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玉川兄弟
玉川兄弟

先日「江戸の水道井戸」という記事で、玉川上水のことを少し書きました。
そこで今日は、玉川上水の開削の指揮をとった玉川兄弟のことを書いてみたいと思います。


まえの記事にも書きましたが、江戸は昔は広大な湿地で、海が近く、井戸を掘っても良質な水が採れません。
そこで、江戸時代の初期には、小石川上水が引かれ、また神田上水、赤坂のため池などが、江戸市民の水として利用されていました。
ところが、4代将軍徳川家綱の代の頃になると、江戸の人口が増え、水不足が大きな問題となりました。
そこで江戸の西を流れる多摩川から江戸市中に水を引いてはどうかという案がもちあがる。
このとき幕府の老中たちは、「上水道沿いに江戸へ敵が侵入してきたらどうするのか。上水などを作れば城の堅牢性は失われてしまう」と、こぞってこの計画に反対したのだそうです。
現代人の感覚では「何をバカな」と思うかもしれませんが、江戸城が開かれたころは、江戸城はまさに軍事都市で、江戸日本橋を起点とする東海道、日光街道、甲州街道、東北道、常磐道などの街道も、江戸市中では複雑に折れ曲がり、敵が一直線に攻めてこれないように工夫を凝らしてあります。
おかげで、いまでも都心部に至るには、道路が複雑で、はじめて車で乗り入れる人など、道路標識があっても、地図かナビがないと、道に迷ってしまいます。
街道にさえ、それだけの工夫があったのですから、江戸の西側から城内まで、一直線に水道を引くという案に、もともと武人をもってなる江戸の老中たちが反対したのにも、うなづけます。
これに対し、玉川上水を断固作るべしと唱えたのが、将軍の補佐役であった保科正之です。
彼は、老中たちを前に、
「一国一城を守る小城においては堅固であることが大事です。
しかし、豊臣家が大阪城で滅んで以降、天下の江戸城に敵が攻め入る事はもはや考えにくく、またその天下とは民があってこそのものです。
城は万民の利便と安居を第一に考えた上に存在するべきかと存じます」と説いた。
まさに正論です。
江戸幕府の要人たちの偉いところは、こうした保科正之の論にたいし、自らの不明を恥じ、素直に従ったところです。
意見は言う。
諫言するときは、腹を斬る覚悟でもの申す。
けれど、目上の者のジャッジには、己を殺してでも従う。
それが武家社会の掟(おきて)というものです。
昨今では、学校の先生が生徒に注意しても、生徒には生徒の考えがあるなどと、未熟者が擁護されがちです。
「そんなの関係ねえ」は、漫才だけにしてもらいたいものです。
さて、保科正之の英断によって、玉川上水は開削されることになりました。
幕府は、これを江戸町奉行の神尾備前守元勝(かみおびぜんのかみもとかつ)に命じます。
そして神尾備前守は、町方で土建屋を営む庄右衛門と、人足あっせんを営む清右衛門の二人の兄弟に、上水道の水筋の調査を命じます。
兄弟は、各地を調査してまわり、羽村から多摩川の水を引くのが最も妥当との結論に達した。
理由は、羽村からなら江戸まで通水するための高低差が得られること、多摩川が大きく蛇行して対岸とぶつかるので、ちょうどうまく取水口に向かって水が流れ込む地形であったことからと、いわれています。
兄弟は羽村から江戸への導水計画を立てると、実地測量した結果を絵図面・書付けに起こし、評定所に提出しました。
絵図面によれば、上水は多摩川の水を羽村で取り、四谷の大木戸まで素堀(すぼり)というむき出しの堀で導水する。
そこから、地下にもぐって地中を石の樋(とい)で通して江戸の町に分けるというものです。
羽村から四谷の大木戸までは、約48kmの距離です。
提出された絵図面・書付けを、老中の阿部豊後守忠秋、松平伊豆守信綱、寺社奉行安藤右京亮重長、松平出雲守勝隆、勘定奉行曽根源左衛門吉次、伊丹蔵人勝長等が検討します。
さらに牧野織部、八木勘十郎、伊奈半十郎忠治の三名が実地調査に派遣され、庄右衛門・清右衛門兄弟が案内役となって6日間の調査を行います。
そして承応元(1652)年12月25日、幕府の評定所において、松平伊豆守信綱を玉川上水工事の総奉行に、伊奈半十郎忠治を水道奉行に、庄右衛門・清右衛門兄弟に工事の請負を任じ、工事費として兄弟に6千両を下げ渡しました。
松平伊豆守といえば、三代将軍徳川家光と四代将軍家綱に仕え、「知恵伊豆」と称された人です。知恵伊豆は、知恵出ず(いず)に掛けたあだ名です。
工事の総責任者である水道奉行となった伊奈半十郎は、治水・利水の土木技術「関東流」の始祖である伊奈忠次の嫡子にあたります。
こうして承応2(1653)年4月4日、玉川上水開削工事がスタートします。
羽村から都内にかけては、いまでこそ東京の一大ベットタウンで人口の密集地ですが、当時はこのたりはうっそうとした原野です。農家すらない。
だから相当遠隔地からも、人足達が集められます。

