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保科正之
保科正之

以下は、5月2日の日心会メールマガジンに掲載したお話です。
この原稿は、おなじく日心会会員のUさんからいただいた原稿なのですが、まさに我が意を得たりとの感を持ちましたので、こちらにも掲載させていただきます。
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◆大災害と時代の変革 ◆
わが国の歴史の中では、地震・火災などの大災害が頻発しています。
古くは日本書紀に、飛鳥時代の684年、四国・東海の太平洋沿岸に大津波を伴った大地震が記述されています。
方丈記の鴨長明が生きた平安末期には、京都で4つの大きな災害が連続して発生しました。
治承元(1177)年の「太郎焼亡」、翌年の「次郎焼亡」という打ち続く火災、更に治承4(1180)年には、大竜巻が発生、翌年には「養和の大飢饉」が発生します。
更に文治元(1185)年には、「元歴の大地震」が襲いました。
平家一門が壇ノ浦で滅亡した年です。
平安京では、焼死者や餓死した人々が路上に放置されたままでした。
家屋や寺社も倒壊しました。
鴨長明は、それらの状況を方丈記に記述し、世の無常を訴えます。
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ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず。
よどに浮かぶうたかたは
かつ消え、かつ結びて
久しくとどまりたるためしなし
世の中にある人とすみかと
またかくのごとし。
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この無常感は、日本人の琴線に触れます。
長い歴史の中で、度重なる災害が、日本人に災害に対する諦観を植え付けたと言えるでしょう。
この度の大災害において、日本人の行動様式が、海外から評価されました。
方丈記にもそのような人々の行動が記されています。
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飢饉や病が横行する中で、
いたわしく思う人のために、
たまたま得た食物も譲って、
自分は先立っていった。
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このような今にもつながる日本人の精神が、庶民レベルでその後の復興を図っていったと思われます。
一方、時代はダイナミックに変動します。
平安の貴族社会は、この大災害を機に終わりを告げ、鎌倉の武家社会を迎えます。
封建時代への移行です。
大災害を機に、政治が時代を変えていった別の例が、江戸時代の「明暦の大火」です。
そこには英邁なる政治家がいました。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、江戸260年間に、江戸は度々大火に見舞われました。
それは江戸特有の気象条件が関係していました。
冬から春先にかけて、北方から空っ風が吹き続けるのです。
明暦3(1657)年1月、大火が発生します。
年末から正月にかけて、80日間以上、雨が降らず空気は乾燥していました。
1月18日、北西の風が吹きすさぶ中、火の手が上がり、三日三晩燃え続けます。
江戸は焼き尽くされました。
焼死者は10万人とも言われています。
江戸城も西の丸を残して消失しました。
天守閣も焼失しました。
市中の大名屋敷、旗本屋敷、町屋、神社仏閣など、市街地の60%が消失しました。
時の将軍は四代将軍家綱、家綱の補佐役として会津藩主の保科正之、幕閣として老中に「知恵伊豆」と言われた川越藩主の松平信綱がいました。
幕府は早速「災害対策本部」を設けます。
本部長が保科正之、副本部長が、松平信綱といったところでしようか。
保科正之は、二代将軍秀忠が側室に産ませた子です。
生まれて直ぐに、江戸城内にいることは許されず、秘密裏に信州高遠藩主保科正光に預けられ、正光の子として厳しく養育されます。
三代将軍家光は、長い間異母弟がいることを知りませんでしたが、自分を支えてくれる人物を求めていました。
ある時、高遠藩主になっていた正之の存在を知ります。
しかし素知らぬ顔をして観察を続けます。
そして思いました。
「徳川の天下を支えてくれる器量の持ち主ではないか。」
家光は、少しづつ、正之を江戸に呼び出し取り立て始めます。
正之は、家光の異母弟であることは知っていましたが、おくびにも出しません。
常に謙虚で奥ゆかしい態度で仕事をこなします。
家光は益々気に入ります。
そして高遠藩3万石から、上杉藩20万石、さらには会津藩23万石に取り立てます。
奥州の押さえとして期待されたのです。
会津藩主として、正之は、様々な藩政改革を行います。
「社倉」と呼ぶ備蓄米制度を設けました。
飢饉の時も会津藩から餓死者を出すことはありませんでした。
「会津藩家訓十五条」を定め、家臣に徹底しました。
今で言う経営理念の設定と徹底です。
