
大川周明先生のラジオ講義の、今日は三日目になります。
(「米英東亜侵略史」は、先生のラジオでの講義を録取したものです)
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≪初日≫黒船来航
≪二日目≫米国東亜政策変遷
≪三日目≫
昨日の記事で述べた、米国の対Chinaへの門戸開放の要求は、実に堂々たるものです。
こうした堂々とした態度は、まさに米国流と言ってよい。
こうした外交上の要求というものは、その裏にからなずといっていいほど、別な目的がある。
この場合、米国が目的としていたのは、ひとつにはChinaに於ける米国の権益の確保であり、もうひとつは他の欧州列強の対China進出の消極的阻止にあります。
しかし、この米国の目論見は、見事なまで外れます。
そもそも、この要求の提唱者であるジョン・ヘー国務長官自身が、以下のように述べています。
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私がChineseに向って、米国に与えていない特権を、他国に与えてはならない、と激励したとき、Chineseはこう答えた。
「もし他国が武力に訴へて来たならば、Chinaだげではこれに抵抗できない。そのとき米国はChinaに味方してくれるのですか?」
予は残念ながら然りと答えることができなかった。
ここに米国の根本的弱点がある。
我々は、Chinaを掠奪しようとは思わない。
けれど、他国がChinaを掠奪した場合、我国の世論は武力でこれに干渉することをを許さない。
他方、Chinaは、欧州の侵略に対抗できるだけの十分な兵力を持っていない。
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要するにこの頃の米国は、東亜進出の準備と態度だけは整えたのだけれど、そもそもが出発時点での立ち遅れが災いしたのと、国内世論への気兼ねから、そうそう易々と目的を遂げることができる状況になかったのです。
ただし、です。
ことここに至って、太平洋の重要性が、米国内でも明白になった。
19世紀の世界政局の中心は大西羊だったのだけれれど、20世紀に入って、舞台は明かに太平洋へと移ったのです。
これはどういうことかというと、太平洋を征することが、とりもなおさず世界の覇権を握るということを意味した。
当時の米国は、新興国です。
その新興国米国の精神の権化ともいうべきセオドア・ルーズベルトは、最も明瞭にこの間の状況を把握しています。
それは、明治38(1905)年6月17日付で、彼が友人のホイラーに宛てた手紙の中に見ることができます。
その手紙で、セオドア・ルーズベルトは、「米国の将来は、ヨーロッパと相対する大西洋上のアメリカの地位によらず、Chinaと相対する太平洋上の地位によって定まる」と明言している。
では、どうして太平洋が世界政局の中心となるのか。
それは、太平洋の岸に沿って、China、満州が横たわっているからです。
この時代、すでに欧米以外の諸国や、洋上に浮ぶ大小の島々は、欧米列強の領有物となり、彼らの植民地となっています。
ところが、ひとり東亜だけは、なおまだ欧米、いずれの国の勢力も、絶対に圧倒的といえる状況にはなかったのです。
つまり、欧米列強は、東亜において、尚、植民地化競争をする余地があった。
しかも東亜は、未だ十分に開発されていない彪大なる国土がある。
だからこそ太平洋は、米国にとって限りなく価値あるものとなっていたのです。
さらにいえば東亜には、列強がその工業生産を行うに際しての豊冨なる資源が、開発もされず放置されていた。
もっといえば、この時代のChinaは貧乏な国だけれど、そこに住む人口は4億人です。
これは欧米列強にとって、無二の市揚に見えた。
例えば昭和初年頃、日本は毎年一人当り約30円分の外国品を買っていました。
同じ頃のChinaは、わずかに3円70銭です。
つまり、Chineseたちは日本人の10分の1に足らないほどぬほどしか、外国製品を買っていない。
ということは、もしChineseが、一人当り10円の外国品を買ったなら40憶円、20円買ったなら80億円の大金が、外国商人の腹に落ちる計算になります。
要するにChinaの国情が安定すれば、資本を投じたときに、これほど儲かる国はない。
鉄道一本引くにしても、アフリカに引いたのでは、鉄道沿線一帯が開拓されるのに何十年もかかる。
そこでは猿か鳥でも乗せなければ、荷物も客もないのです。
ところがChinaでは、鉄道開通の日から旅客にも貨物にも困らない。
こうした事情を考えれば、Chinaが欧米列強の進出の最大目標となったことに、なんら不思議はありません。
