
綾小路キミマロといえば、中高年を題材にした漫談で大人気の人です。
ボクなどもキミマロ漫談は大好きで、CDまで買っちゃって、よく車の中で聞いて大笑いしたりしています。
そのキミマロ漫談に、キミマロがさんざん中高年をコキオロシておいて、
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わたくしは、悪口を言っているのではありません。
批判をしているだけです!
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とまじめくさって語り、これを聞いて会場が大爆笑の渦になる、というシーンがあります。
ところが実はこのフレーズは、戦後の日本における重大な齟齬を含んでいる、というのが今日のお題です。
「批判」というのは、英語の「Critical」の訳語です。
で、「Critical thinking」が「批判的思考」と訳される。
「Critical」は、批判とか評論とかに訳され、たとえば「a critical essay」といえば、評論のことだし、「a critical reader」といえば批評力のある読者となります。
けれど、英語圏における語感としては、たとえば
He's critical of what I say.
といえば、日本語に訳せば「奴は俺の言ってることに難くせをつけやがる」的な意味になる。
つまり、「critical」は、批判とか評論とかという意味を持つのと同じくらい、ナンクセとか悪口という語感のある言葉でもあるといえます。
つまり、単に「critical」といえば、悪口や難くせと受け取られても仕方がなく、逆にいえば「critical」が健全な批判であるためには、そこに論理的客観性が求められることになる。
ところが日本語では、批判と悪口雑言では、まるで意味合いが違います。
そして、最近の日本では、単なる悪口やわがままさえも、批判だといえば正当な主張であるかのように「みせかける」ことが常態化しつつある。
まあ、こう申し上げても、ピンと来ないかもしれないので、一例をあげます。
さあこれからみんなで田植えをするぞ、というときに、そのメンバーの中の誰か~仮にA君とします~が、田植えの仕事の進め方について、あーでもない、こーでもないと逐一難くせをつけたとします。
リーダーもみんなも、あーだこーだ言う前に、まず田植えをしちゃわなくちゃいけないから、ついに怒って、
「うるさいっ!文句を言うなら、田植えが終わってからにしろっ!」と言う。
これはあたりまえのことです。
まずは田植えは時期が決まっているし、田んぼの順番もある。
どんどん片づけてしまわなければ、今年の田植えの時期を逸してしまう。
ところが叱られたA君は、
「何を言うのですか! 私が言っているのは文句ではありません。批判をしているだけです。 自分はいい作物を作りたいのです。 それを文句を言うなというのは論理のすり替えであり、言論封殺です。 自分は自分の考えで動きます。 誰からも命令されるいわれはない。 そもそもこのメンバーの中の誰にも働けと命令する権利などないはずだ。 なにに『うるさいっ!』などと言うのは、高圧的かつ横暴です。許せません」などとやる。
このA君の言葉は、形を変えて、いまや日本国中、ありとあらゆるところに蔓延しています。
昔ならただの文句たれが、いまではあたかも正当な批判としてもてはやされる。
なんといっても批判家(評論家)は、それ自体が商売にさえなる。
ところで、A君の、いっけんもっともらしい主張は、実は「個人主義」が背景になっています。
集団よりも個人の主義主張が優先するという考え方です。
田植えは、みんなでやらなくちゃいけない。
共同作業である以上、個々にはそれぞれいろいろな意見や考え方、やり方、方法の違いはあるかもしれないけれど、とにもかくにもみんなでやる、と決めたのなら、まずはみんなでやる。
これは「個」よりも「みんな=集団」を優先する思考です。
「みんな」ということが優先する社会ならば、A君の主張は「まあ、言いたいことはわかった。とりあえず、先に田植えをしようぜ」で、A君も納得するし、とにもかくにも、みんなで行うことが先に来る。