幕末会津藩は、薩長軍に最後まで抵抗し、会津若松城の白虎隊の悲劇を生みます。
最後まで、恩義を受けた幕府に対して、義を尽くした。
その会津精神を生み出したのが、正之なのでした。
家光は臨終の間際に正之を枕元に呼び出し、四代将軍になるまだ幼い家綱の後見を託します。
話を大火に戻します。
市中が燃えさかる中、幕府の4つの米藏も燃えようとしていました。
正之はとっさに判断し布令を出します。
「誰でも火を防ぎ藏米を持ち出したならば、それを下さるべし。」
それを知った窮民たちは、たちまち火消しに早変わりし、米藏に殺到しました。
消失するかに見えた藏米は窮民達の救援米として大いに役立ち、火も自ずと消えて、一石二鳥の役割を果たしたのでした。
この大火の被害は誠に前代未聞でした。
まず幕府が講じた対策は、粥の炊き出しでした。
次に家を失った者達に救援金として16万両、旗本・御家人にも特別金を与えました。
これらはあまりにも巨額です。
幕閣達は反対しますが、正之は言います。
「官庫の貯蓄とはこのようなときに備えたものだ。使わなければなきに等しい。」
「奢侈を省き専心倹約をすべし。」
しかしこの話を聞いた商人達は、江戸では商売になると、諸国から江戸に米を搬送します。
そして市中の米の充足が図られていきます。
市中にはおびただしい焼死者が路上に積みおかれていました。
正之はその調査をさせ、遺体を集めて本所牛島の地で合葬します。
これが回向院として現在に残っています。
大火後にはにわかに米価が高騰しました。
需要に対して供給が激減したためです。
この市場原理を正之はよく承知していました。
正之は、米価の上限を決める一方、紀州藩等から献米を受けるなどして、米の流通量を増やします。
また粥の炊き出しも延長していきます。
江戸参勤中の諸大名にも帰国を促し、これから参勤してくる諸大名に予定の繰り延べをさせました。
米の需要を減らし、米価を安定させるためでした。
時間を経て、江戸城と江戸市街の復興が始まります。
そして焼け落ちた天守閣の再興が幕閣の議論になりました。
正之は判断を下します。
「天守閣はこの戦乱が過ぎた時代には不要である。その国財があれば、被災者の救済に当てるべきだ。」
すなわち、民生重視を打ち出したのでした。
その後、天守閣は再興されることはなく、現在、皇居の本丸跡には、台石が残っているだけです。
正之は江戸復興計画立案の中心に、川越大火と復興の経験を持つ松平綱吉を据えました。そして江戸の都市改造は進みます。
まず、都市改造の基礎資料として、江戸の実測地図を作ります。
それをもとにマスタープランを描きます。
大名屋敷、旗本屋敷、町屋、寺社仏閣を再配置します。
これらの都市構造は、現在の東京の基幹をなしているのです。
道路も拡幅します。火事から江戸市外に逃げられるよう、隅田川には橋が架けられます。
延焼防止施設として、火除け土手、広小路、火除け地などが設置されます。
建物は藁葺きは禁じられます。
消防体制として「定火消」が設置されます。
正之は、大火前には、江戸の水道として、玉川上水開削を決断しています。
玉川上水は延長40キロメートル、その後の江戸100万人の人口を支えました。
大火後には、将軍家綱の「三大美事」を断行します。
1つは「末期養子の禁の緩和」です。
大名が跡継ぎを決めないまままで急死すると、お家取りつぶしになり、浪人発生の元になっていたのを、押さえるためのものでした。
2つは「殉死の禁止」です。
殉死するのは有能な家臣、有能な家臣は活かすことこそ大事としたものです。
3つは「大名証人制度の廃止」です。
大名の正室や嫡男を、人質として江戸屋敷に住まわせるのは、武断政治の悪しき風習とし、廃止したのでした。
江戸幕府は、大火の前は、戦国の名残の「武断政治」が続いていました。
江戸は軍事都市でした。
しかし、大火を機として、武断政治から、民政や通商を中心とする文治政治へと、大転換を遂げたのです。
保科正之は、関ヶ原以来の時代の変化をきちんと捉え、大火を機に、統治の体制を変革していったのでした。
この変革の基盤があったからこそ、次の六代将軍綱吉の時代に、「元禄文化」の華が開きます。
今、東日本大震災においても、大災害を機に、平安時代は貴族社会から武家社会へ、江戸時代は武断政治から文治政治へと時代の変革が進んだように、今後何かが大きく変わっていくはずです。
あるいは為政者は、その流れを進めなければなりません。
その流れとは何でしょうか。
外国人参政権など地球市民社会や夫婦別姓など社会の構成単位を家族から個人にすることでしょうか。
戦後自虐史観から脱却し、わが国の歴史・文化・伝統の中から、日本人としての誇りを取り戻すことでしょうか。
(資料)中村彰彦「保科正之」(中公文庫)
「1657明暦の江戸大火」(内閣府中央防災会議)

http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1657-meireki-edoTAIKA/index.html

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