
さて、いよいよ南京攻城戦における国際安全区(安全地帯)の掃討です。
冒頭で申し上げた通り、ここは、列強各国が公使やら新聞記者やその家族を置いている、まさに国際安全区です。
城内に残ったChineseの住民たちは、安全区にいた宣教師たちによって、戦闘前にこの安全区に避難していた。
ここで激戦などが行われようものなら、それこそ国際問題が起こるところです。
なにせそこには、20万人もの南京市民が避難している。
そしてその中に、国民党の敗残兵も紛れ込んだのです。
松井石根大将率いる南京城攻略隊は、南京城の占領を終えた14日から16日までの3日間、この国際安全区内の敗残兵掃討を行っています。
順に見ていきます。
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まず、誰よりも敗残兵に困ったのが、安全地帯を管理する米、英、独、仏、墨などの国際委員会の方です。
委員会は、国民党の敗残兵に対し、日本側と交渉するからと言って、武器を手放させます。
そして日本側には、彼らは国際法上認められる戦時捕虜だとして、その安全を認めるように求めています。
しかし、です。
日本側としては、敗残兵たちの代表者と会ってもいないし、敗残兵である彼ら自身も自分たちを捕虜であると宣言しているわけでもない。
そこで日本側は、安全区内で国民党兵を捜索したいとのみ回答しています。
委員会側も、日本側の話の筋が通っているので、これに異議を唱えなかった。
日本側は、昭和12(1937)年12月13日の夜、下調べをし、14日、15日、16日の3日間、市内の捜索をしています。
その捜索方法ですが、これにはまず、安全区の各辻ごとに歩哨をたて、将校の指揮のもとに、整然と一軒ごとの捜索を行っています。
外国人居留区なのです。
建物それぞれは、各国のいわば領地です。
ですから、捜索にあたっても、各国の要人に失礼のないよう、きわめて慎重に行っています。
3日間の捜索の結果、約6500人の敗残兵を検挙し、トラック数台分の武器を押収しています。
敗残兵の中には、堂々と「○○部隊宿舎」と大書した看板を立てていた者もおり、彼らは大砲まで隠し持っていた。
国際委員会で武器を押収したはずなのに、大量の武器弾薬に大砲に宿舎です。
この実態に、国際委員会が反論できようはずもなく、また検挙された国民党兵も、武器を押収後は、そのまま釈放しています。
当時、この国際安全区内には、各国の新聞記者も100人あまりいて、彼らは日本軍の捕虜検挙や武器の押収の状況をつぶさに見て確認しています。
そこでの虐殺など、起こりようもないし、実際、乱闘や銃撃のような事態すらまったく起こっていません。
ただ、現実に大量の武器を彼らが隠し持っていた以上、日本側が敗残兵たちの捜索に細心の注意を払ったことは事実です。
戦後開かれた東京裁判では、この国際安全区内での日本軍の残敵掃討に対して、「戦意を失った捕虜を日本軍が虐殺した」とされています。
けれど、敗残兵たちは、いちども自分たちは戦時捕虜であると宣言したことはないし、たくさんの武器を隠し持っていた以上、日本側がそれなりの用心をするのはあたりまえのことです。
そして武器を取り上げたあとは、日本は彼らを釈放している。
そんな状況の中で、誰がどのように「捕虜」を虐殺したというのか、虐殺派の言い分は、もはや無茶苦茶というほかありません。
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南京攻城戦は、上海派遣軍と第十軍によって昭和12年12月10日から行われました。
南京城に籠る国民党兵が総崩れになったのは、南京防衛軍総司令官の唐生智が、12日夜に敵前逃亡してからのことです。
日本側が南京城内に突入したのは、13日。
そしてまず、第十軍の第百十四師団は、南京入場から2日後の12月15日には、もう杭州へと転進しています。
第十軍の第六師団も、16日から転進をはじめ、蕪湖に向かっている。
さらに上海派遣軍も、
第九師団は12月24日には南京を去っています。
第十六師団も、第十九旅団は、12月20日から北支に向かっています。
その結果、南京の守備は津の第三十旅団がこれにあたったけれど、その三十旅団も、1月20日には、天谷支隊と交代しています。
これにより、1月20日には、当初の南京攻略軍は、すべて南京を去ったことになる。
そして、12月13日から24日まで、「人がいた」国際安全区内の警備を行った日本軍は、第7連隊第一大隊の790名と、第二大隊の802名、合計1592名です。
12月24日から31日までの警備にあたったのは、第三八連隊の約千名です。
そして、1月1日以降は、日本軍の歩兵による警備そのものが行われていません。
これはどういうことかというと、国際委員会側から、もう南京市内の安全は確保できたので、もう日本軍の歩哨は必要ない、と言われたことから、以降は中国人の警察官に安全区内の警備を委嘱し、日本軍はそこから手をひいているのです。
日本軍が南京城を攻略後、12月24日までは1592名、31日までは約千名の警備隊しか、そこにはいなかったわけです。
その人数で、外国人公使や世界中の新聞記者たちがいる前で、どうやったら30万もの市民や敗残兵を殺戮できるのか、事実を知れば知るほど、そんなものはまったくのでっちあげにほかならないことがわかります。
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以上が、南京戦で実際にあったことのすべてです。
南京城内で、千人殺しただとか、2千人殺しただとか、10万人、あるいは30万人を殺しただとか、いろいろなことが言われていますが、南京で戦闘があったのは事実です。