ですから米国においては、太平洋を支配するといふことは、Chinaおよび東亜を支配するといふ意味を持つことになったのです。
米国にとって東亜支配は、China満蒙での資源の開発、広大なる市場の獲得、高率な投資利益を生みます。
だからこそルーズヴェルトは、先程の手紙の中で、ただ漠然と太平洋とは言わずに、
「Chinaと相対する太平洋」と銘打っているのです。
こうして米国の太平洋進出、すなわち東亜進出は、日露戦争直後から初めて、大胆無遠慮となっていきました。
およそ、すべての攻撃や進出は、常に抵抗力の最も薄弱だと考えられる方向に向って試みられます。
そして米国が多年にわたる東亜進出計画を実行に移すにあたって選んだ場所が、満蒙だったのです。
なぜなら、そこを支配する日本は、日露戦争によって国力を弱めていた。
ルーズヴェルトは、日露両国の講和調停に際して、ひそかに米国鉄道王と呼ばれたハリマンを、明治38(1905)年に日本に派遣しています。
ひそかに、条約によって日本のものとなるべき南満洲鉄道を買収するためです。
ハリマンがどのような弁舌をふるって日本政府を籠絡したかは詳しくわかりません。
けれど日本政府は、彼の提案を容れて12月20日付で、極秘裏に覚書を締結しています。
その内容は、満鉄及び満鉄に属する鉱山その他各種事業の権利の半ばを、ハリマンの支配するシンジケートに譲渡する、これに相当する代金を、日本政府が受取るという、信じられないようなものです。
ハリマン大喜びでこの覚書を手に入れた、まさにその日の午後に、直ぐさま横浜から船に乗つて帰国の途についています。
その丁度3日後に、ポーツマス条約を携えて帰国した小村全権が、その覚書を見て驚き、かつ激怒し、絶対反対を唱えて遂に政府を動かし、これを取消させています。
日本政府が何故、満鉄をアメリカに売る決心をしたかは、我々の今日に至るまでの不可解とするところです。
日本は文字通り国運を賭してロシアと戦い、多大の犠牲を払って勝利を得たのです。
そしてこの勝利によって日本が獲得したものは、必ずしも大ではない。
日本国民はハリマンが秘かに東京に来たころに、講和談判に不平を唱へて焼き打ち騒動となり、戒厳令まで布かれていたのです。
しかるにその少い獲物のうちから、満鉄をアメリカに売ってしまえば、勝利の結果を全く失い去るものになる。
当時もし、日本国民がハリマン来朝の真意を知ったなら、その激昂は一層猛烈であつたに相違ありません。
思うにハリマンは、日本が経済的危機に迫っていたのに乗じて、講和談判斡旋の恩を笠に着せて、日本から満鉄利権の半分を見事に奪ひ取ったのでしょう。
もしこのとき、小村全権が敢然これ反対しなかったならば、恐らく日本の大陸発展が、この時に米国によって完全に阻止されてしまったのであろうと思われます。
ちなみに、このときのハリマンの満鉄買収策は、極めて大規模な計画の一部であったにすぎません。
その計画というのは、まず第一に満鉄を手に入れ、次でロシアの疲弊に乗じて東支鉄道を買収し、かくしてシベリア鉄道を経てヨーロッパ至る交通路を支配し、鉄道の終点大連及びウラジオストックから、太平洋を汽船でアメリカの西海岸と結ぶ。
米国内では、大陸横断鉄道によって東海岸に至り、そこから汽船で大西洋をヨーロッパとと結ぶ。
すなわち、世界一周、船車連絡路を米国の手に握る第一歩として、満鉄を日本から買収しようとしたわけです。
さてルーズベルトが日露の問に立って講和会議の斡旋をするまでは、これまで申上げて来た通り、米国は大体において常に日本に好意を示して来ています。
ところがハリマンの計画が失敗するに及んで、日本に対する米国の態度は、次第に従前とは違ってきた。
どういうことかというと、米国が日本を、東洋進出をさまたげる障壁であると考え初めたということです。
ここに米国のはなはだしい無反省と横暴があります。
東亜発展は、日本に取っては死活存亡の問題です。
だからこそ、国運を賭してロシアとも戦ったのです。
けれど米国にとっての東洋進出は、持てるが上にも持たんとする贅沢の沙汰でしかない。
米国は、その贅沢な欲望を満たすために、日露戦争によつて日本が東亜に占めた地位を、無理矢理に奪い去らんとしたのです。
そして、実にこのときから、米国の対日戦略は、傍若無人の横車となっていったのです。
横車の第一は、日露戦争の終つた翌年、すなわり明治39(1906)年に、突如、当時の東京駐在公使イルソンをして、次のような提言を日本政府に向って突きつけたことに明らかです。
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満洲に於ける日本官憲の行動は、そうじて日本商業の利益を扶植し、日本人民の為めに財産権を取得せんとするものである。
満州から日本軍が撤退しなければ、他の外国の日本との通商は、絶無になるであろう。
