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川路聖謨
川路聖謨

川路聖謨(かわじとしあきら)に政道をなす者の心得を観てみたいと思います。
幕末の人です。
豊後(大分県)の日田で、下級官吏の家に生まれながら、51歳で幕府の勘定奉行にまで登りつめました。
勘定奉行というと、いまどきは経理用のソフトをついつい連想してしまいますが、江戸時代に幕府の勘定奉行といえば、寺社奉行、町奉行と並ぶ「三奉行」の一つです。
まさに行政のトップの地位と言っていい。
身分制や出所に厳しい江戸時代において、他藩の下級官吏の家に生まれながら、これだけの重職にまで出世したというのは、ものすごいことです。
そして彼は、勝海舟と西郷隆盛


による、江戸無血開城の翌日、ピストルで自殺しました。
遺体は、すでに作法通りに見事に自分で腹を斬ってあり、そこにサラシを固く巻いたうえで、こめかみに銃を当て、自らの命を絶っています。
江戸開城は、幕臣として栄達を極めた川路聖謨にとって、江戸落城そのものだったのかもしれません。
もし川路が生き残れば、明治も違ったご治世になったかもしれない。
それほどの逸材でも、常に心にあったのは、ご政道に関わる者、常に「命がけ」で事にあたる、ということであった、ということです。
川路聖謨は、享和元(1801)年、大分県の山間部にあたる日田市(ひたし)で、下級役人内藤吉兵衛の次男坊の弥吉として生まれました。
日田は、幕府直轄領で、父の内藤吉兵衛は地元の下級武士です。
俸禄も少なく、貧しい家だったのだけれど、父の吉兵衛は、その生活を切り詰めて、一生懸命に子供たちのために蓄財し、江戸に出て幕府の御家人株を買った。
晴れて徳川家の家中の一員となったわけです。
といっても徳川家では、将軍に直接お目通りができる直参旗本が上、次にお目通りができない旗本衆がいて、その下が御家人です。
いってみれば御家人は、徳川家最下級の武士ということになる。
それでも、晴れて徳川家の一員となれた内藤家は、喜びもつかの間、長男が急逝してしまいます。
悲しみに沈みながらも、内藤吉兵衛は、子供たちの未来のためにと、四男を後継ぎとし、できのいい次男の弥吉を12歳で、幕府小普請組の川路三佐衛門の養子に出します。
翌年、弥吉は元服し、川路萬福(かわじかずとみ)と名乗り、小普請組にはいります。
小普請組というのは、これは大工を使って城や街の修繕をする幕府の下級吏員です。
けれど勤勉で剣の腕が立つ川路は、年は若いけれどみるみる頭角を顕し、なんと若干18歳で、幕府の勘定奉行所の支配勘定役に抜擢されます。
この川路の出世について、「ときは江戸末期の混沌とした時代だったから」と解説している本もあるけれど、ボクは違うと思います。
なぜなら、川路が勘定奉行の支配下に組み込まれた当時は、まだ幕末騒乱の時代のもっとずっと前の頃です。
ある意味、この時代までの江戸社会は、安定していた。
ボクは、川路の出世は、やはり彼の学問と剣術の腕前にあったと思っています。
江戸時代の武家社会というのは、もちろん家柄や血統が重要視された社会だけれど、それ以上に、学問と剣術ができなければ認められない社会です。
要するに、仮にも武家政権である以上、知性だけでは駄目で、そこに武人としての「強さ」が強く求められた。
これは言い換えると、文武両道に秀でた者でなければ一人前の人物とは認められなかった、文だけ、武だけでは、半人前としか認識されなかった、ということでもあります。
逆にいえば、文武両道に秀でた者は、文と武の両道において豊富な人脈が生まれ、立身栄達の道が拓けた、ということでもあります。
学問というのは記憶力と思考力を鍛えるものです。
武道は心技体で、心を鍛えるもの。
その両方がそろってはじめて人の上に立つことができる者だ、ということです。
これは、実に理に適っていると思う。
戦後日本では、いやこれは伝統的China社会などもそうなのだけれど、勉強だけができれば、官僚として出世の道を進むことができる社会となっています。
けれど、これでは人の心がわからない。
屁理屈と権力欲だけの政治家や大企業や官僚のエリート産んだ戦後社会の背景には、武道軽視があるのではないか。
とにかく、学問が優秀で、剣の腕もたつ川路は、早くから水野忠邦に見出され、まもなく御勘定に昇格すると、すぐに直参旗本に昇格し、幕府寺社奉行吟味物調役、勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、普請奉行と栄達していきます。