城の守備兵10万人と、日本軍10万名が激突したのです。
当然、そこでは両軍ともに多くの死傷者が出た。
しかしそれはあくまで戦闘行為です。
そして唐生智が逃亡したあと、混乱した国民党兵士同士での殺し合いは、確かにあった。
一方、南京に入城した日本側は、南京城内が国際安全区を除いて、ほぼ完全に無人であったため、多くの兵士たちは、14日ないし15日には、城外に退出し、他の戦地へと去って行っています。
そういえば、いつぞや南京事件のことをこのブログに書いたら、どっかの誰かが「南京の人口は20万ではなく、100万人です。日本軍が30万人虐殺したのはありえることです」みたいなことをコメント欄に書いていました。
なるほど、南京城内の当時の人口は100万人です。
けれども、日本軍が上海を陥とし、南京に向かってくるという情報がもたらされると、南京市民たちは、難を逃れるために、ことごとく城外に脱出していた。
これにはさらに理由があって、日本軍と戦うのに邪魔だからと、国民党兵士たちが民間人の居宅に火を放って燃やしているのです。
市民は、城外に避難せざるを得なかった。
そして南京城内に残った市民は、結果として、約10万です。
これに蒋介石直下の精鋭守備隊10万が、南京城内にいた。
双方合わせて、20万人が、戦いの直前に、南京城内にいたわけです。
こうした事態の中で、国際安全区の外国人宣教師たちは、城内に残る10万の市民たちを、安全区内に避難させた。
そんな状況で、南京での攻城戦の火ぶたが切られたのです。
そして日本側は、城内の安全を確保できた部隊から、次々と他の戦地へと転進させた。
結果、国際安全区の警備にあたったのは、1000~1500だけです。
また、国際安全区の中に潜んでいた国民党兵士たちは6500人です。
日本軍は、彼らの武器を取り上げ、そこで釈放している。
治安の確保に関しては、その後は地元の中国人の警察官がこれにあたっています。
蒋介石にしてみれば、自らの首都であり、自らの最精鋭部隊を留め置いた南京城を簡単に日本軍に奪われたことが、よほど悔しかったのであろうことは、容易に想像できます。
だから蒋介石は戦後になって、、南京城戦でもっとも精悍に働いた日本陸軍の第十六師団長である中島今朝吾師団長を探し、これを殺害しようとしています。
ところが中島師団長が、その時点ですでに他界していたので、彼は報復のため、後任の谷寿夫師団長を、逮捕し、処刑しました。
このとき、もし、第十六師団が、南京城内で殺戮をしたというのなら、蒋介石は谷師団長を南京城内で殺害したはずです。
けれど、蒋介石が谷師団長をみせしめのために殺害したのは、南京城南端の雨花門の外側です。
そこは第十六師団と、国民党軍守備隊との激戦があったところです。
要するに、蒋介石にとって、報復とみせしめの場所は、第十六師団と国民党守備隊が激戦を繰り広げた雨花門外であり、虐殺が行われたとする城内ではない。
要するに、南京虐殺など、まったく「存在しなかった」のです。
日本は、通州その他で、卑劣な手段で日本を戦いに引きずり込む彼らに、いいようになぶり殺され、やむにやまれず、無政府状態だったChinaに軍事進攻した。
国民党は、自分から日本軍を招いたのです。
ですから、日本軍のChina進出は、侵略ではない。
そして上海で日本軍の殲滅狙った国民党軍を蹴散らし、蒋介石の本部のある国民党きっての精鋭部隊の籠る南京も、わずか二日で攻略している。
戦いは、戦わないことをもって最上とするものです。
以前にも何度か書きましたが、昭和のはじめ、世界の2強だった英国と日本は同盟関係にあった。
いわば、日英同盟は、さしづめ米ソ同盟のようなものです。
この段階では、誰も日本に敵わない。
東亜進出をもくろむ米国やドイツ、ソ連は、なんとかして日本の弱体化を狙い、軍縮を日本に飲ませ、英国に日英同盟を破棄させ、代わりに米英同盟が締結された。
この時点で、日本は、軍事弱国になってしまっていた。
それが昭和5年です。
そしてわずか7年後には、日本軍はChina兵にさえ舐められ、Chinaのあちこちで日本人に対する残虐行為が行われた。
そしてとどのつまりが、上海にいたわずか4千名の海軍陸戦隊への国民党軍精鋭5万による攻撃です。
やむなく日本は、Chinaへの派兵をした。
待ち受ける蒋介石国民党軍は、なんと60万の大軍を持って、日本軍の上陸を待ち伏せた。
日本陸軍は、それをたいへんな苦労をして破り、海軍陸戦隊を助け出し、そして南京に転進した。
南京城に籠る国民党軍10万。
日本軍10万。
攻城戦では、城内に籠る側が圧倒的に有利なものを、日本軍はわずか二日でこれを攻略。
南京城内の治安を回復し、そして翌月には全員去って行った。
疾(はや)きこと風のごとく
徐(しず)かなること林のごとし
侵略すること火のごとく
動かざること山のごとし。
日本政府が軍事をおろそかにし、軟弱外交で、かえって外地にいる邦人の苦境を招いた中で、私たちの若き日の父祖たちは、まさに風林火山を地で行くような素晴らしい戦いをし、無政府状態のChinaの治安を回復し、平和をもたらすための努力をしたのです。
大陸に赴いた日本の軍人を、ボクは誇りに思います。
※ 南京城攻略戦の記述については、冨澤繁信先生の書かれた、日本「南京」学会会報第35号、再び南京戦を問うー正しく南京事件を理解するために-を参照させていただきました。
冨澤先生のますますのご健勝をお祈り申し上げます。
(明日の記事に続く)
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