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井上成美
井上成美

几帳面で謹厳実直、まじめ一筋。けれど全力で生きてきた。
誰よりも努力した。
勉強もした。
世界の情勢に通じ、時代を確実に見通す眼も持った。
だからこそ、長いものに巻かれない生一本を貫いた。
遊ぶこともしなかった。
ただ音楽が好きで、たまにギターを弾いた。
開戦には、断固反対した。
けれど、国家は開戦への道を進み、そして終戦。
多くの部下も失った。
だからこそ戦後は人前に出ず、贅沢とはほど遠い、極貧生活を送った。
毎年8月15日には、一日中、緑茶以外は摂らずに絶食して、軍帽を被って一日端座して遠い海を眺め、戦死した仲間たちの冥福を祈った。
そんな「最後の海軍提督」のお話をしてみようと思います。


その人は、井上成美(いのうえしげよし)です。
彼は、大東亜戦争終戦時、海軍大将でした。
井上成美は、明治22(1889)年、宮城県仙台市で生まれています。
そうです。いま、東日本大震災の被災地となっているところです。
その仙台の、仙台二中(現:宮城県立仙台第二高等学校)を優秀な成績で卒業し、江田島の海軍兵学校に学んでいます。
海軍兵学校の入学時の成績は、180名中8番といいますから、優秀です。
そして卒業時の成績は、2番です。
トップ集団の中で、さらに成績順位が上がったということは、井上が並はずれた努力家であったということです。
兵学校を卒業した井上は、練習艦「宗谷」乗り組みます。
このときのメンバーが豪勢です。
艦長が、後に終戦時の内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎です。
第一分隊長が山本五十六、指導官が後の連合艦隊司令長官でフィリピンで殉職した古賀峯一だった。
大正4(1915)年に、新造艦であった戦艦「扶桑」に分隊長として乗り込んだ井上は、翌大正5年に、海軍大学に進学します。
その後、イタリア駐在武官(昭和2)、海軍大学教官(昭和5)などを勤め、昭和7年には、海軍省の軍務局第一課長に就任します。
その頃のエピソードがあります。
ちょうどこのころ、海軍軍令部では「軍令部令及び省部互渉規定改正案」を作ろうとしていた。
詳しい内容は省きますが、第一課長の井上が、この案に真っ向から反対しているというので、海軍大学で一期上の南雲忠一(後の海軍大将)が、井上のもとに説得にやってきます。
そして大激論となった。
論戦の果てに、南雲は激昂します。
そして、「お前のような奴は殺してやる!」とにすごんだ。
このとき井上は、あらかじめ用意していた遺書を南雲に見せ、
「やるならやれ。死んでも俺の意志は変わらん!」と応じています。
たとえ尊敬する先輩からの説得であっても、イケナイものはイケナイ。
それは、先輩後輩という「私」よりも、職務という「公」を優先するということです。
だからこそ、争うべき時には、命がけで争う。
日本人は、ウエットな民族だとよくいわれます。
極端な論争は好まない。
けれど、「公」を背負ったとき、争うべきときは断固争う。
同時に、どんなに争っても、根底には相手に対する礼と尊敬の念が必ずある。
それが日本人です。
昭和8(1933)年11月、井上は練習戦艦「比叡」の艦長に就任します。
このとき井上は、部下に次のような訓示をしています。
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軍人が平素でも刀剣を帯びるのを許されており、吾々またその服装を誇りにしておるのは、一朝事ある時、その武器で敵を斬り、国を守るという極めて国家的な職分を果たすからである。
国家の命令があって初めて軍人は武器を使用できる。
手元に武器があるからと言って自分勝手に人を殺せば、どんな思想信条であろうとただの人殺しである。
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昭和11(1936)年、井上は、正月に催された横須賀陸海軍の親睦会に出席します。
このとき、一緒に呑んでいた憲兵隊長林少佐が、井上に「貴公、貴公」と話しかけた。
これのとき、井上が激昂した、というお話がいまに伝わっています。
井上は、
「君は少佐ではないか。私は少将である。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは無礼である。海軍では、軍艦で士官が酒に酔って後甲板でくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をする。これが軍隊の正しい姿である。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん!」
