
幕末に来日したフランスの公使といえば、レオン・ロッシュです。
このロッシュ、来日前からの腰痛持ちだったのですが、来日後、めちゃくちゃ腰が痛くなり、公務もままならない状況になってしまったのです。
フランス人の医者からはリウマチと診断され、あらゆる治療を受けたのですが、ぜんぜん良くならない。かえって痛みが増すばかりです。
日本人の付き人から温泉治療をすすめられ、熱海で湯治をして、一時的に快方に向かったのだけれど、横浜の公邸に帰ると、また痛みがぶりかえす。
ついには起居もままならない状況となり、このままではフランスに帰国するのもままならない。
弱り果てたところに、たまたま幕府の要人がやってきたので、この腰痛、なんとかならないかと相談すると、名医がいるという。
そこで紹介されたのが、今日、ご紹介する漢方医、浅田宗伯(あさだそうはく)です。
宗伯は、ロッシュの全身を詳しく診断する。
実は、この「全身を」というのが漢方医の特徴なのですが、そのことは後述するとして、宗伯はロッシュを詳しく診察します。
そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。
その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。
傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。
で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。
この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。
驚いたロッシュは、宗伯に、薬の内容を詳しく聞くと、その内容をフランス語に翻訳し、本国に報告します。
その報告は、フランスの新聞に掲載され、名医浅田宗伯の名は、フランスだけでなくヨーロッパ全域に広く知られるようになる。
さらにこの話を聞いたナポレオン(当時、フランス皇帝)は、たいへんに感動し、浅田宗伯に、時計2個、じゅうたん3巻を送っています。
幕府もおおいに面目を施し、宗伯に銀20匹を贈った。
こうしてフランスと幕府は非常に親しい関係となり、戊辰戦争では幕府はフランス式の装備と軍事教練を学び、戊辰戦争を戦うに至っています。
さてその浅田宗伯は、漢方医だったわけですが、漢方医とか漢方薬とか聞くと、たいていの方は、なにやらChinaから日本に伝来した医術というイメージをもっておられることと思います。
が、実は正反対なのです。
そもそも漢方医学というのは、日本古来の経験的医術に、古代から近世までのChinaでの考察を加えて、江戸時代に日本で体系化され、発達した日本固有の医学です。
おかげで江戸時代の日本の漢方研究の成果の多くはChinaに逆輸入されていて、現代Chinaの東洋医学は、日本から輸入された漢方医学大系が、もともとの基礎になっています。
ではなぜ名前が「漢方」なんだ?という声が聞こえてきそうですが、この「漢方」という言葉は、単に江戸時代、ヨーロッパ医学を「蘭方」と呼んだことから、それに呼応するかたちでそう呼ばれるようになっただけのことで、もともとは単に「医術」と呼ばれた。
ちなみに日本では「漢方」の字が充てられていますが、韓国では「韓方」、「韓薬」の字が充てられています。彼の国では、どこまでも、なんでも自国産まれとしたいのかもしれませんね。
日本における医術は、Chinaの文献や生薬などの輸入品を加え、徐々に体系化され、平安時代中期の982年には、「医心法」という医学書が編纂されています。
以来、日本では「医術」と呼ばれるのだけれど、徳川8代将軍吉宗のときに、蘭学が解禁されたことで、「蘭学」に対応する言葉として「漢方」の名が付けられるようになったわけです。
この時代の蘭学者としては、杉田玄白、緒方洪庵などが有名です。
明治に入ると、漢方医は、皇方、皇漢方、和方、和漢方、東洋医学など、様々に呼ばれるようになるのですが、昭和初期にはこれが一般に「漢方医学」と呼ばれるようになり、戦後は「東洋医学」の名称が主に用いられているようです。
いまどきの多くの日本人は、なんとなく西洋医学は科学的、漢方医学は非科学的とのイメージを持っているようですが、東洋であれ西洋であれ、問題は、病が治るかどうか、です。
冒頭に書いた浅田宗伯は、明治12(1879)年、のちに大正天皇となられる明宮様が生後間もなく全身痙攣をくり返して危篤状態に陥り、西洋医が匙をなげたあとに、これを見事に完治させています。
まさに名医そのものだったと言っていい。
ちなみにこの宗伯は、若い頃、漢方医学だけでなくて、頼山陽から儒学や史学を学んでいます。
さらにさらに、大塩平八郎の門をたたいて陽明学も学んだ。
で、その人が幕末にフランス公使ロッシュを治療して日仏の親交に貢献し、大正天皇のお命を救って国体を守るという貢献もしているわけです。
「ちなみに」がでたところでもうひとつ。
浅田宗伯は、のどの痛みを和らげる処方も考案しているのですが、これを教わった書生の子が堀内伊太郎という人で、この人が、浅田飴の創業者です。
いまに伝わる浅田飴は、浅田宗伯の名字から名付けられた名前なのですね。
日本という国は、いろいろな人がいろいろなところでつながっている国です。
個人の命は短いけれど、その人と人とが世代を超え、時代を越えてつながることで知識や叡智が受け継がれ発展する。
それが民族の知恵であり、叡智であり、命の連鎖だと思うのです。
過去を全否定するのではなく、過去に学び明日を築く。
それが、ほんらいの人の生き方だし、国家のあるべき姿だと思っています。
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