
左翼の人たちは、日本では女性は蔑視されているとか差別されている、あるいは女性の地位が低いなどというけれど、本当にそうなのでしょうか。
井口阿くり(いのくちあくり)という女性がいます。
秋田県出身の女性で、東京女子師範学校を卒業し、日本にスエーデン式体操を普及させ、さらに皇女二人の体操教育を担当された方です。
国費で米国に留学し、ヨーロッパへも視察に出ている。
日本女子体育の母と呼ばれている女性です。
このブログで紹介した大山捨松、津田梅子、杉本鉞子、松本英子、石井筆子、黒沢登幾など、すぐれた才能があれば、男女を問わずその才能を開花させ、社会に役立つ立派な存在として活躍の場が与えられるのは、古今を問わず日本社会の美風です。
そこで今日は、井口阿くりのご紹介をしてみようと思います。
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井口阿くりは、明治3(1870)年、秋田県秋田市南通亀ノ町の生まれです。
このあたりは江戸時代は久保田藩と呼ばれ、代々佐竹氏が藩主を勤めていた藩です。
ちなみに佐竹氏は、室町時代以来の常陸守護の家柄で、清和源氏を祖とし、甲斐の武田家と同族にあたります。
もともとは茨城県常陸太田市にあったのですが、関ヶ原の戦いで中立としたために秋田に国替えになった。
江戸時代は文教事業に熱心に取り組み、幕末には尊王攘夷派が形成されています。
戊辰戦争では、東北諸藩が幕軍側につく中で、官軍側として錦の御旗を守って戦っています。
せっかくなのでもう少し申し上げると、江戸時代には「久保田藩」であったものがなぜ「秋田県」になったかというと、もともとこのあたりの地方の古来よりの呼称が「秋田」で、「久保田」は300年来の呼称とはいえ、一小村の俗称に過ぎないということで、佐竹藩側から明治4(1871)年に、明治政府に藩名変更の願書を提出しています。
あえて藩名を久保田から秋田に改めた背景としては、戊辰戦争で幕軍に付いた鹿角郡や岩城町などが県内に統合されたことから、昨日の敵味方が力を合わせて、これからは古くからの由緒ある秋田を守って行こう、との意図が込められたといわれています。
さて、話が脱線しましたが、その久保田藩で勤王派の傑士として活躍したのが、井口糺(いぐちただす)で、その子として生まれたのが、本日ご紹介する井口阿くりです。
阿くりは、8歳から児玉女学院に通い、11歳で秋田女子師範学校に入学しています。
12歳のとき、明治天皇が秋田に巡幸されます。
このとき阿くりは、陛下の前で手芸をおめにかけています。
このとき姉も御前講義をしています。
姉妹そろって優秀だったようです。
秋田女子師範学校を卒業した阿くりは、15歳で、母校・児玉女学院の教師になります。
当時は、こういうことがよくあったのです。
優秀な生徒は、飛び級があったし、未成年でも教師になることがある。
こうした教育制度は、いまでもヨーロッパやアメリカなどではあたりまえに行われていることです。
学校を「教育をするという目的をもったところ」と考えれば、むしろ飛び切り優秀な生徒が、ボクなどのようなボンクラ生徒と、単に「生まれた年が同じ」というだけの理由で、無理やり同じ教室にいることのほうが異常なことです。
学校は親が仕事をしている間、子を預ける保育園ではないのです。
さて、教師となった阿くりですが、明治18(1885)年、教育制度が変わると、阿くりはさらに高い教育を目指して、秋田師範学校女子教員養成部高等師範科に入学します。
15歳で先生になり、17歳で生徒になったわけです。
明治21(1888)年に、同校を卒業した阿くりは、同級生の茂木チヱと共に秋田県知事から特撰生として高等師範学校女子部に無試験で入学を許されます。
この茂木チヱという女性が、またとびきり優秀な女性で、常に井口阿くりと学年順位で1・2を争い、卒業時には茂木チヱが首席をとったといわれています。
