
先日、ある造り酒屋に行った時のこと。
なんとそこで、カメクチ酒(甕口酒)というのを呑ませていただきました。
日本酒は、大きな酒樽で発酵させて造るのですが、この酒樽から直接とったお酒です。
お酒は通常、販売に際しては、酒樽からとったお酒を、いったん140度の熱を加えて殺菌消毒し、これを半年ほど寝かせてから出荷します。
その加熱処理や寝かせ処理をする前の酒、つまり杜氏さんでなければ普通呑めないお酒を、実はごちそうになったのです。
これが、じつに、う・ま・い。
アルコールの度数は、
店頭で販売されているお酒だと、だいたい12~15度なのですが、カメクチ(甕口)のお酒は、22度ほどもある。
それだけ強いお酒ではあるのですが、これがまさにアルコールを感じさせないほど、なめらかで美味いのです。
しかも、滅菌処理をしていないために、なんとお酒が口の中でまるくなる。
店頭で販売されているお酒は、口に含んだときに、バシャッとなるけれど、それがカメクチ酒の場合、口のなかで、トロリとまるくなる。
その感触が、また絶妙です。
今ではほとんど呑むことができないお酒です。
なぜなら、防腐のために加熱滅菌処理をするため、お酒に含まれる麹菌が死んでしまうので、お酒が水っぽくなる。
ああ、昔の人は、こういうお酒を飲んでいたんだなぁと、つくづく感心しました。
ボクは、お酒にはとっても弱くて、お酒だけじゃなく他にもいろいろと弱いですが(笑)、それでもやはり美味しいものは、おいしいです。
さて、その日本酒といえば、酒好きで有名な方に、横山大観がいます。
上にある絵を描いた方です。
上の絵は、横山大観の昭和28年作の「霊峰飛鶴」です。
富士山の手前に、鶴が飛ぶこの構図は、大観が好んで描いたものですが、なかでも上の絵は圧巻です。
実に美しい。
その横山大観は、別名を酒仙大観とも呼ばれるほどの酒好きでした。
それも、日本酒しか呑まない。
銘柄も決まっていて、広島の銘酒「酔心」以外は一切口にしなかったそうです。
若い時は、毎日2升(一升瓶2本分)を呑み、90歳の長寿をまっとうしたけれど、お亡くなりになるときまで、日に一升は欠かさなかったといいます。
その大観が、いちど88歳で死にかけています。
築地の料亭で呑んでいて、呑みすぎて危篤状態になってしまったのです。
毎日一升は呑む人が「呑みすぎた」って、いったいどれくらい呑んだのかと思ってしまいますが、とにかく救急車で運ばれる事態になった。
日本美術院の重鎮たちにも危篤の知らせが出されて、いよいよご臨終かと、弟子や友人たちが集まります。
で、大観がうっすらと目を覚ました時、「先生は酒好きだから、最後は大好きな酒を飲ませて送ろう」ということになって、病院の吸い飲みで、酒仙を一合呑ませたのだそうです。
すると大観先生、酒を飲ませてもらったらすっかり元気になってしまい、翌日には危機を脱して、元気いっぱいで退院してしまった、というウソのようなホントの話があります。
で、翌日から、今度はほんとうに逝ってしまわれるまで、やっぱり毎日一升酒を呑んだという。
主治医の先生も、「酒は強心剤ともいえるけれど、長年の酒が酒に適した体を造ったのでしょう」と言っておられたとか。
まあ、酒好きも、ここまでくればたいしたものです。
ところが大観先生、若年の頃は、実はお酒にたいへん弱かったのだそうです。
とにかく少し呑んだだけで、赤くなる。
それが師匠の岡倉天心が、「酒の一升くらい飲めないのは男じゃない!」などとやったものだから大観先生、呑んでは吐き、呑んでは吐きしながら訓練し、ついには日に二升の酒が呑めるようになったのだそうです。
昔の人は、根性があったのですね。
それと、これも大事なことなのですが、昔の日本人、とりわけ世に名を残す人であればあるほど、「師匠」をとても大事にした。それが「あたりまえのこと」だった。
横山大観にとっての師匠は、岡倉天心です。
