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南京入城
南京入城

冨澤繁信さんという方がおいでになります。
今年で85歳になられます。
元、住友銀行常務取締役、退任後は住商リースの副社長をお勤めだった方です。
冨澤先生は、いわゆる南京虐殺に関して、その欺瞞性とねつ造の事実を、長い間、きちんと戦史を研究されながら実証されてこられた方です。
簡単にいえば、先生は、南京虐殺などなかったという事実を、克明かつ誠実に分析し研究し、そして発表されてこられました。
先日、その冨澤先生から、直接、お話を伺う機会がありました。
大変感銘を受けました。


結論からいえば、南京で「事件」と呼べる虐殺など、まったく存在しない。
現場の実情を克明に分析すれば、そんなことは「起こりえない」ということがはっきりする、ということです。
以下にその詳細を述べますが、まじめに見て行けばいくほど、日本軍は実に規律正しく整然と行動しています。
まさに、後世の私たちにとって、誇るべき皇軍兵士そのものであった。
南京事件など起こりようはずもない。
南京での虐殺行為が「あった」とする人々の論調は、南京戦の各段階の戦局を脈絡なくとりあげて、日本軍が住民や捕虜、敗残兵をいたるところで虐殺したかのように解説しています。
けれども、南京戦を時系列で、つぶさに検証すれば、そのような虐殺など、しようもないし、起こりようもなかったという事実が、克明に導き出される。
そのことを、冨澤先生は明確に証明なさっています。
以下は、冨澤先生が、日本南京学会の会報に掲載された「再び南京戦を問う」をベースに実際に冨澤先生が語られた内容を、ボクなりに整理したものです。
みなさまにも、ぜひ、ご一読願いたいと思います。
~~~~~~~~~~
さて、その本題にはいるまえに、先に、なぜ南京戦に至ったかから、おさらいしておこうと思います。
南京攻略戦は、China事変の初期に行われた戦闘です。
最近の歴史書などを見ると、「China事変」と日本が規定し世界が認めた「事変」について、これを「日中戦争」と表記しているものが多いようです。
まず、ここからして間違いです。
そもそも「日中戦争」という用語自体が歴史に存在しません。
日本は、外国との戦争に際しては、つねにきちんと「宣戦布告」を行っています。
これは日本武道の精神です。
何事も礼にはじまって礼に終わる。
これは我が国の美風です。
China事変に際しては、日本も、日本の敵となったChina国民党も、互いに宣戦布告を行っていません。
日本は、さんざんChina国民党に戦闘を徴発され、軍人がChineseによってなぶり殺しされ、女子供まで暴行虐殺され、まさにやむを得ず自警のために戦いに臨んでいます。
戦争というものは、国家対国家の紛争解決の最終手段です。
だから戦争の反対語は、平和ではなくて国家対国家の「話し合い」です。
そして昭和12年の段階で、国際的に承認された政府としての中華民国は存在していません。
当時、中国にあったのは、千路に乱れた軍閥の割拠であり、臨時政府を名乗っていたのも、この時点で中国国内には2つも3つもあった。
そしてそのいずれもが、「国家」として機能する段階に至っていなかったし、国際的に承認された「国」は、Chinaの大陸内に存在していなかった。
日本は国際的に承認された「国」です。
しかし日本が対処に立ち上がった相手は、蒋介石率いる「国民党」という軍閥でしかなかった。
当時のChinaは、いまでいったら、ソマリアのような無政府状態にあったわけで、その中の国民党といういち政党ないし軍閥が、日本に対して敵対行動に出て治安を乱したから、やむをえず日本は派兵を決定したのです。
仮にいま、どこかの国、たとえば米国がソマリアに軍を派遣し、そこでソマリアの海賊とドンパチやったとしても、それは「米対ソマリア戦争とは呼びません。
