
ジョージ・アチソン・ジュニア(George Atcheson Jr)という人がいます。
明治29(1896)年、米国コロラドの生まれです。
大正9(1920)年に米、国務省に入り、外交官として主に極東関連の事案を担当し、大東亜戦争終戦まもない昭和20(1945)年9月7日、マッカーサーの政治顧問として、国務省から日本に派遣されてきています。
アチソンは、昭和21(1946)年には、GHQの外交局長、対日理事会議長に就任する。
彼は当時、連合国という軍事政権によって一種の戒厳令がひかれた日本において、連合国が日本を統治する上で必要な、日本人が守るべき最高法規としての「THE CONSTITUTION OF JAPAN」を起草する。
24カ月間の日本勤務を経たアチソンは、公務のために米国へ帰投します。
そしてその途中の昭和22(1947)年8月15日、ハワイ、オアフ島西100キロの地点で、搭乗していた飛行機が墜落し、急逝した。
そのアチソンが、亡くなる少し前に書き残した一文があります。
原文はもちろん英文なのですが、これを上井義雄さんという方が、邦訳されています。
題は、「日本占領22カ月を顧みて」となっています。
この文の前段は、旧大日本帝国憲法時代の日本が、新たに提供された日本国憲法によって、数々のメリットを与えられたのだ、と自画自賛の言葉が並んでいます。
そしてアチソンは、GHQの施した数々の政策により、
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敗戦による利益は、損失よりはるかに多いといわない日本人はないであろう。
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と述べています。
アチソンの文は、前段から中段まで、GHQ政策が、日本人にいかに利益をもたらすかの自画自賛です。
ところが文の後段になると、すこし「おかしなこと」が書かれています。
引用します。
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日本国民が、ドイツ、ポーランド、その他大多数のヨーロッパ大陸国家よりも、多くの食料、衣料、住宅、および光熱を持っていることは、一般には知られていない。
この事実は、もちろん日本現在の経済的窮状を減ずることにはならず、この窮状は、将来、ある期間はつづくであろう。
しかし私は、転換期はすでに到達していると信ずる。
(中略)
道はなお、険しく長いであろう。
成功の要は、すべての日本人・・・今日国民を代表する経済当局者ならびに、工場、銀行、商店、農場など、あらゆる分野に働く人々・・・が一致協力することである。
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戦争当時の日本は、なるほど台湾、朝鮮半島を領有し、満州も間接統治していました。
けれど、歴史を振り返れば明らかな通り、台湾、朝鮮、満州へは、当時の帝国政府は、これら三国のインフラ整備のために、巨額の財政出動をしていました。
帝国政府は、外地にいる650万人もの日本の将兵や軍属たちの食料や衣料、住居設備などの一切を、現地徴発でなく、日本の内地から送付で賄っていました。
ものすごく簡略化して図式化するならば、当時の帝国日本は、台湾、朝鮮、満州の面倒をみながら、さらに外地にいる日本人将兵の衣食住をまかなっていた。
これはものすごいことです。
考えてみると、戦後の日本政府は、外地のことを一切考えず、国富をまるごと内地の復興に充てたわけです。
そして最後は、日本は「すべての日本人が一致協力すること」が、日本の成功の要であるとくくっている。
つまり、前段、中段で、GHQのもたらした個人主義や個人の自由をさんざん礼讃しておきながら、最後は、「すべての日本人が一致協力する」という、国本主義であったかつての帝国日本の体制を認める発言をしています。
22カ月間、日本にいて、日本解体を主導してきたアチソンは、結局のところ日本の日本的思考そのものの精神を容認し、それこそが日本の「成功の要」と説いている。
明日、当ブログで、このアチソンの文を全文、掲載します。
ご自分の目でよくご覧になっていただきたいと思います。
戦後日本は、まさにアチソンの文の前段と中段を是として、国家を築いてきました。
けれど日本の復興と成長は、そうした政治体制によってもたらされたものではなく、日本に古くからある精神と、その精神を根本とする民間活力によって、もたらされたものです。
そして日本人が、完全に戦後体制に染まったとき、日本の成長は停滞し、凋落がはじまっています。
いま、日本は、アチソンの文の後段部分、すなわち、「すべての日本人・・・今日国民を代表する経済当局者ならびに、工場、銀行、商店、農場など、あらゆる分野に働く人々・・・が一致協力」する、かつての日本をとりもどすことこそ、災害復興だけでなく、未来にわたる日本の繁栄をもたらすことに、気付くべきときにきた。
そう思います。
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