直後に別の部屋でお茶漬けを食べていたところ、芸者からその憲兵隊長と付き添いの荒木貞亮・柴山昌生両少将がケンカをしている報告を聞いた井上は、
「どっちが勝っているか」と質問し、
「憲兵隊長が袋叩きにされています」と聞くと、「それならほっとけ」とだけ言ったそうです。
翌日憲兵隊長が謝罪に訪れた。
このとき井上は、
「あとで謝るなら最初からするな!」と強く戒めた。
少佐が上席者である少将に対して貴公と呼ぶのは怪しからんというのは、権威主義者だ、などといってはいけません。
酒に酔っても、最低限の礼節を守る。
それが軍人です。
身に刀剣を帯びる軍人が、酔ったからといって節度を忘れるようでは、危険極まりない。
そういう意味で自己に対するどこまでも厳しさを忘れない。
それでこそ武士であり、帝国軍人です。
林少佐も偉い。
彼は、そのことにあとで気が付いた。
だからこそ謝罪に行っています。
井上は、最初からすなっ!と言ったけれど、その段階で心の中で林少佐を許している。
それが男と男の信頼関係になっていく。
そういう、相手の良心を忖度して互いに人間として成長していこうという姿勢が、両当事者にあったからこそ、こうしたエピソードが活きてくる。
そんなふうに思います。
昭和10年、井上が横須賀鎮守府の参謀長だった頃のことです。
ある艦艇の艦長が、乗員に上陸禁止令を出した。
ところが自分は上陸して水交社で飯を食っていたのだそうです。
食堂に、参謀長の井上が現れます。
彼は艦長に向かってこう言った。
「貴艦には上陸禁止令が出ていたはずだが?」
当然艦長は、それを認めます。
すると、「それは艦長命令で出したのか?」
艦長「はい、艦長命令で出しました」
すると井上の眼がみるみるうちに吊りあがり、
「自分が出した命令を自分で破ってどうする。すぐに戻れ!」と激怒した。
艦長は、まるくなってあわてて自艦に戻ります。
すると艦長室の前には、大量の糞尿が置かれていたのだとか。
これは乗組員たちの、ささやかな抵抗です。
上に立つ者こそ、規律を守らなければならない。
でなければ、組織は成り立たない。
共産主義の人治主義のもとでは、上に立つ者にはありとあらゆる自由が保証され、下の者は、銃を突きつけられて無理やり言うことをきかせられる。
これでは、人として、組織として、人は育たない。
学校で、先生が生徒に規律を守れ!というなら、まずは先生が率先して規律を守らなきゃならない。
会社で上司が部下に規律を守れ!というなら、まずは上司が率先して手本を示さなければならない。
それは上杉鷹山の師匠だった細井平洲の生涯の教えでもあります。
昭和12(1937)年、日本は、日独伊三国同盟を締結します。
これに対し、当時軍務局長だった井上は、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、永野修身軍令部総長らとともに、猛烈と反対しました。
昭和12年とえいば、日華事変の最中です。
そして日華事変を背後で操っているのは、米英です。
けれど、だからといって、この時代にドイツと手を結ぶということは、米国と頭から対峙する、ということになる。
それは、戦争を意味することです。
だから井上は、猛然と、この同盟に反対した。
当時の新聞などの論調は「日独伊三国同盟は集団防衛であり、我が国の国益に適う」というものです。
けれど井上は、
「集団防衛というけれど、日本にドイツからどれだけの援助があるのか。またできるのか。
強い国と仲良くしていかなけりゃならんのに、アメリカとも仲が悪くなるし、イギリスとも悪くなる。
一方で、ドイツからは何等の恩恵もこうむらない。
日本にとって何のメリットもなく、得するのはドイツだけです」と述べています。
いまの時代に振り返ってみれば、井上の先見性の方があたっているのは、誰にでもわかることです。
けれど当時、三国同盟に反対する井上のもとには、「斬奸状」「宣言」などの奉書が送りつけられ、まさに国賊扱いされた。
いまならさしづめ、マスコミから総攻撃を受け、ネットで悪口やら誹謗中傷やらをめいっぱい受けるようなものです。
それでも井上は、断固として自説を曲げなかった。
三国同盟に反対する米内、山本、井上は、「海軍左派の三羽烏」とまで揶揄されています。
称された。容認され、一方で力の暴力は、たとえ袖が触れ合う程度ですら悪とされるという風潮は、いかがなものかと思います。
昭和15(1940)年、China方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長となっていた井上に、事件が起こります。
上海の共同租界で私服の日本人憲兵が、中国人の強盗に襲われ、殺害された。
陸軍はこれを口実に国際法規を無視して、一個大隊を租界に進入させようとします。