せいぜい、「海賊退治」です。
同様に当時無政府状態にあったChinaにおいて、日本と敵対行動をとる一部勢力があったから、日本はこれを誅した。
だから、それは「日中戦争」などと呼べるようなシロモノではなく、まさに「China事変」と呼ぶのが正解です。
ボク的には「蒋介石軍閥退治」と呼びたいほどです。
さらに、最近の教科書は、その『日中戦争』なるものが、昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件に端を発すると書いてあります。これも間違いです。
歴史というものは、常に流れの中にあるものです。
特定の事件が突発的に起こるようなものではありません。
ですから盧溝橋事件がChina事変のきっかけではない。
それをいうなら、通州事件はどのように位置づけるのか。
どうにも戦後の自虐史観というのは、矛盾に満ちています。
そこで、本題の「南京城攻略戦」に入る前に、そもそもなぜChina事変に至ったか、についておさらいしてみたいと思います。
最近では、中華民国は、明治44(1911)年の武昌起義に始まる辛亥革命で、大正元(1912)年1月1日に南京において成立したと記述するものが多いです。
けれど、辛亥革命における中国国民党と、その後蒋介石に率いられた国民党とは、かならずしも連結したものとは言い難い。
このことを歴史の順にみていきたいと思います。
まず、大正元(1912)年1月1日に南京において成立した中華民国は、あくまでも中華民国「臨時政府」です。
実際、孫文は、そのように名乗っています。
この時点では、まだChinaを代表する正式な政府として、北京に清王朝がなお存続していたのです。
ですから南京にある中華民国臨時政府は、国際的に承認された政府ではなく、とりあえず勝手に政府と名乗っていたにすぎません。
もっといえば、中華民国臨時政府は、清朝がまだ存続している状況の中にあって、孫文らが武装蜂起して南京を占領し、ただ勝手に「臨時政府を勝手に名乗った」だけ、という情況です。
もし、当時の中華民国臨時政府を、正式な「国」とみるというならば、平成23年のこんにちにおいて、南ベトナム臨時政府、満州国臨時政府などが現に存在しているけれど、それらも「国」である、としなければおかしい。
なんとなれば、ボクがいま、日本の心をつたえる会を、たとえば、「日心国臨時政府」と名乗ったら、それが世界が承認する公式な「国」ですか?ということになる。
そんなバカな話はない。
さて、南京に成立した臨時政府では、孫文が臨時総統に就任しています。
これもあくまで孫文は「臨時」と名乗っています。
なぜかというと、孫文ひきいる南京臨時政府は、この時点ではまだ「中国を代表する政府」となるために必要な力が不足していたのです。
そこで孫文は、当時の中国で最も強力な軍事力を持っていた清朝の将軍、袁世凱に、「自分たち臨時政府の仲間になってくれるなら、中華民国臨時政府の総裁の地位を与えます」ともちかけます。
孫文は、末期的症状を呈する清王朝を廃して、なんとしても共和制の民主国家を作りたかったのです。
要するに、孫文は、自らが大総裁となることよりも、実をとろうとしたのです。
ところがです。

臨時大総統に就任した袁世凱は、民主的内閣の組成を図ろうとする臨時政府の要人(宋教仁)など、「臨時政府」の要人を片端から暗殺してしまいます。
さらに統治の拠点も、孫文らがいる南京から、自分のいる北京に勝手に移動させてしまう。
そして国民党内に独裁体制をひいてしまったのです。
そして、大正5(1916)年には、帝政復活を宣言して国号を「中華帝国」に改め、自ら中華帝国皇帝に就任した。
あとは、新皇帝となった自分に逆らう者を、片端から誅殺すれば、革命は完成し、袁世凱総裁が皇帝を勤める「中華帝国」が成立すると、袁世凱は踏んだわけです。
ところが、です。
