
昨日に引き続き、城内の掃討戦について書いていきます。
南京城に攻め入ったあと、これを確保し、城内の安全を確保するためには、城内外の「敗残兵の掃討」を行う必要があります。
城内外の敗残兵が蜂起してゲリラ戦でも起こしはじめようものなら、城内の安全が保てれないのです。
ですから掃討戦は、世界中、どこのどんな戦いでも万国共通で必ず行われることです。
南京城を攻め落とした日本軍は、南京城内の掃討のための分担を決めていますが、この分担計画は、きわめて厳密かつ厳格なものでした。
たとえば、南京城内の中央を横断する中山東道は、京都第十六師団の所轄ですが、それは道の真ん中までではなくて、道の南端までであるなどと、詳細に決めています。
ですからたとえば金沢第九師団は、その守備域の都合上、中山東道を利用しなければならなかったのだけれど、そのためにちゃんと京都第十六師団に、道路通行の許可などもとっています。
ちなみに、金沢第九師団の脇坂連隊長は、安全地帯を視察しようとしたけれど、事前にそのエリアを担当する師団の許可をとっていなかったので、視察そのものができなかった。
それほどまでに、厳格な分担体制をひいていたのです。
そして、与えられたエリアごとに、担当する連隊が、その内部をくまなく調査し、安全を確保していった。
松井大将は、この掃討作戦にあたって、
(1)城内掃討は選抜された少数の部隊で行え
(2)掃討後は、できるだけ城外で宿営せよ
と命じています。
城内掃討は、非常に危険を伴うものでもあるのです。
だから、大勢で乱入するようなことをしないで、少数精鋭で行うこと。
掃討が済んだら、城外に出て、宿営せよ、と命じているのです。
そもそも南京戦に投入された日本軍は、約10万と言われています。
これは城内に籠る国民党軍と、数の上ではほぼ同数です。
火力から言ったら、兵の重機弾薬ですら乏しい日本軍に比べ、China国民党軍は、圧倒的に有利な装備を持っています。
しかも、古来、攻城戦というのは、城に立て籠もる兵の数倍から数十倍の兵力がなければ勝つことができないというのが常識です。
それを松井大将は、ほぼ同数の兵員数、圧倒的に劣る火力で見事勝利してしまった。
そして城内掃討に際しても、泥試合のような混乱戦を引き起こさないよう、少数部隊でさっと掃討を行い、終了し次第、城外に引き上げよ、と命じているのです。
見事な采配です。
と同時に、虐殺派のいうような、何万という日本の部隊が一斉に南京城になだれ込み、ほしいままに虐殺をしてまわるような余裕は、日本軍にはない。
城内への突入と、掃討戦は、連続して行われています。
各連隊ごとに担当エリアを攻撃し、城内に突入したら、あらかじめ定められた担当エリアの確保をする。
確保したエリアは、少数の精鋭で掃討を行い、終われば順次、城外に出て待機する。
兵たちが勝手気ままに虐殺をしてまわるとか、家屋内に浸入して強姦や窃盗を働くことができるような物理的余裕は、日本軍には、まったくありません。
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南京城の東側にある中山門から、城内中央を東西に横断する中山東路の北側は京都第九連隊と、福知山第二〇連隊の所轄です。
他の第一九旅団所属の部隊は、せっかく中山門まで来ていながら、門を警護する京都第九連隊と、福知山第二〇連隊に阻まれて入城することすら許してもらえてません。
入城した二連隊は、昭和12(1937)年12月13日の午後遅くに宿舎に入り、14日、付近を地図の分担に従って掃討しています。
けれど、このあたりは、もともと官庁街で無人地帯です。
結果、掃討の戦果はなく、翌15日には、両連隊とも城外の敗残兵掃討の任務に就いています。
要するにこの2連隊は、二日間城内にいただけで、住民どころか敗残兵にすらあっていません。
何もすることがない状態で、その場でいつまでも遊ばせてくれるほど、日本軍は(いまどきの日本企業もだけど)甘くはありません。
することがないなら、さっさと他のもっと意義のある場所に移動する。
あたりまえのことです。
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南京城の北側にある中山北路付近は、奈良第三八連隊が担当しています。
奈良三八連隊は、14日正午、中山北路の北側に一列に並び、そこから南京城北端の中央門方面にむけて、午後4時ごろまでに一列縦隊で整然と進んでいます。
けれど、そこには敗残兵も住民もいなくて、痩せた犬だけが寝そべっていただけです。
終了後、やはり城外に出ている。
