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堀喜身子婦長は、ソ連に抑留されている夫正次氏の故郷である山口県徳山市に向かいます。
戦前の社会では、いまでもそうした風潮は残っているけれど、いったん嫁に入ったら、夫の家の家族です。
自分の生家に帰ろうとは思わない。
戦前は、それがあたりまえだった。
ところが親子して夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)が「引揚者は家には入れられない」という。
敷居の中にさえ、入れてくれなかった。
当時、いろいろな噂話があったのです。
引揚者の女性は、穢れているとか、です。
堀喜身子さんは、その意味では看護婦であって引揚げに際して不埒な真似に遭うことはなかった。
けれど世間体がある、何があったかなんてわかりゃあしないと、姑は納得しない。
はるばる徳山まで来て、自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれた堀元婦長は、二人の子供の手をひいて堀家の菩提寺を訪ねます。
ご住職に事情を話すと、わかりましたと言って、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を、菩提寺の墓所で預かっていただけた。
親子は、ようやく肩の荷を少しだけ卸します。
翌日、親子は、やむなく婦長の母親の住む北海道の帯広に向かいました。
帯広では、幸い看護婦として市内の病院に就職することができたのですが、終戦直後というのは未曽有の食糧難の時代です。
勤務の制約などもあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても、末っ子の槇子を抱えることができません。
涙ながらに因果を含めて、大事な娘を親戚の家に預かってもらった。
そうした苦しい生活を送りながらも、堀元婦長の脳裏を片時も離れないもの、それが命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨です。
年長者26歳、年少者はまだ21歳の女性たちだった。
年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきます。
すると彼女たちが堀婦長のまわりにやってきたのです。
そしてこう言った。
「婦長さん、紫の数珠をくださいな」
紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとに端を発します。
その日、張春の第八病院に、モンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。
妊婦です。
難産でした。
助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
すでに重体です。
もはや妊婦の生命は難しい状態です。
あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態だった。
その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
けれど出産で、妊婦は瀕死の状態となった。
そこから二日三晩にわたって、婦長と看護婦たちが、みんなで献身的な看護をします。
それは、「なんとかして命だけは助けてほしい」と何度も哀願するご家族たちが、「ここまでやってくれるのか」と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。
そしてようやく、妊婦は一命をとりとめます。
一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老僧がいました。
この老僧が、妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価してくれたのです。
そして老僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。
その紫の数珠は、紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
見た目もとても美しいが、それだけではなく、一個一個の珠に内部が覗けるように細工がしてあります。
そこから透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれている。
その日から、そのお数珠は看護婦たちの憧れの的になったのだそうです。
やまとなでしことはいえ、若い娘たちです。
美しい宝珠に興味津々だったのは、想像に難くない。
婦長は何度も彼女たちにせがまれて何度も見せてあげていた。
ある日、婦長はみんなに、
「いっそのこと、数珠の紐を切って、みんなで分けようか?」と提案したのです。
このひとことで看護婦たちは大騒ぎになった。
彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。
「私の命に代えても、みんなの遺骨を日本に連れて帰るね。
日本に帰ったら必ず地蔵菩薩を造って、みんなをお祀りする。
その地蔵菩薩の手に、この紫の数珠をきっとかけてあげるね・・・・」
けれど、まだ地蔵菩薩はなく、彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ、無縁仏にちかい形で置かれたままです。
婦長はなんども心の中でみんなにお詫びした。
「ごめんね。いまの私にはどうすることもできないわ。
でもね、きっと、必ず、お地蔵さんを造ってお祀りする。
だから、もう少し待っていてくださいね・・・」
どうすることもできない境遇の中で、そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれてとまらなかった。
帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から、夫正次戦死の公報があったとの知らせが届きました。
こうなると、北海道にいる堀婦長にとっては、遠く山口県の徳山市とのご縁も遠くなってしまいます。
なんとかしなければ、そう思う堀婦長の心に、23名のご遺骨のことは重い負担となり続ける。
なにもしないでいるわけにいかない。
堀婦長は、あちこち手立てを講じて、元の上官であった平尾軍医と手紙で連絡をとり、二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めます。
そして堀婦長から平尾元軍医にあて、毎月送金することにした。
たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつか必ず地蔵菩薩を建てられるに違いない。
そうと決まると、月給は少しでも高いにこしたことはありません。
堀元婦長は、給料の良い職場を求めて、静岡県の清水市にある病院に就職します。
この頃、戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありませんでした。
なかでも、謡曲や浪花節は人気が高く、この時代に、広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらってます。
この春日井梅鶯の愛弟子に、将来を嘱望された「若梅鶯」と呼ばれる浪曲家がいました。
その若梅鶯が熱海で公演をしたときのことです。
旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなりこう言った。
「いやあ、すごいものですねえ、満州の長春で、ソ連軍の横暴に抗議して、22人もの看護婦が集団自決したんだそうですよ。終戦の翌年のことだけどね・・・」
若梅鶯は、旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読んだそうです。
読みながら、若梅鶯は、全身に鳥肌がたった。
「こんな酷いことがあったのか・・・」
実は、若梅鶯こと松岡寛さんは、敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
その樺太で、ソ連軍がやった殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに知らされていた。
だから、長春の看護婦たちの話も他人事には思えなかったのです。
松岡さんは、一座の者を使って、堀婦長の追跡調査をします。
するとなんと熱海からほど近い清水に、堀婦長がいる。
その日のうちに松岡さんは、清水へ赴きます。
そして堀元婦長の勤務する病院に行き、面談を申し込んだ。
そして、地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出ます。