明治25(1892)年高等師範学校を卒業した二人は、阿くりが女子高等師範学校附属小学校訓導、茂木チヱが秋田県尋常師範学校助教諭兼訓導に就職しています。
明治30(1897)年、教師をしていた阿くりのもとに、井上馨侯爵が訪れます。
山口県で開校される私立毛利高等女学校(現・山口県立山口中央高等学校)に、教頭として奉職してほしいというのです。
なにせ侯爵からの直接の依頼です。
阿くりは、いちもにもなくこれを承諾する。
毛利高等女学校は、開校当時、阿くりより年長の男性教職員が十数名、生徒数が30余名、全寮制の女学校です。
そこで阿くりは、教職員の監督と教師、さらに寄宿舎の舎監として生徒の生活全般にも責任を負います。
この毛利高等女学校の初代校長は、東京帝国大学を卒業後、山口県参事官を務めていた上山満之進(うえやまみつのしん)です。
彼はその後、農商務省山林局長、熊本県知事経て、第二次大隈内閣の農商務次官となり、第11代台湾総督に就任し、昭和金融恐慌下の台湾銀行問題の収拾に奔走した方です。これまたすごい人物です。
一方、阿くりがそれまで教員を勤めていた秋田県尋常師範学校では、この年、高嶺秀夫を学校長に迎えています。
高嶺秀夫という人は、会津藩主松平容保の小姓だった人で、容保とともに会津若松城で戦い、その後慶應大学に学び、次いで文部省からの依頼で、師範学科の調査のために渡米した経験を持つ人物です。
高嶺は、米国に留学中に女子体育に高い関心を持ち、これを日本で実現できる人物を探していた。
その高嶺が目を付けたのが井口阿くりで、彼は、山口で教鞭を執っている阿くりを、ぜひ日本女子の体育教育実現のために、米国に留学させたいと文部省に働きかけます。
そうして明治32(1899)年5月、阿くりは、文部省より教育学研究のために3年間の米国留学を命じられます。
この年の9月に、マサチューセッツ州のスミス大学に入学した阿くりは、そこで生理学と体育学を専攻する。
まだアジア人が黄色い猿と呼ばれた時代です。
けれど、阿くりがよほど優秀だったのでしょう。
翌年9月には、スミス大学の体育部長センダ・ベレンソン教授の勧めで、ボストン体操師範学校に転校します。
センダ・ベレンソン教授というのは、スエーデン王立中央体操学校に学んだ最初の米国人女性です。
そのベレンソン教授が、米国でスエーデン体操の教育を最初に行った人である、ボストン体操師範学校のエイミー・モーリス・ホーマンズ校長に阿くりを推薦してくれたのです。
これにより、井口阿くりは、全米で最も高いレベルで女子体操、医術体操、運動理論、解剖学、生物学、競争運動術、体育実地法、心理学、教育学を学ぶことができた。
ちなみに、いま流行のエステティック・ダンスや、バスケット・ボールは、このときの教育から、井口阿くりが日本に持ち帰り、普及したものです。
最近ではバスケット・ボールは、マンガ「スラムダンク」の影響で、大流行だけれど、もともと日本では、女子スポーツとして最初普及したものだというのは、実におもしろいことだと思います。
さて阿くりは、ボストン師範大学でスウェーデン体操だけでなく、ドイツ体操やフランス体操、イギリス体操からも各種長所を取り込み、独自の科学的な根拠に基づく体育理論を構築し、明治35(1902)年、同大学を、なんと首席で卒業します。
卒業した阿くりは、同年9月から11月まで、米国東部の主要都市を巡廻し、ヨーロッパを経由して明治36(1903)年、日本に帰国した。
これだけの成果をあげて帰ってきた阿くりです。
故郷に帰った阿くりを、秋田県尋常師範学校校長の高嶺秀夫がすぐに同校に採用する。
採用しただけでなく、高嶺校長は、同校内に「国語体育専修科」を新設し、そこの責任者に阿くりを据えてしまう。
その阿くりは、秋田にいながら、なんと帝国教育会に強い影響力を発し、全国の女子体育教育の基礎を作り上げてしまう。
井口阿くりが、明治36(1903)年に「教育広報」に掲載した講演内容をみると、
「教育の真の目的は精神・身体両方の発達」にあり、
「体操には身体修練のみならず他の教科には持ち得ない精神教育上の価値」があり、