反日左翼の階級闘争思考が蔓延した昨今の日本では、師匠は敵であり闘争相手となる。
このあたり、もともとの日本の姿と、昨今の日本の大きな違いであるといえようかと思います。
ちなみにその岡倉天心といえば、茨城県の五浦海岸にある六角堂が有名ですが、登録有形文化財建造物に指定されているこの六角堂は、このたびの東日本大震災に伴う津波で消失してしまっています。
さてさて、銘柄で広島県三原市の「酔心」しか呑まなかったというのは理由があって、昭和初期に醉心山根本店の山根社長と知り合い、互いに意気投合して、このとき山根社長が「あんたの呑む酒は、一升ワシが面倒みちゃる」と約束した。
で「それなら俺もあんたんとこの酒しか生涯呑まん」と約束して、大観先生、その約束を50年来守り続けた、というわけです。
男がいったん口にしたことは、生涯をかけて守り通す。
それも、昔の日本男児ならではのことなのかもしれません。

もっとも山根社長は、大観先生が毎日2升も呑み続けるなどとは思ってもいず、年に何回も四斗樽で何本もの注文が来るので、びっくりしたそうです。
ところが、山根社長も男です。
面倒みると約束した以上、代金は「ビタ一文受け取れねえ」とばかり、お代は頂戴しなかった。
大観先生は、それではなんぼなんでも申し訳ないと、代金のかわりに毎年1枚ずつ自分の絵を無償で、山根社長に送ったのだそうです。
おかげで、醉心山根本店には、いま、横山大観の記念館ができています。
ちなみにこのこのお二人の約束は、昭和三十三年(一九五八年)に大観が永眠するまで続いたということは、戦時中も、継続していた、ということになります。
大観の自宅は、東京台東区池之端です。
酔心山根本店は、広島です。
戦時中のことです。
酒を送るのも、相当たいへんだった。
このとき大観は、なんと時の運輸大臣五島慶太氏にまで頼んで、お酒の陸送をしています。
すごいものです。
横山大観の生まれは、明治元(1868)年のことです。
父は、水戸藩士の酒井捨彦です。
明治維新や、尊皇攘夷という言葉を聞くと、どうしても薩摩や長州、土佐藩などのイメージが浮かぶと思うけれど、実際には、維新の原動力となったきっかけ、あるいは口火を切る役を担ったのは、徳川幕府親藩の水戸藩です。
父の酒井捨彦は、その尊皇攘夷の先駆けとなった人だった。
大観は、その長男として誕生し、育てられたわけですから、彼も保守で尊皇派です。
そのことは、彼の絵を見ればわかる。
大観の絵は、常に自然と一体です。
その絵は、簡素明澄であり、一切が清純であり、それ故にまた限りなく美しい。
大観は、明治14(1881)年に、私立の東京英語学校(世田谷にある現、日本学園)に入学し、そこで洋画家の渡辺文三郎と出会い、絵に対する興味を持ちます。
そして明治21(1888)年に、母方の親戚の横山家の養子となって、横山姓となり、日本画の狩野派の巨匠である狩野芳崖などに教えを受けるようになる。
さらに明治22(1889)年、東京美術学校の第一期生として入学し、そこで生涯の師となる。岡倉天心と出会います。
同期生には、有名な下村観山などがいます。
美術学校卒業後は、ひとり京都に移り住んで、仏画の研究を始めました。
実は日心会にも、いま現役で日本画(特に仏画)を熱心に研究をされている若い会員さんがいます。
彼は、絵は、商業ではない、といいます。
絵は、心をつたえるものだ、という明確な問題意識に支えられている。
さて、京都で修業中の大観は、京都市立美術工芸学校予備科の教員となり、この頃、生涯の雅号となる「大観」を使い始めています。
明治29(1896)年、大観は、同職を辞して、師匠の岡倉天心が校長を勤める母校の東京美術学校に助教授として舞い戻ります。
ところが、ここで問題が起こる。
舞い戻った2年後に、なんと校長である岡倉天心への排斥運動が起こったのです。