ここで袁世凱に、とんでもない判断ミスが露呈します。
自分に敵対する者を誅殺しようと思ったら、袁世凱のまわりは、みんな「敵対する者」だった。
つまり、袁世凱の皇帝就任を喜ぶものが誰もいなかった。
やむなく袁世凱は大正6(1916)年に帝政復活の取消を宣言するのだけれど、一度出した「皇帝宣言」を、みずから撤回してしまいます。
こうなると、袁世凱の権威もなにもあったものではない。
袁世凱は、権威を失墜し、そのまま同じ年の6月に病死(これもあやしいけれど)してしまった。

袁世凱の没後、Chinaはふたたび、国を代表する統一政府が存在しない状況となります。
要するに中国は、大正6(1916)年、ふたたび無政府状態となったのです。
この頃孫文はどうしていたかというと、袁世凱が中華民国臨時政府の大総統に就任したあと、清王朝の追及の手を逃れるために、大正2(1913)年から、大正5(1916)年まで、日本に亡命しています。
清王朝はまだまだ健在だったのです。
ところが袁世凱が何をトチ狂ったか、中華帝国皇帝なんぞと言い出したものだから、これはイケナイ!と、孫文はChinaに戻ります。
そもそも孫文は、「共和制」の民主国家を築こうという理想を持っていたのです。
それが「中華帝国」では、ハナシガチガウではありませんか。
で、China国内で、あちこち駆けずり回った挙句、大正8(1919)年に「中国国民党」を再旗揚げします。
いちど「国民党新政府」を立ち上げた孫文が、またあらためて「新政府」を作ったわけです。
いまの日本にたとえれば、民主党を立ち上げた小沢○郎が、内閣総理大臣に奸直人を就任させたら、支持率ゼロパーセントになっても総理を辞めない、自分は日本帝国初代皇帝であると名乗った。
これではイケナイと、小沢○郎が、あらためて「別な」民主党を立ち上げた・・・というような状況です。
要するに昨今、中華民国政府の成立を大正元(1912)年としているものが多いけれど、これは、のちに続くChina事変を、あたかも国家対国家の戦争であったかのごとく偽装するための、かなり意図的なインチキでしかないです。

孫文は、大正8(1919)年に「中国国民党」を立ち上げて、初代党首に就任したはいいけれど、できて間もない大正14(1925)年に、わずか59歳で逝去してしまいます。
どうもこのあたり、袁世凱といい、孫文といい、あまりに都合よく亡くなっているのですが、こういうところがChinaの歴史の不思議なところで、一部には毒殺説なども、まことしやかにウワサされていた。
さて、孫文の死後、国民党を引き継いだのは、国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席だった汪兆銘(おうちょうめい)です。
汪兆銘という人は、たびたびフランスに亡命していたインテリで、孫文がなくなるときの遺書も彼が起草している。名文です。汪兆銘の知性がうかがえます。
ちなみに、この時点では、後に国民党総裁となる蒋介石(しょうかいせき)は、まだ単なる北京で粘っている袁世凱の残党狩りをする「北洋討伐軍の司令官」にすぎません。
さしづめいまの日本で言ったら、総理亡き後の副総理が汪兆銘で、蒋介石は自衛隊の北部方面司令官といった位置づけでしかない。身分の開きは天と地ほどもある。
ところがここにやっかいな問題があります。
孫文は、袁世凱等の中国国内の軍閥と対峙するために、その軍事支援を、当時覇権主義、軍国主義を貫いていたソ連に依頼していたのです。
おもしろいことに、だから孫文が存命中は、中国共産党の党首・毛沢東も、孫文率いる国民党の党員として参加しています。
すなわち、汪兆銘が引きついたばかりの国民党内に、毛沢東ら中国共産党メンバーも、いる。
ここに後々大きな問題となる亀裂が走ります。
Chinaが欧米列強に蹂躙され、Chineseたちが列強の奴隷となるか、それとも統一中国を建設するために、右も左も一体となって力を合わせるか。
