という本を小脇にかかえて、琥珀のパイプをプカプカしながら、金鎖を胸につけた赤シャツは、松山にはいません。東大にいた。
こういう先生をたくさん書いて、ばれないように全部、松山中学にした。
漱石は、東大に対する文明批評として「坊ちゃん」を書いたのだろうと、私は思います。
3 宿直制度
「坊ちゃん」のなかで、文明批評のひとつとして宿直という話が出てきます。
坊ちゃんが日曜日なのに宿直を命ぜられまして、「こんな退屈なことはやってられない」と、今の道後温泉に行く。
途中、狸校長と出会って「宿直が外なんか歩いて良かったのかな」と狸が嫌みを言うんです。
この言葉つき、また東大の先生的なんですね。
漱石が、なぜ「坊ちゃん」の中に書いたかといえば、明治31年3月に長野県上田の小学校で火事が起き、校長先生は、御真影も教育勅語の謄本も灰になったと思って、翌日、責任をとって腹を切って死んだという事件が起きた。
これが当時の新聞に「校長の本文を尽くした見事な死」と英雄的に扱われました。
漱石は、宿直の非条理を考えた。
紙一枚のために、人間の命が粗末にされる。馬鹿馬鹿しいことではないか、という文明批評の目で、書いているのです。
漱石が、この御真影とか教育勅語を否定したという意味ではございません。
4 日露戦争後の日本
明治の人は、自分たちの仕事が、かならず公のためになるんだ、私のためだけではないんだ、みんな確信していたと思います。
漱石もそうだったと思います。
いい時代であった明治が、実は日露戦争が終わった後に、ガタガタとなるんです。
日露戦争後、日本は学歴偏重社会に、金権主義的に、享楽主義的になった。
この3つの傾向に乗り遅れた人達は、虚無的になり、社会主義的傾向になった。
もうひとついけなかったのが、戦争の真実を隠したんです。
ロシアには確かに海軍は勝ったんですが、陸軍は勝ったわけじゃないんです。
この「やっと勝った」という事実を隠したんです。
日露戦争後に、すべてをちゃんと明らかにしとけば、もう少し日本人は違ったんじゃないかと思います。
漱石はそれをみていた訳ですよ。
5 現代を書いている。
漱石は明治41年の「三四郎」の中で、「こんな状態じゃ日本は滅びるよ」と言っているんです。
いまの日本も、学歴偏重、金権尊重、享楽的な人たちばかり。
そう考えると、漱石の小説は現代を書いているといえるかと思います。
ただ修善寺で血を吐いてからのあとの小説、「こころ」とか「行人」とかは、漱石は人間の心の中の悪の方に目を向けましたので、文明の批評はなくなります。
従いまして、明治の時代を知るための漱石としては、「門」までの小説がよろしいわけです。
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(引用ここまで)
漱石といえば、好きな「草枕」の一説に以下の文章があります。
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山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
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「自分はあくまで、ただの夏目某でありたい」と『文学博士号」を蹴っ飛ばした漱石は、肩書きや名誉、あるいは学歴、経済力などではなく、「人である」ということを追求し続けた人であったかと思います。
そして人の一生とは、地位や名誉、あるいは金力を得ることが価値のあることなのではなくて、そのつかの間の命を、何にどう使い、人としての本来の価値を生きるかにこそ、価値があると考えたのではないかと思うのです。
地位も、名誉も、経済力も、しょせんは人と人との間によこたわる相対的なものでしかないです。
たとえばルーピーや、バカンは、優秀な大学を出、総理となり、莫大な経済力も手に入れました。
けれど、ああいう人間になりたいと思う日本人は、すくなくとも本来の日本人としての魂を持つ人ならば、まず、いないのではないか。
昭和初期に、日本の大臣級の人達が乗っていた運転手付きの車は、当時としては破格の値段がするものだったし、大金持ちか国家の最高権力者くらいしか乗ることなどできなかったクルマです。
けれど、そのクルマの性能や社内の広さは、いま、おばちゃん達が乗っている軽自動車以下でしかない。
いま、ものすごい贅沢品と思われている物でも、あと数十年したら、それってただの一般庶民なら誰もが普通に手にしているようなものになっているか、あるいは何の価値もないものになっている可能性すらあります。
たいせつなことは、「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、つかの間の命を、束の間でも住みよくすること」。
そのために、わたしたちひとりひとりが、自分でできることから、すること。し続けることが、大切なのではないかと思うのです。
半藤先生のおっしゃる通り、漱石は、数多くの著作を通じて、まさに身を以てそれを訴え続けた作家と言えるのではないか。
だからこそ漱石の文学は、現代になお、燦然と輝くものとなっているのではないかと思うのです。
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