「体育は、忍耐・勤勉・快活という心を養成」し、
「特に日本の女子は従順・貞節という点では比類ないが、快活・決断力に乏しいため体操遊戯によって修養すべき」であって、
「女子を特別扱い」せず、
「女教師の奮起によって女生徒を教育し、日本の立派な国民をつくること」と記されています。
また、明治39(1906)年には、阿くりは女子学生に対し上衣をセーラー式、下衣を膝下までのブルマースとする体操服を推奨しています。
形はかわったけれど、いまでも男子児童の体操服と違い、女子児童には黒または濃紺等のパンツが着用されているのは、明治の女性、井口阿くりの影響が現代になお、とどまっていることによる。
スウェーデン体操に励む、
東京女子高等師範学校の学生たち

さて、こうしていちやく時の人となった阿くりですが、どこの社会でも、いつの時代でも、男女の差なく起こるのが、目立つ人への誹謗中傷です。
とになくあることないこと、本来ならぜんぜんつながらない事実と事実をつなぎ合わせて、まったく別な悪意ある印象操作を行おうとする。
この年、日露戦争で兄を失い、悲しみに沈む阿くりに、こうした誹謗中傷をするヤカラというのは、情け容赦なく、阿くりに対する誹謗中傷をしつこくくりひろげます。
けれど阿くりにしてみれば、自ら決めた女子体操の普及です。
彼女は、そうした中傷を一切無視して、普及活動にまい進する。
ところが、です。
明治42(1909)年になって、永井道明と言う人が女子高等師範学校の教授に就任した。
この永井という人物は、スエーデンで、本場スエーデン体操を学んだ男です。
いわば「本場仕込み」です。
これに対して阿くりは、米国で、スエーデン体操を学んだ人です。
いわば本格対亜流の戦いみたいになって、阿くりの立場は急速に悪化する。
やむなく阿くりは、明治44(1911)年に高等師範学校を自主退職します。
ちなみに永井は、後輩の女性である二階堂トクヨを弟子としてかわいがります。
翌年には彼女を海外渡航までさせた。
女子体操の普及には、女子教師の存在が不可欠です。
永井は、阿くりに負けない女体操教師を誕生させようとしたのでしょう。
ところが阿くりを亜流と説いた永井は、やはり本場の体操を学んで帰国した二階堂トクヨからみたら、なんのことはない、まさに亜流そのものでしかなかった。
謙虚に真剣に学んだ阿くりの方が、はるかに本物だった。
結局、二階堂トクヨと永井は確執を起こし、永井は以後の日本体操教育界に何の貢献もなく終わってしまった。
およそ人の悪口というものは、言っている本人自身のことであることが多い。
なぜなら人は自分の料簡の範囲でしか、他人をみることができないからです。
永井は、阿くりを亜流だと言った。
けれど、言っている永井自身が誰よりも自分が亜流でしかないことをわかっていた。本物なら批判の必要などない。我が道を進めばよいのです。
阿りくは、高等師範学校を退職し、9歳年下の藤田積造と結婚します。
そして、サンフランシスコ、台湾、日本、ロンドンと生活の拠点を変え、大正14(1925)年4月、関東大震災後に、55歳で東京高等実習女学校(現・青蘭学院)の再建のために、校長に招かれます。
そして昭和6(1931)年、61歳で学校からの帰宅途中に脳溢血で逝去する。
死のその瞬間まで、阿くりは、生涯を教育に捧げたのです。
男性であると女性であるとを問わず、才能次第でどこまでも強くたくましく生きることができた時代、そんな時代を、教育に命を捧げて奮闘した女性がいた。
その井口阿くりのおかげで、いま私たちはバスケットボールや、女子児童の体操服などを得ています。
体操服で汗を流す女子児童がいたら、その体育の服装は、井口阿くりが日本での女子児童への体育の普及を図ろうと考案したものが、いまに伝わっている。
そんなことを思ってみるのもいいかもしれません。
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