水野忠邦といえば、第12代将軍の徳川家慶の時代に、天保の改革を行った老中として有名です。
天保の改革とは、「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」と、放漫財政に陥っていた幕府政治に、奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また積極的な農業振興や物価低下策を図った改革です。
水野忠邦が、これだけの改革を進めるには、単に家柄や血統だけでは駄目で、真に役立つ人材が必要だった。
そんななかで、逸材として目をつけられたのが、川路だったわけです。
ところが、こうして川路をひきたててくれた水野忠邦が、天保14(1843)年の政変で失脚してしまいます。
親ガメこけたら皆こけたで、水野に連なる川路は、奈良奉行に左遷されてしまいます。
要するに「都落ち」したわけです。
現代で言ったら、東京本社で辣腕をふるっていた部長が、社内抗争の揚句、地方支店に飛ばされた、みたいなものです。
けれど面白いものです。
逸材というのは、どこのポジションにあっても、それなりの実績を出す。
奈良に赴任した川路は、ふとしたきっかけで、神武天皇の御陵の場所がわからなくなっていることを知ります。
神武天皇といえば、日本建国の父であり、初代の天皇陛下です。
その神武天皇の御墓である御陵が行方不明では、いくら応仁の乱以降戦国時代にかけて世が乱れ、長く群雄割拠の混沌の時代が続いたとはいえ、これではまことにもって申し訳がない。
そこで川路は、奉行所を動員して永く場所がわからなくなっていた神武天皇陵の捜索を行い、また自らも古書を調べ、橿原神宮の北側の田んぼのあぜ道に盛り上げられた土饅頭程度の小さな小山が、まさに神武天皇の御陵であることをつきとめます。
そして「神武御陵考」を著し、これを朝廷に献上した。
孝明天皇は、これをたいへんに喜ばれ、川路の考察をもとに神武天皇陵の所在地を確定させ、この御陵は、て大正時代に立派な円墳に造りかえられ、現代に至っています。
この実績から、川路は大坂東町奉行に昇格します。
そしてご皇室の覚えめでたいとして、嘉永5(1852)年には、公事方勘定奉行として幕府の要職に復帰する。
この嘉永年間というのは、外国船が度々日本にやってくるようになった時代で、とどのつまりが黒船来航(嘉永6年)です。
この年、語学にも堪能だった川路は、海岸防禦御用掛に任じられ、ペリーとの交渉役の随行員となったあと、今度は、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの直接交渉の役に任じられます。
幕末というと、ペリーの黒船来航ばかりが目立ちますが、幕府が「日米和親条約」を締結した嘉永7(1854)年には、ロシアのプチャーチンが、新鋭戦艦ディアナ号で、函館に押し掛けてきています。
函館に姿を現したプチャーチンの戦艦は、翌月には大坂湾に忽然と姿を現し、京阪神地方を騒然とさせている。
そして10月には下田に入港して、日露和親条約の締結を要求しています。
要するにプチャーチンは、函館、関西と現れてその戦艦の機動力と装備を見せつけ、日本にゆさぶりをかけたあと、東京湾を間近に控えた伊豆の下田に現われたのです。
もし、ロシア戦艦が東京湾内に侵入したとなると、これはとんでもないことになる。
どういうことかというと、ロシア戦艦に対峙するために、東京湾は緊急海上封鎖に踏み切らざるを得ない。
そうなると、江戸百万市民の食が、海上運輸に頼っている以上、江戸に食物が届かなくなり、江戸市民は即時飢餓の危機に陥る。
プチャーチンの、東京湾を目前とした下田への停泊は、いつでも東京湾に攻め入るぞ、という無言の圧力を加えるものでもあったわけです。
これはたいへんな事態です。
そのたいへんな事態の、交渉役に任じられたのが、川路聖謨だったのです。
川路は、10月18日に登城して将軍から全権を拝命すると、その足でただちに下田に向かいます。
そして他の者の到着を三島で待ち、合流ができると、なんと三島から下田までの26里(約104km)を1日で駆け抜けて、21日には、下田に到着しています。
このとき川路聖謨54歳です。
そして現地で警備の手配その他の準備をを実施したうえで、11月3日、下田の玉泉寺で第1回の会談を行った。
席上、プチャーチンは、日露の国境の画定と通商開始を求めます。
この第1回の会談は、開港場の問題で行き詰まり、後日を期して散会する。
ところがその翌日、安政の大地震が起きます。