怒った岡倉天心は、校長を辞任。
このとき、大観も、師匠の岡倉について、助教授職を辞しています。
岡倉天心も、横山大観も、絵に対する情熱の根源は、日本美術への、あるいはもっといえば、日本への限りない情愛にあります。
その発露である日本画の普及のため、大観は同年、岡倉天心やその仲間たちとともに、日本美術院創設に参加しています。
とことが、この日本美術院が、またたいへんな状態となる。
当初は、日本絵画協会と合同で、春秋に2回、絵画展覧会を開催していたのだけれど、こうした大会の開催には、それなりの資金がかかります。
カネの切れ目が縁の切れ目じゃないけれど、理想を同じくして集った仲間が、なけなしの美術院の資金の件でもめて、活動が沈滞化してしまう。
同時に、日本美術院の姿勢が、古くからある日本画の美しさに、洋画の良さも取り入れていこうとするところにあったことが、日本画の守旧派と呼ばれる人たちから排斥される動きとなり、このため、院の内部でも内紛が絶えず、結果として、日本美術院は有名無実のものとなっていってしまいます。
このままではいけない。
そう考えた岡倉天心や横山大観は、日本画の美しさのアピールのため、ボストン、カルカッタ、ニューヨーク等で日本画の絵画展を催し、これが大成功となります。
実は、ここが、実は今日のお話の一番のポイントにあたる部分でもあります。
(酒の話ではないのです!笑)
保守や尊皇というのは、守旧主義ではない、ということなのです。
日本に古くからある「伝統」を尊重しつつも、世界のいいもの、すばらしいものを柔軟に取り入れて、もっといいもの、もっと素晴らしいものを「創造」していく。
つまり、「伝統」を学び、大切に育みながら、未来へとつながる新しい時代の「創造」を図る。それが「保守」と呼ばれる人たちの発想です。
ですから実は「保守」は「革新」です。
そうではなく、とにかく復古すればいい、という考え方は、「守旧」です。
とかくこれはトラブルのもとになる。
日本は、長い歴史と伝統を持った国です。
たとえば絵画にしても、奈良平安の時代の描写や技術と、江戸期の大衆絵画とでは、まるでその様相が異なる。
政治にしても、原点を江戸政治に求めるか、明治時代に求めるか、あるいは昭和初期に求めるかで、その考え方は、まるで異なるものとなる。
世界の歴史をみれば明らかなことだけれど、歴史は繰り返すけれど、政治体制や技術革新というものは、元の時代に戻ることは、まずありえないです。
早い話が、江戸時代がいくら素晴らしい時代だと考えるとしても、あるいは戦前の体制を理想と置くとしても、その時代とまったく同じ体制に戻ることは、おそらくいまを生きる人たちの多くは、決して100%好ましいとは思わない。
要するに、歴史、伝統、文化に学び、その素晴らしいところを生かしつつ、新しい時代は、常に「創造」の中にある、ということです。
横山大観は、こうして世界で洋風の手法を取り入れた創造的日本画展を開くことによって、世界から大絶賛を浴びます。
そしてこの欧米での高い評価によって、守旧派が陣取っていた日本国内の日本画の世界でも、その新しい画風が再評価され、以降、
明治40(1907)年、文部省美術展覧会審査員就任
大正2(1913)年、日本美術院を再興、
昭和9(1934)年、朝日文化賞受賞、
昭和12(1937)年、文化勲章受章
昭和26(1951)年、文化功労者受賞、
昭和32(1957)年、逝去とともに、正三位、勲一等旭日大綬章を受賞
しています。
ちなみに、大の日本酒好きだった横山大観の脳は、現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されているのだそうです。
今夜は、オイラも「酔心」呑んでみようかな^^♪
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