仮に世界列国が日本との通商を継続するとしても、日本の満州における行動は、合衆国政府の甚だ遺憾とする所である。
日本政府は、ロシアが満州を征服しようとして失敗したことに鑑み、同様の失敗をしないよう、十分に反省することを望む。
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こういう乱暴な文句をつけたのです。
幾多の生霊を犠牲にし、20億円の金を遣って日本は、ようやく満洲からロシアを駆逐したのです。
にもかかわらず、日露戦争の翌年には、米国はかような横車を入れてきたのです。
次には翌、明治40(1907)年のことがあります。
Chinaで事業を営んでいた英国のボーリング商会が、秘かにChinaと交渉を進めて、京奉線、すなわり奉天から北京に至る鉄道をシベリア鉄道に連絡させる鉄道敷設権を獲得したのです。
当時の奉天にあった米国総領事は、有名なストレートです。
ストレートは、成功しなかつた米国のセシル・ローズといわれた人です。
明治34(1901)年にコーネル大学を卒業し、Chinaに赴いてロバート・ハートの下でChina海関に3年勤務し、日露戦争の勃発と共に新聞記者となって朝鮮に赴き、ここで京城駐在米国公使の私設秘書兼副領事を勤めています。
そこでストレートは、来日のついでに朝鮮を旅行したハリマンと知り合い、明治39(1906)年には、若干26歳にして、奉天総領事となっています。
ハリマンのみならず、ルーズヴェルトもタフトも、みなストレートを非常に重んじていました。
このストレートは、あらゆる機会をとらえて日本を抑えつけ、米国のの力を満洲に扶植する覚悟で着任しています。
ボーリング商会が鉄道敷設権を獲得すると、彼は直ちに米国をこれに割込ませた。
この鉄道は満鉄と並行して、シベリア鉄道と渤海湾とを結びつけるものです。
この鉄道が布かれることになりますと、満鉄は大打撃を受ける。
昭和17年現在、満洲で農産物の最も多いところは北満洲一帯です。
そこから出る農産物が、満鉄を経ずにヨーロッパに向かうことになれば、日本は満鉄を持っていても、何のメリットもないことになります。
Chinaに対しては、小村全権が北京で、事前に以下の内容の満洲善後条約を締結しています。
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China政府は南満洲鉄道の利益を保護する目的を以て、自ら該鉄道を回収する以前に於ては、該鉄道の附近に於て、若しくは之に併行して如何なる鉄道をも敷設しないこと。
満鉄の利益を害する如何なる支線をも敷設しないこと。
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Chinaは、こういう条約を日本との間で締結しておきながら、平気で英国ボーリング商会に鉄道の敷設を許可していたのです。
これは疑いもない条約違反です。
日本は強硬にこれに抗議し、ついにChinaに、一旦与えた許可を取消させています。
ところがストレートは、決してそれ位のことで思ひ止むものでありません。
彼は翌、明治41(1908)年、China当局との間で、満洲銀行設立の約束を結んだのです。
当時Chinaの政治の実権を握つて居たのは袁世凱です。
袁世凱は、日露戦争前並に日露戦争中は、我国に非常なる好意を示していたのですが、それはロシアという共同の敵があったからです。
それが日露戦争における日本の勝利によって、ロシアに代って日本が満洲に勢力を張るに至ると、今度は米国の力を借りて日本の満洲での発展を阻害しようという方針に変えたのです。
ストレートは、この袁世凱の反日政策を利用し、当時の東三省総督である徐世昌、及び奉天総督の唐紹儀と図って、満洲に於ける鉄道の敷設並に産業の開発を目的とする満洲銀行を設立することを承認させ、二千万ドルのを米国が貸与するという仮契約まで結んで、よろこび勇んで米国に帰っていったのです。
要するに、米国は、この満州銀行を機関として、満洲に於ける金融市場を握り、日本を追い落として鉄道事業を始めようとしたのです。
日本に取って幸運だったのは、この袁世凱が政変のために失脚し、彼の政敵である醇親王がChinaの政治を執るようになったことです。
ストレートの計画は、今度も失散に終ったのです。
やむなく米国は、この年(1908年)11月に、時の駐米日本大使である高平小五郎に対して、「日本は満洲で、決して他国の事業の邪魔をしないこと。門戸開放、機会均等主義を忠実に守ること」を要求し、日本にこれを応諾(高平ルート協定)させています。
≪大川周明先生「米英東亜侵略史」(4)に続く≫
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