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昨日、東北地方を中心に、M8.8の巨大地震が襲いました。
罹災された皆様には衷心よりお見舞い申し上げます。

目賀田種太郎(めがたたねたろう)という人がいます。
嘉永6(1853)年、駿河藩士の家に生まれた人です。
幼い頃から漢学を学び、英語、数学を修め、旧幕臣でありながら明治3(1870)には17歳で米国留学生に選ばれます。
渡米して入学した先が、なんとハーバード法律学校、いまのハーバード大学です。
全米きっての難関校に見事合格したのみならず、これを優秀な成績で卒業。
卒業後、いったん帰国しますが、明治8(1875)年には、こんどは留学生監督を命ぜられて、開成学校(現:東大)の生徒12人を連れて、再渡米しています。
5年後、帰国した目賀田は、同志らによびかけて、日本最初の私立経済法律学校として専修大学を創立しています。
実はこの時代、我が国で法学を教える大学は、2つしかなかったのです。
ひとつが、東大法学部、もうひとつが司法省の直轄の法学校です。
そして東大では英語で、法学校ではフランス語で法学を教えていたのだけれど、専修大学では、日本ではじめて日本語で法学を教えた。
さらに目賀田は、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設しています。
ちなみに「Shall we ダンス?」で一躍有名になった社交ダンスは、これを日本にはじめて伝えたのが、目賀田種太郎です。
明治13(1880)年には、東京代言人組合(現東京弁護士会)の会長を勤め、翌年3月には裁判官に就任。
その2年後の明治16(1883)年には、大蔵省に入省し、明治27(1894)年には、大蔵省主税局長となって、日本の税制や財政制度の基礎つくりをします。
最近はタバコといえば、民営化された日本たばこ産業株式会社ですが、その前身である日本専売公社は、目賀田が明治29(1896)年に創設したものです。
これは、明治27(1896)年から明治28(1895)年にかけて日清戦争があり、日本は、翌年には戦後の財政難に見舞われたのです。
そこで目賀田は、財政再建のためにタバコ産業の国営化と専売化を図っています。
これが明治29(1895)年のことで、日本専売公社は、その後昭和60(1985)年に日本たばこ産業株式会社として民営化されるまで、なんと90年間も存続しています。
さらに明治37(1904)年には貴族院議員に当選。
その後は、国際連盟大使、枢密顧問官を歴任し、大正15(1926)年、73歳で逝去なさいました。
ちなみに目賀田種太郎の奥さんである目賀田逸子さんは、勝海舟の三女です。
要するに目賀田種太郎は、旧幕臣でありながら、明治新政府にその優秀な頭脳を非常に買われ、専修大学、東京芸大を創立しただけでなく、裁判官、弁護士会会長職を歴任し、さらに大蔵省幹部として日本専売公社を設立し、貴族院議員となり、国連大使となり、また晩年は枢密院の顧問官を勤めた。
つまり目賀田種太郎は、明治時代に八面六臂の大活躍をした超大物中の大物であり、日本の法曹界にとっても、日本の音大や芸術大にとっても、社交ダンス会にとっても、まさに大恩ある偉人中の偉人ともいえる人です。かつ、爵位は、旧幕臣でありながら、男爵になっている。
ところがその目賀田種太郎は、なぜか歴史からまったく消えています。
いまでは知る人の方がすくないくらいです。
どういうことかというと、実は、目賀田種太郎は、明治37(1904)年に貴族院議員に当選した年に、韓国の財政顧問に就任しているのです。
明治37年というと、まさに日露戦争の真っただ中です。
この年、日本と李氏朝鮮との間で、第一次日韓協約が締結され、韓国の財政再建のために日本から人を派遣することになったのです。
そして、その道のプロである我が国きっての俊才、目賀田種太郎が日本から派遣された。
当時の朝鮮半島の状況を視察した目賀田は、まさに驚天動地でぶったまげます。
なにより民衆が、あきれるほどに貧しい。
民家のほとんどが平屋・わらぶきであり、梁(はり)の水平がとれている家自体がない。
家というのは、柱と梁が垂直になっているから四角く立体的構造になるのです。
梁(はり)がまがっていては、いつ倒壊するかもしれず、なによりまず危ない。
目賀田は、日本から大工さんを招き、まずはちゃんと柱と梁が垂直になる家の見本をこしらえたりしています。
ではなにゆえ朝鮮半島の一般民衆がそこまで貧しかったかというと、支配層である両班(ヤンパン)が、被支配層である常民(サンミン)を収奪し、土地を奪い、苛斂誅求(かれんちょうきゅう)を加えていたのです。