けれど堀元婦長は、あっさりと断ります。
ただお金があればいいというものではない。そんな思いが婦長の心にあったのかもしれません。
けれど松岡氏も真剣です。
「ならば、自分は浪曲家です。この語り継ぐべきこの悲話を、大切に伝えて行きたい。ぜひそうさせてください」
松岡さんの真摯な態度に、堀婦長の心は動きます。
実は、終戦から復員にかけての混乱の中で、亡くなられた看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
浪曲家である松岡氏が、その物語を全国で公演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。
堀婦長は、当時の様子を松岡氏に語って聞かせます。
松岡さんは、誠実でまじめな人です。
彼は堀元婦長から聞いた話を、従軍看護婦集団自殺の物語の浪曲に仕立てます。
そしてこの物語を語るために、世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座を離れて、無冠の松岡寛一座を開きます。
彼は、白衣の天使たちの悲話の語り部として、後半の人生を生き抜く決意をしたのです。
いくら人気の一番弟子とはいっても、独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンのようなものです。なんのツブシも聞きません。
中央のラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになった。
終戦の悲話が体験として日本中にあった時代です。
白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずがない。
松岡さんの公演は、またたくまに全国でひっぱりだこになります。
その松岡師匠は、浪曲の中で、必ず「皆様の中で心当たりの方はいらっしゃいませんか?」と必ず問いかけた。
そして3年余りの公演によって、実に23名中19名の身元が判明したのです。
そして19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができた。
松岡氏がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀元婦長は、自身の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへの少なからぬ積立金の送金を続けています。
その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立を、と思って元上司に電話をしました。
すると、元上司は「それなら、前にもお話した群馬県邑楽郡大泉村に建てましたよ」という。
群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満州へ向かう前に、厳しい訓練を受けたところで、彼女たちにとっての出会いとゆかりの場です。
そこにお地蔵さんが建った。
ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。
ちょうど、彼女たちが亡くなってから7周忌でもある年でした。
堀元婦長は、松岡師匠にもこの話を伝えた。
松岡師匠はたいへんに喜んでくれて、それなら私が見に行ってみましょう、とおっしゃてくれた。
師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねて、地番を探しに行ってみたところ、そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱです。何もない。
役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないという。
帰ってきて堀元婦長にその話をすると、どうしたことだろう、ということになって、元上司に問い合わせをします。
すると、実はよんどころない事情で、遣いこんでしまったという。
思い当たることはあるのです。
その上司の奥さんが、結核で入院されていたのです。
間が抜けていたといえばそれまでだけれど、汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまう。
同じ年のことです。
埼玉県大宮市に、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんという方がおいでになりました。
吉田亀治さんは、自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を昭和27年11月に開園します。
そしてそこに、沖縄戦の司令官牛島中将の墓を設け、さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司の司祭によって、鎮座式を行います。
その青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の公演がありました。
演目は、「満州白衣天使集団自決」です。
この公演の際、吉田亀治さんは、松岡師匠から直接、堀元婦長が存命で、いまも看護婦たちの身元を探していること、命日になると、亡くなった看護婦たちが寄ってきて、お地蔵さんの建立をせがむことなどの話を聴きます。
そして吉田亀治さんは、松岡師匠を介して堀元婦長に面会し、地蔵尊の建立を引き受けてくださった。
埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
なにやらすくなからぬ因縁さえ感じる。
資金面では、すべて吉田氏が引き受けてくれることになります。
そうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立された。
地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。
(五十音順)
荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子
【後日談】
夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となりました。
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以上が、満州従軍看護婦実話です。
3日間に分けて書かせていただきましたが、初日の大島花枝看護婦のことについては、以前、
≪満洲国開拓団の殉難≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html
という記事でも書かせていただいていますで、もしかするとお読みになられた方もおいでになるかもしれません。
二日目(昨日)の、南長春駅前での自決事件については、今回初のアップになります。
心が死んだような状態になっていた8名の看護婦たちが、堀婦長の献身的な努力で、徐々に生気を取り戻した。
そして、やっと、ようやく日本に帰れるとなったその日、晴れやかな笑顔で駅前に現れた3人は、残りの者を迎えに行くといって、覚悟の自殺をしてしまう。
ちょうどこのくだりを書いているとき、ボクはボロボロに泣けてしまいました。
そして3日目(今日)の記事が、帰国後の苦心と青葉慈蔵尊が建立されるまで、です。
戦後の混乱、敗戦のショック、食べる物さえなく、餓死者まで数多く出した戦後の混乱期の中で、家族国家の住人だった日本人は、生きるのに精いっぱいの状態になります。
そこへGHQが思想統制、言論統制を行い、日本人の精神構造の破壊工作を行った。
その呪縛はいまでも続いています。
けれど、そんな時代にあっても、日本人らしい心を失わず、必死に生きる堀元婦長と、その彼女をささえて献身的に努力した松岡師匠。
お二人の大誠意が、ついには天に通じ、念願のお地蔵さんの建立となったというお話です。
お地蔵さんが建立されている青葉園は、いまでもさいたま市にあり、その中央には青葉慈蔵尊がご安置されています。
都内の方、埼玉にお住いの方、お時間がございますときに、こんど一度お出かけになってみられたらいかがでしょうか。
いま、日本国家を解体しようとする人たちが政界その他に数多くいます。
けれど現実に国家が解体した、その実例がまさに満州国です。
そこにいた人々がどんな目に遭ったか。
国というものが、いかに大切なものかも、本稿を経由してお感じいただけたら幸いに思います。
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※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。


