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長崎・丸山遊郭
長崎丸山遊郭

ちょっと季節外れになってしまいますが、「桜餅(さくらもち)」のお話をしてみようと思います。
桜餅は、上方風と、江戸風があり、


↓こちらが上方風
桜餅上方風


↓こちらが江戸風です。
桜餅江戸風

桜餅は、もともと江戸が発祥で、京に伝わったときに、京都の和菓子職人さんたちの手によって、形状がかわり、上方風ができあがったものだと言われているのだそうです。
最初、江戸の向島にある長命寺の門前で、山本新六という人が享保2(1717)年に、隅田堤の土手の桜の葉を樽で塩漬けにし、これを餅に巻いて「桜餅」の名で売ったのが、そもそものはじまりなのだそうです。
この堤は、その頃から桜の名所で、花見時には多くの人々が集ったので、桜餅が大いに喜ばれ、お江戸の名物菓子となった。
その考案者の山本新六が、いまの「山本や」さんの創業者にあたるのだそうです。
ちなみに桜餅に使われる「もち米」は、もち米をそのまま使うのではなくて、一度蒸して乾燥させ、これを粗く砕いたものが用いられます。
こうした「もち米」の利用方法は、実は、戦国時代に考案されたもので、お湯や水に浸せばすぐに食べられるようになることから、戦国武士の携行食として大流行したものなのだそうです。
その粉を量産していたのが、大阪にある道明寺で、だからこの細かく砕いた「もち米」のことを別名で「道明寺粉」ともいいます。
で、上方風の桜餅のことを「道明寺」と呼んだりするようになった、というわけです。
さて、その桜餅の由来には、異説があります。
江戸時代は鎖国をしていて、外国人の出入りは長崎の出島でのみ赦されていたというのは有名な話ですが、ある日のこと、オランダから来た異人さん2人が、たいそう女を欲しがったのだそうです。
で、しかたなく長崎奉行が、丸山遊郭に事情を話して、二人の美しい遊女を呼び寄せた。
奉行は事情を話して、二人の女性に頭を下げて頼んだのだけれど、女性のうちのひとりはイヤがって、カミソリの刃で喉をかききって果ててしまった。
もうひとりの遊女は、逆らわずに、異人のひとりの囲いものになったのだそうです。
そして異人が帰国した後、中島天満宮の近くに小さな茶店を出して、そこで桜の葉を塩漬けにしたもので餅を包んだ菓子を売ったのだそうです。
異人の囲い者になっていた頃、その屋敷に大きな桜の木があり、花が散って葉だけになり、その葉も散って行くのを見て、いずれわが身も散っていく。
そんな思いを、菓子にした。
その菓子が、とっても評判がよく、桜餅となって江戸に伝わったのだというのです。
真偽のほどはわかりません。
けれど、身の上にたいへんなことが起こった時、そこで死を選ぶか、それともそこから何かを生み出すかは、それぞれの人生の選択なのだろうと思います。
わたしたちは、いま、たいへんな時代を迎えています。
日本がなくなりそうな事態になっている。
でも、やはり私たちは日本をあきらめず、いまの苦境から何かを生み出して、新しくて甘くて、ちょっぴり塩辛くて、とてもおいしくて、世界中誰からも愛される、それこそ桜餅のような、息の長い、美味しい新しい文化を創造していく。
うまく言えないのですが、たぶん、そういうことが、いまの私たち日本人に課せられた使命なのかもしれませんね。
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