シャルル・ダレの「朝鮮事情」には次のように書いてある。
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両班(やんぱん)は、世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。
彼らが強奪に近い形で農民や田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ませてしまう。
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支払いなしで土地や農作物を買い取るってどういうことかというと、土地や食い物を出せと要求し、出さなければ出すまで鞭で打ちつづけた。

あるいは手足を縛りつけて、五体の骨を一本一本、折っていくなどということが平然と行われていたのです。
参考記事≪李氏朝鮮の時代≫
李氏朝鮮の時代 - ぜんこうのひとりごと
←はじめにクリックをお願いします。(想像上の朝鮮王朝)韓流ドラマで人気なものに「宮廷女官チャングムの誓い」というドラマがあります。16世紀初頭の李氏朝鮮王朝時代を…
とにかく両班(やんぱん)は、自分たちがカネや食い物、あるいは女がいなくなると、常民(サンミン)である商人や農民を捕えて、それらを要求し、要求に応えなければ拷問した。
これではいつまでたっても一般民衆は貧しいままです。
日露戦争は、明治38(1905)年に終わり、ロシアとの講和条約であるポーツマス条約が、この年の9月に締結されました。
ポーツマス条約によって日本は李氏朝鮮に対する保護権を持つことになり、この年、日本は李氏朝鮮との間で、日韓交渉条約を締結する。
この条約を、第二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく)といいます。
この条約により、朝鮮半島は事実上日本の保護国となり、日本はソウルに、韓国統監府(かんこくとうかんふ)を設置した。
そして初代統監には、日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文を就任させます。
いかに日本が韓国の民衆の生活改善に本腰を入れようとしたか、この一事をとってもわかろうというものです。
そして、明治43(1910)年、日韓併合が行われると、日本は、法務、財政のプロである目賀田種太郎を筆頭に、朝鮮半島内で公正な税制の基礎を固めるため、土地調査事業を開始します。
この土地調査事業というのは、国家が近代化を成すにあたって、避けて通れないものです。
土地の所有関係を明確にする目的を持ったものです。
このとき、朝鮮総督府は、土地の所有権については、第一に自己申告によるとしています。
そもそも土地を持っていたのは、両班(やんぱん)です。
ですからあたりまえのことだけれど、多くの土地は両班(やんぱん)のものとなった。
ところが、地方の農村部等の土地は、実際に耕作されているけれど、持ち主不明で、ただ両班(やんぱん)が時折来ては、農作物を勝手に持って行ってしまう、というところが多かった。
つまり、誰の土地化さえ、わからない。
そこでこうした持ち主不明の多くの土地(隠し田)は、朝鮮総督府によって没収し、その地を耕作している小作人に、ほとんどタダ同然で売却しています。
これによって、多くの常民(さんみん)が、地主となり、晴れて自分の土地で自分の家族のための作物を育て収穫することが公然と行えるようになったのです。
ちなみにこの件について、日本が農民たちから土地を奪い、日本人に払い下げたなどといい加減なことを言っている人もいるようですが、そのような事実はまったくありません。
そもそも日本人が土地の開拓のために半島に渡ったのは、この土地調査事業の後のことであり、しかも日本人が開墾したのは、もともと田畑だったところではなく、荒れ地を農地に開墾しています。
こうして目賀田種太郎は、朝鮮半島の民衆が安心して生活できるようにするための公正な税制の構築に精を出し、大正9(1920)年には、日本の代表として国際連盟の大使に選任されて半島を出ています。
ちなみに、こうして農地が確保され、安心して食えるようになった朝鮮半島の人々は、日韓併合当時、半島全体でわずか1500万人しかいなかった人口が、40年後には2300万人と、倍近く伸びている。
日本は、朝鮮半島の民衆のために、資金だけでなく、当時の日本を代表する俊才を半島に送り込み、抜本的な国家の再建を図ってきたのです。
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