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パラオ0617

以下は、読者のNさんからいただいたメールです。
是非、みなさんにもご紹介したいと思います。
まずは、原文をそのままご紹介します。
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最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。
今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。
日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて
「君たちは日本人か?」
と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そのとき老人が言ったことは家内が言うに
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。
この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。
私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
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このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。

海に沈むゼロ戦
海に沈むゼロ戦

旧日本軍のトロッコ跡
旧日本軍のトロッコ跡

大東亜戦争で戦ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が眠っている。
もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。
戦前まで、パラオは日本だったのです。
いや、「日本だった」と書くと、正確さを欠くかもしれません。
正確には、パラオは、日本の「委任統治領」だった。
「委任統治領」というのは、当時あった「国際連盟」によって国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。
この制度は通常、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として収奪するのにもちいられた制度です。
もともとのパラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことです。
このとき植民地支配したのがスペインです。
スペインの統治は過酷で、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間に、パラオの人口は、約90%が失われています。
そして、もうこれ以上収奪するものがない、となったとき、スペインはわずか450万ドルで、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却します。
ドイツは、パラオの原住民を使い、ココナッツの栽培などをするけれど、現地人に対する教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そしてドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において、国際連盟の結成とともに、パラオを含むミクロネシア地方一帯が、日本の委任統治領となったのです。
このパリ講和会議では、日本の牧野全権が、人種の平等を主張して、米英と激しく対立しています。
統治の委任を受けた日本は、さっそくパラオに南洋庁をおき、パラオに学校や病院、道路などを建設し、街のインフラの整備を図ります。
パラオの学校には、若き日の中島敦も赴任し、現地人のための教科書作りを行っています。
この頃の日本の領土は、たいへんに広いものだったのだけれど、そんななかで、パラオの子供たちは、日本本土を含む全日本共通テストで、なんと第二位を獲得しています。
子供たちも、たいへんに優秀だったのです。
ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。
まったくそういうものに、これまでずっと接していなかった現地の人たちに、いきなり「道路を作れ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり第二東京タワーを作れ、といわれるに等しい。
では、どうやって造るか。
日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。
まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。
当時、パラオにいた先住民は、わずか6500人足らずです。
そこに日本は、なんと2万5千人もの人を派遣している。
そしてあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄われています。
日本統治時代のコロールの街並み
日本統治時代のコロールの街並み

パラオは、日本の植民地だった、という人がいます。
このどこがいったい植民地なのでしょうか。
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パラオ共和国では日本統治時代に使用されていた機具などは、すべてパラオ共和国の財産として手付かずのまま放置されています。
(メインストリートの外れに灯篭のような石細工がありましたが、いつできたものかわかりませんでした。)
台湾が投資している農業研究所でも、当時使用されていた機具が錆びついてはいましたが、そのままの形で残っていました。
(そこでは建物の中に台湾の国旗が飾られていました)
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↑は、パラオに行かれたNさんの言葉です。
大東亜戦争で、日本は、パラオを守るために戦い、1万1000名が玉砕しました。
このときのお話は、
≪パラオ・ペリリュー島の戦い≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1074.html
≪アンガウルの戦いと人種差別≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-890.html
≪ランボーは日本人だった!・・・舩坂弘軍曹物語≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-708.html
で、詳しくご紹介しています。
戦後、パラオは、米国の信託統治下に置かれます。
けれど、米国はパラオで、産業開発らしいことは一切行わなかった。
いろいろな出来ごとのあと、ようやくパラオが晴れて独立国となったのは、昭和56(1981)年のことです。
その独立国パラオの国旗が↓です。
パラオ共和国国旗
パラオ共和国・国旗

この国旗は、日本の国旗をモチーフにし、円が中央からすこしずれているのは、日本にちょっぴり遠慮したからなのだそうです。
戦後の政治、戦後の教育、戦後のメディアが、いかに戦前の日本を貶めても、現地の人々には、当時の日本の仁政が、ちゃんとわかっている。
昨年に引き続き、今年も日心会では、南洋交流協会さんが主宰するパラオ慰霊ならびに独立記念祭への参加のツアーに行ってきます。
どうなんでしょう。
もし、いまこれを読んでいるあなたが、仮に、政府の委託を受けて、南の島に赴任したとして、あなたはそこで収奪や略奪、殺人、暴行、強姦をしますか?
それとも、現地の人々の暮らしや教育のために、自分のもっている知識や経験を少しでも生かそうとしますか?
戦前の日本というのは、大家族主義です。
ひとりひとりの日本人は、全員が、たとえ外地とはいえ非道な振舞いをすれば、それは「家族の恥さらし」であり、「親戚一同の恥さらし」であり、「村の恥さらし」と、生涯、言われ続けなければならなかったという環境にあります。
そんななかで、親兄弟の顔を思い浮かべて、あなたは非道な振舞いができるでしょうか。
日本人なら、それは決してできないことです。
そして人の役に立つことをすると、うれしいと思う心は、いまの日本人も戦前の日本人も同じです。
そうやって、現地の人々のために、一生懸命汗を流し、そこを守るために、命を亡くされた方々が、英霊です。
その英霊たちは、まぎれもなく、わたしたちと血のつながった、若かりし日の祖父たちです。
その祖父たちを貶めることこそが、侵略行為であり、恥さらしな行為であり、それこそが日本の恥であり、世界の恥である。
ボクはそう思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。
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