ところが個人主義に基づく批判的思考が優先される社会となると、A君の主張こそが正論であり、正義であり、A君は「正しいこと」を言っているのだから、彼は優秀かつ有能な人材ということになる。
けれど、ここが大事なことなのだけれど、社会というのは、会社でも団体でも、すべて人と人とのつながりで動いているし、ひとりではできないことも、みんなで力を合わせれば、できる。
ひとりひとりには、それぞれいろいろな思いがあったとしても、まずは「みんな」でやることを優先する。それが世の中というものです。
実は、批判的思考を是とするという考え方は、戦後日本に蔓延した考え方です。
批判の要素は、客観的な情報把握とその分析力にあり、かつまた言葉の意味をしっかり吟味し伝えられる情報の伝達力を必要とする。
そして健全な批判は、客観性を持ち、正当なものとして是認されなければならない、とされる。
たしかに、学者さんなどが帰納法的に物事を客体化し、理論と証拠を積み上げて物事を検証し、理論体系としていくという行為は、これは正当なものといえます。
けれどもそれは、客観的かつ冷静な「検証」です。単なる「批判」ではない。
けれど「批判」=健全なもの、という風潮が戦後日本に蔓延することで、何を言っても、どんなに悪口を言っても、それがみんなの行いを邪魔立てするものであったとしても、個人が「批判」を口にすることは、権利であり、自由であり、正しい行為であるとまでしてしまったのは、戦後日本のきわめて特殊な事例であるといえると思います。
上の例のA君は、昔なら彼の言は、「屁理屈」とされ、それが郷中のような青年組織なら、組織の幹部や先輩から、田植えの邪魔をする者は許さん、問答無用とばかり、鉄拳制裁をくらった。
そりゃそうです。
みんなでひとつのことをしようというときに、それをみんなと一緒にできない者には、拳骨を食らわせるしかない。
そうやって鍛えられた日本人は、集団のために、みんなのために、ひいては世のため人のために尽くして生きるということを、自己のあたりまえの行動としていくことができた。
それが日本人の日本人たる特徴でもあった。
けれど、現代日本のように「みんな」より「個人」が優先するという思考のもとでは、みんなのために尽くすという行為は、批判者からの格好の標的となるだけです。
なぜなら、何かをすれば必ず何かが犠牲になる。
その犠牲をネタにして批判をすれば、行動する者にはいくらでも批判ができてしまうからです。
批判主義というのは、個人主義に基づく一種のイデオロギーです。
けれど、大切なことは批判ではない。
批判など、いくらやってもなんのタシにもならない。
個人よりも集団、批判よりも信頼が大切なのです。
批判するヒマがあったら、自分が世の中にいかに誠意を尽くすかを考えた方がいい。
いま、米国発で、世界的に素晴らしいと大絶賛されているもののひとつに、米国のゴヴィー博士の「7つの習慣」というものがあります。
そこで説かれていることは、自己の個性を発揮するということではなく、他人との信頼関係の構築が大事だ、ということです。
そして他人との信頼関係を築くことで、互いの持っている能力の相乗効果が発揮され、一人ではできないもっと大きな成功を得ることができると説く。
けれどこれって、日本に古くからある共存共栄の考え方です。
ここで申し上げているのは、たとえば菅内閣の批判をシテハイケナイとかそういうことではありません。
菅内閣の行状をきちんと検証し、問題があれば指摘する。
倒閣のために、必要な行動をとる。
それらの行動には、ボクも大賛成ですし、ボク自身もそのように行動しています。
要するに、批判が大事なのではなくて、みんなのために自分で何ができるかが大事だと申し上げています。
日本は、いま、行き詰まりの状況にあります。
困った時は原点に帰れ。
私たちは、戦後生まれ、それが普通と思っていたいろいろな思想や考え方、行動様式について、はたしてそれが本当に「良いこと」といえるのか。
もういちど、戦前の日本を学びながら考え、新たな日本の構築のために一歩を踏み出すべき時にきていると思います。
すくなくとも、批判ばかりしていても、何も前にすすまない。
困った時は、伝統に学び、明日を創造する。
伝統と創造、それが保守であると思っています。
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