この地震は、震源地が関東南部のM6.9の大地震です。
江戸では死者約4300人で、家屋は約1万戸が倒壊した。
さらに沿岸部には津波が押し寄せています。
この地震により、小石川の水戸藩藩邸が倒壊し、水戸藩の指導者である戸田忠太夫や藤田東湖が死亡する。
指導者を失った水戸藩は、尊皇派と開国派が激しく抗争となり、これが原因で安政7年には水戸浪士たちによる桜田門外の変が起こっています。
また同時に幕府では、震災復興支援のために多額の出費を余儀なくされ、財政悪化が深刻な事態となる。
これに日米和親条約の細則による金(Gold)の流出が、深刻な経済へのダメージを与え、これが庶民生活を激しく窒息させ、その奔流が、幕末明治維新へと繋がっています。
ともかく、下田でプチャーチンとの交渉にあたった川路は、地震・津波騒ぎが落ち着いた13日から、正式会談を再開する。
このときの川路の交渉は実に見事なものだったといいます。
ロシア側の要求を一定レベルでことごとく撥ねつけたのみならず、その交渉役のプチャーチンをして、「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と言わしめるほど、人物に傾倒させています。
これはとても大切なことで、タフ・ネゴシエーターというのは、相手と喧嘩をするのが仕事ではない。
相手をして、その人物に傾倒せしめ、相手をむしろ抱き込んでしまうことで交渉を平和裏に有利に進めるのが、タフ・ネゴシエーターというものです。
川路がいかにすごいネゴシエーターだったかは、プチャーチンの随行員であったイワン・ゴンチャロフの帰国後の著述に述べられています。
~~~~~~~~~~~
私たちは、川路をみな気に入っていた。
(中略)
川路は非常に聡明であった。
彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。
彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。
明知はどこへ行っても同じである。
~~~~~~~~~~~
交渉事や議論というものは、ときに激しく応酬すれば、打ち負かされた相手の恨みを買う。
ところが川路は、交渉に見事に勝利したのみならず、相手から尊敬さえも得ています。
交渉は理屈ではなく腹です。
人物の出来、不出来が交渉以前に重要なファクターとなる。
この日露交渉の途中、ロシア側は川路の人柄に魅せられて、その肖像画を書きたいと申し出たそうです。
それを聞いた川路は、
「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し、彼らを笑わせたという逸話が残っています。
交渉の場の雰囲気が伝わってくるかのようです。
こうしてプチャーチンとの交渉で大きな成果を上げた川路は、その後も、落日の幕府を支えようと奔走します。
けれど、開国派の井伊直弼が大老に就任したことで、井伊の反対勢力にあった川路聖謨は、安政の大獄に絡んで、西の丸留守居役という閑職に飛ばされてしまうのです。
この更迭の背景にあったのが、将軍の後継ぎ問題です。
井伊直助が、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を第15代将軍に推したのに対し、川路は水戸徳川家出身の一橋慶喜を擁立しようとしていたのです。
これが井伊直助の怒りを買うもととなったわけです。
左遷され、閑職に追いやられた川路は、中風を患い、半身不随となってしまいます。
そして慶応4年3月15日、新政府軍が江戸城総攻撃を予告した当日、妻に白湯(さゆ)を求め、彼女が席を外した間に、病床から起き上がり、自分の腹を斬り、そこにサラシをきつく巻いた上で、拳銃でこめかみを撃って自害しています。
ときに川路68歳でした。
幕府によって栄達し、幕府を通じて日本のために捧げた生涯が、江戸開城となったとき、それに殉じようという心を産んだのかもしれません。
およそご政道を預かる武士は、常住座臥、常に死とともに生きる。
大震災があっても、口先だけでいい加減なことを言って日々ごまかしだけで過ごすどこかの総理とはわけが違う。
常に全治全力、命がけで政治を預かるというのが、国家の日本の官僚であり、日本の政治を預かる政治家の生きざまというものです。
そのひとつの例が、川路聖謨という人物であろうと、ボクは思っています。
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