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久居第33連隊は、14日の朝になってから宿営地を出て、城内掃討のために挹江門を通って中山北路に入っています。
宿営地を出てすぐ、城外の獅子山付近で国民党兵を百四、五十人ほど見つけます。
もはや、敵に戦意はありません。
連隊は、彼らの武器を取り上げ、その場で釈放している。
彼らがついこようとしたけれど、行く方向が南京城の挹江門方面だとわかると、彼らは督戦隊が怖いのか、それぞれ他の場所に去って行った。
連隊が挹江門に達すると、そこには国民党兵士が積み上げた土嚢の山が崩れて散乱しています。
なので、それをみんなで片付けた。
土嚢って、ひとつが20キロくらいあるんですね。とても重い。
それだけでもたいへんな仕事です。
片付けが終わると、城内掃討のために挹江門をくぐり、中山路を経て南京政府地区に向かいます。
ところが城内の担当エリアは無人です。
結局、南京政府地区で一晩宿営しただけで、翌日朝には、宿営地に戻りました。
虐殺も何も、そもそも城内でChineseに会ってすらいない。
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金沢第九師団は、城内の南東部を担当したけれど、ここもまったくの無人地帯でした。
戦闘開始のとき、師団は光華門攻略を担当しています。
当初はものすごい戦闘だったのです。
けれど唐生智が逃げたあとは、国民党の光華門守備隊が、総崩れになったので、その後は特段の戦闘は行っていない。
光華門の敵がいなくなったあと、敦賀第十九連隊が先兵となって城内深く侵入したけれど、そこにあったのはただの静寂だけです。
人っこひとりいない。
戦闘行為すらなく、敦賀第十九連隊は、安全を確認後、他の部隊の到着を待って、そのまま城外東北地区の友軍の救援に向かっています。
他の部隊は、誰もいないその場で宿営した。、
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宇都宮第一一四師団は、南京城南端の中華門の制圧を担当しました。
激戦の中、国民党兵1600人の捕虜を得ましたが、上からの命令によって、全員の武器を取り上げ、そのまま釈放している。
門の制圧後は、門の内側に宿営していたけれど、付近の整理整頓や片付けをしていたくらいで、制圧から5日後の12月15日には杭州方面に転進することになり、さっさと移動してしまっています。
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熊本第十一旅団では、2個大隊が13日に中華門から城内にはいったけれど、そこには住民も敗残兵もいない。
そこで、いったん南京城を出て、南の城壁付近で宿営し、3日後の16日には南方の蕪子湖方面に転進しています。
旅団の中の鹿児島第四五連隊は、その間、ずっと城外です。
また都城二三連隊も、水西門の内外分かれて宿営しているけれど、そこにはすでに敗残兵もいません。
当然、住民もいなかった。
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長々と書いてきましたが、要するに、南京城内においては、城内中央部の国際安全区(安全地帯)を除いては、みるべき敗残兵の存在もなく、いてももはや戦意はなく、市街戦のようなものすら起こらなかったのです。
しかも、安全区以外は、住民もいない。
広い南京城内は、安全区以外は、要するに無人だったわけです。
人がいないところで虐殺もなにもなく、日本軍の掃討部隊さえも、意味のないところにいつまでいても仕方ないので、その多くは、3~5日で、他の戦闘地域に転進していっています。
まれに戦闘終了後に敗残兵とまみえることがあっても、彼らにすでに戦意はありません。
だから武器をとりあげて、さっさと釈放している。
むしろ、それでも味方の督戦隊に見つかったら殺されるからと、日本軍の後ろからついてきた国民党軍の兵士たちこそ、哀れというべきです。
それが事実です。
人がいない(物理的)にも、城内に滞留した時間的にも、虐殺など起こりようがない。
したがって、虐殺の有無を考えるには、人がいた「国際安全区(安全地帯)」の中で、何が起こったかに、絞られます。
南京城を陥落させた日本軍にしてみれば、安全地帯内に潜む国民党兵が、安全地帯の外側にいる敗残兵と共謀して蜂起するような事態になったら困るのです。
だから安全地帯の掃討作戦は、軍事行動として12月14日から実施されています。
いよいよ、安全地帯内への侵入です。
(明日の記事に続く)
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