これに対し井上は、
「強引に租界に入ろうとする者は、たとえ日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」という厳命を発する。
上海海軍特別陸戦隊は、陸軍の行進と対峙し、押し問答の末、陸軍が引き下がっています。
結果からみれば、ボクはこのとき、むしろ上海租界内に陸軍が入り込み、Chinaの便衣兵を徹底的に叩くべきであったと思っています。
外国人一人を殺害したら、Chinese1万人が報復攻撃される、くらいの行為があって、はじめてChina社会では「侮れない相手国」と看做されるというのが、悲しい現実です。
Chinaに駐屯していた欧米白人諸国は、ぜんぶそうやって自国民の安全を図ってきた。
おかげで、いまだにChinese社会では、現実に植民地支配をしていた欧米に対しては、なんら苦情の申し立てをしていません。
けれど、規則を守る、規則によって動くのが「軍」です。
「軍」は軍の都合で動くものではなく、国家の方針のもとに動く。それが本来の姿です。
ちなみにいまの日本のように、反日政府が誕生し、国軍たる自衛隊を粗略にするような国家にまで、この考え方が適用されるべきか否かは、議論のあるところだとも思っています。
昭和16(1941)年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃の日の出来事です。
この日、井上はカロリン諸島のトラック島で第四艦隊旗艦「鹿島」艦上にいました。
そして艦の無線で、「トラトラトラ」を傍受した。
通信参謀だった飯田秀雄中佐が井上に、「おめでとうございます」と言って電報を届けたのだけれど、そのとき井上は、
「何がめでたいだバカヤロー!」と物凄い剣幕で怒鳴ったといいます。
飯田中佐は、そのときは何故自分が怒鳴られたのかわからなかったけれど、本土に帰還し、焼け野原となった東京を見たときはじめて、井上の「バカヤロー」の意味を理解したといいます。
戦争が終わった時、戦前の海軍省は、第二復員省という名称になって、外地からの兵士の復員を専門に扱う省庁となっていました。
この復員省に、ある日、井上が自宅があった三浦半島の名物のミカンを大量に手土産に持ってやってきたそうです。
そして、
「田舎にはこんなものしかありませんが、みんなで食べてください」と、旧部下に心づかいを見せたという。
この当時は、食べ物もなかなか入手できない困窮の時代です。
その時代に、ミカンは非常に貴重な果物だった。
それを井上は、自身も後日、貧困のため栄養失調と胃潰瘍で入院を余儀なくされるほどの生活を送っていながら、貴重なミカンを机に山が出来るくらい、たくさん持参しています。
当時復員局員だった中山定義は、「元の大将中将で、復員局を訪れてかつての部下を労ってくれたのはそれまで一人もいなかった」と述べています。
そして井上は、昭和50(1975)年に86歳でお亡くなりになるまで、横須賀で隠棲して暮らします。
近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたけれど、謝礼を受け取らず、無収入で生活は困窮を極めた。
軍人恩給の給付が一時凍結されていた際、井上家の経済的な窮状を察した関係者が旧海軍省次官の経歴で文官恩給の給付を受けられるよう取り計ろうとしたけれど、これも「自分は軍人である」と拒否しています。
さらに、海上自衛隊が発足した当時、海自の練習艦隊壮行会で、嶋田繁太郎が出席して乾杯の音頭をとったと聞いたとき、
「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と周囲が青ざめるほどに激怒したといいます。
島田繁太郎という人は、大東亜戦争開戦時の海軍大臣だった人です。
要するに井上は、自分が軍人として、将官の立場にありながら、多くの部下や民間人を犠牲にした。
そのことと真正面から向き合って残りの人生を過ごしたのです。
そして冒頭に記したように、毎年8月15日には一日絶食し、端座して遠い海を眺めることを常とした。
会社が倒産したとき、その会社の幹部が、多くの社員を犠牲にしたことを恥じ、隠棲生活をした、という話は、あまり聞きません。
井上は、開戦当時、第四艦隊司令長官であったけれど、それは大東亜戦争そのものの開戦責任を負うような立場ではありません。
けれど、彼は、多くの若者を犠牲にしたことと、生涯真正面から向き合って過ごした。
それは、とても辛いことです。
けれど、それをやりとおしたのが、井上成美という人物だった。
そういう人物が、この日本に、いたということを、私たちは忘れてはならないのだと思います。
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