立川市内を流れる玉川上水
立川市内を流れる玉川上水

工事は、その原野を切り開いて行われます。
しかも、羽村の取水口と江戸の標高差は、わずか92メートルしかありません。
そこに水が淀まないように通すためには、100メートルにつき、21cm~22cm高さを下げるといった正確な測量が必要です。
そのため工事は、日が落ちてからも提灯の明かりを頼りに、毎日測量が続けられたといいます。
それでも府中八幡宮下付近で水が淀んでしまい、工事ルートの見直しを余儀なくされ、さらに福生市熊川のあとりでは、水がしみ込んでしまう土(水喰土)層にあたってしまい、ここでもせっかく掘った水道のルート変更が必要になる。
こうした二度におよぶ工事ルートの変更によって、庄右衛門・清右衛門兄弟は、幕府から下賜された工事費の6千両を、高井戸付近で使い果たしてしまう。
庄右衛門・清右衛門兄弟は工事資金の追加を申し出るのだけれど、幕府からのお達しは「工事が完成し、通水に成功するまで自らの費用で掘削するように」という厳しいものです。
やむなく兄弟は、自己資金二千両と、所有の家屋敷3ヵ所を売り払った千両で、虎ノ門までの掘削を続ける。
いまのお金でいったら、1億8000万円の自腹です。
ここにも江戸日本の心意気が見え隠れする。
たとえ工事資金が底をついたとしても、やると決めたことはやる。
なぜならそれが人の道だからです。
平成にはいってから、日本の高度成長が停まり、多くの建設業者が倒産しました。
けれど日本国内には、建設途中で放置された物件というのは、めったに見ることがありません。
昨今のChinaなどを旅行してみるとわかるのですが、工事途中で放置された現場が、そこここで目につきます。
ところが日本では、そうした現場は、まず見かけません。
もちろん工事には保証会社がついているということもありますが、多くの工事現場では、施主や請負建設業者が倒産しても、現場の人夫さんたちは、もうお金がもらえないとわかっていても、請け負った仕事は最後まできちんとやって現場を後にしています。
ゼニカネの問題じゃない。
やると決めたことはやる。
それが古くからの日本の流儀です。
一方、幕府の公金支出は、いろいろな関係部署の了解のもとに行われています。
工事途中で資金がなくなったからといって、迂闊に工事金など出てきません。
昨今では、これも、工事途中での追い金として、普通に供出されたりするようですが、江戸日本の思考では、6千両なら6千両とお上と約束して出されたお金です。
足りないから出してくれとは、お上との約束を守らなかったことになる。
約束は守るのが人の道です。
だからこそ庄右衛門・清右衛門兄弟は、自腹を切って工事を遂行しています。
こうして玉川上水は、約半年で羽村~四谷大木戸間を開通し、承応2(1653)年11月には、ついに全路が開通し、翌承応3(1654)年6月から、晴れて江戸市中への通水が開始されます。
そして庄右衛門・清右衛門兄弟は、玉川姓を名乗ることを許され、永代玉川水元役を命じられます。
晴れて二人は、武士になったわけです。
ところで水元役というのは、水を利用する武家や町人から水上修復料銀(水道使用料)を取り立て、上水の保守管理を行うというお役目です。
兄弟は、幕府より年200石の扶持米(給料)をいただくけれど、その扶持米の中から、玉川上水全域の保守管理と、水道料金の取り立て費用を全部捻出しなければなりません。
200石というと、いまのお金で1200万円くらいですが、取り立てた水道料金は、全部幕府の収入となるので、兄弟は、あくまで200石の扶持の中から、必要なすべての経費をねん出しなければなりません。
こうした状態が、約4年続くのですが、もとより工事竣工のために、私財を使い果たしています。
しかも、4年間も赤字続きです。
これではどうにもならないと、兄弟は、取り立てた費用の一部を、経費として兄弟の取り分としてもらえるよう、幕府にはたらきかけます。
そして、万治2(1659)年、幕府から玉川兄弟に、徴収した水道使用料を、彼らの経費(収入)として良いとの許可が降ります。
この水道使用料収入が、年400両ほどで、経費はおおむねその半分以下です。
ようやく兄弟は、工事期間中の赤字を補てんできるようになる。
それから3年ほど経った寛文年間(1661~1673)になると、町奉行に渡辺大隅守が就任します。
その渡辺大隅守のもとに、玉川兄弟が取り立てている修繕料料の半分の額で水元役を勤めたいという者が現れます。
大隅守は、願い出てきたその者に水元役を立てる意向でしたが、兄弟がこのままお役目を続行したいと願い出たため、当分の間はこれまでの3分の2の修復料で勤めるよう言い渡しました。
これは幕府の上層部に水元役交替の通達をすでにしてしまっていたための暫定対策でしたが、そのうち渡辺大隅守が町奉行を辞任したため、3分の2の修復料はそのまま据え置かれてしまう。
玉川兄弟の収入は、こうして確保できたわけですが、二人はその後もつましい生活を続け、上水の維持管理に誠実を尽くします。
そして、玉川上水が完成して90年が経った元文4(1739)年の、三代目玉川庄右衛門と二代目玉川清右衛門の頃のことです。
玉川家に、おかしな噂がたちはじめます。
武家や町人から賄賂を受け取り、賄賂の額によって分水の加減を調整しているというのです。
訴えを受けて町奉行が調査したところ、兄の庄右衛門が諸大名宅に出入りして付け届けをしていた事実はあったものの、賄賂を要求したという事実はないことが判明します。
けれど肝心の水元役としての義務に怠慢であったことが露見してしまう。
内容は、
(1)兄弟の生活が分をわきまえていない贅沢なものである。
(2)羽村堰や水門の修復工事はおろか定期的な見回りさえも怠っている。
(3)川をさらうために必要な道具類の管理がされていない。
(4)出水時に人手を出すことを渋り、河川の水底に堆積した砂利や砂の回収・除去がはかどっていない。
というものです。
これらが原因で江戸への給水が不足する事態が生じ、この点では職務怠慢の責任は免れません。
奉行所の裁定は、兄の庄右衛門は江戸所払い(江戸から追放)、弟の清右衛門にも、相応の処分が与えられ、両家の永代水元役の職も解かれてしまいます。
私費を投じての大事業の成功は、当時の江戸町民の間でも、美談として大いに脚光を浴び、一時は英雄ともてはやされた玉川兄弟なのだけれど、末孫の代になって、慢心と贅沢の病に取りつかれ、職をおろそかにしてしまっていたわけです。
後の玉川家が水元役を罷免されたにせよ、初代の玉川兄弟の功績がゆらぐというものではありません。
東京羽村には、玉川兄弟の像が建てられ、また二人の菩提寺である台東区の聖徳寺にある兄弟の墓碑には、明治政府から追贈られた「従五位」の文字が刻まれています。
最後になりますが、上水のお話がでたついでに、日本の川について、すこし述べておきたいと思います。
日本では、ひとむかし前までは、相当大きな川から、小さな小川まで、上流から河口付近まで、どこも清く、美しい川でした。
東京の墨田川や神田川など、いまでこそまるでドブ川ですが、ここも戦前までは、夏は子供が泳げるくらいきれいな川だった。
これは、そもそも日本の川が、急峻な山岳に発する急流で、平野部でもかなりの速度で流れていることによります。
実際、一級河川となっている大きな川の河口付近でも、川の水が流れていることが、目で見てちゃんとわかる。
私たち日本人からすれば、このことは、ごくあたりまえのことにすぎないのだけれど、それがあたりまえの光景なのは、実は日本の特徴でもあります。
たとえば、お隣の韓国にある洛東江は、上流・下流の高低差が少ないため、川の水はまったく流れているようにみえません。
中国の揚子江も同様で、川というより、まるで湖です。
ヨーロッパでも、河川の水は、たいてい鏡のように動かない。
水は、淀めば汚れます。
ですから世界の川の多くは、黒や茶色に濁っている。
日本の川が、綺麗な水を流したのは、まさに山あり谷あり、河川ありという、日本の地形的な特質によっているものです。
そうした川は、実は世界的にみると、決して多くはない。
 
玉川兄弟の築いた玉川上水について、江戸に引き込んだ水は、地中の石樋に流すと、上で書きましたが、これも高低差の少ない玉川上水の水を、最後に地中に深く潜らせることで高低差を付けて、水の勢いを増す工夫とみることができます。
日本人は、流れる水をとっても大切にしてきた。
このことを、戦後の私たちは、もういちど考え直してみるべきときがきているように思います。
◆参照
国土交通省関東整備局「多摩川の名脇役」
◆関連記事
≪日本の水を守ろう≫
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