孫文は、一体化論者です。
当然、後任の汪兆銘も一体化論者です。
新たな統一中国を築くのです。
いまは、同じ中国人同士で、共産主義者だの、自由主義者だのと争っている場合ではない・・・けだし当然です。
ところが、こうなると都合の悪い人たちが出ます。
欧米列強です。
欧米列強にしてみれば、中国が自己溶解(メルトダウン)してくれれば、シメタモノです。
このため、裏から資金を得た扇動家たちが、国民党内で、しきりに「共産主義者が国民党内にいるのはオカシイ」と言い出します。
いまの日本で、保守の大同団結を説けば、必ず「奴は何々論者だ」といたずらに対立軸をあおる連中が騒ぎ立て、保守の分裂をいざなうようなものです。
とりわけ北洋討伐軍司令官だった蒋介石は、国民党最大の兵力を持っています。
彼(蒋介石)は、大正15(1926)年3月、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が、ソ連の軍事指導者や共産党幹部らを乗せて広州湾に表れたのを奇禍として、この船は自分を拉致しに来たのだ騒ぎ立て、艦を襲い、艦長や乗船していたソ連の軍事顧問団を、全員逮捕し、広州全市に戒厳令をひいてしまったのです。
これを「中山艦事件」といいます。
(戒厳令=一切の法の執行を停止し、すべてを軍の指揮下に置くこと)
無政府状態の中国にあって、新しい政権を打ち立て、諸外国の承認を得て新国家を建設しようという政党が、外国との間で紛争を起こしてしまったのです。
事態を憂慮した汪兆銘は、やむなく事件の責任をとって、党の代表の座を辞任します。
そして自分が院政を引いて実質的に幹部として国民党を牛耳っているという誤解を諸外国に与えないよう、彼はフランスに亡命する。
問題を起こした以上、責任を取っていさぎよく代表の座を降りる。
汪兆銘の態度は、実に潔い日本的態度です。
本来なら、ここで初代大総統の孫文、二代目大総統の汪兆銘と、国家の理想を同じくする三代目が就任するはずだった。
ところが、軍事力をバックに権力の座にしがみつこうとする蒋介石を、列強はほっておきません。
なんやかやと蒋介石に利便を与え、結局、蒋介石が国民党軍事委員会主席に就任し、党の実権を(軍事的に)掌握してしまった。
このあたりの蒋介石の動きは、実にうさんくさいです。
当然、国民党内部にも、不満の声が高まり、あらためて汪兆銘の帰国を求める声が大きくなった。
汪兆銘は、請われてフランスから帰国します。
そして多くの民衆が支持する汪兆銘が、武漢に「国民党政府」を、蒋介石が南京に「国民党政府」を樹立した。
つまり、この時点で、「国民党」が、2つできたのです。
平和を求める汪兆銘に支持者がたくさんいたのは、当然のことです。
汪兆銘には人望があります。
代わって強硬路線の蒋介石には人望がない。
人望はないけれど、蒋介石には圧倒的な軍事力があります。
そして軍事力は、民衆の声を圧倒する。
蒋介石は軍事力を背景に、汪兆銘の南京国民党に迫ります。
結局、昭和2(1927)年8月、南京国民党を支配下においてしまった。
支配下に入らなければ、南京の住民を殺すというのです。
汪兆銘にしてみれば、やむをえない。
南京国民党を支配下に置き、実質的に国民党の支配者に君臨した蒋介石は、こんどは自分の地位をさらに確固としたものにするために、同年12月に、孫文の妻・宋慶齢の妹(宋美齢)と強引に結婚してしまいます。
これで蒋介石は、孫文と義理の兄弟となった。
血統がつながったわけです。
ちなみに、宋美齢は、蒋介石と恋愛関係で結ばれたわけではありません。
蒋介石は、前々から宋美齢に気があったらしく、以前にも求婚しています。
けれど、宋美齢から、こっぴどくフラれている。
後日談になるけど、蒋介石率いる国民党軍隊は、大東亜戦争が終わると、それまで売るほど米英からもらえた軍事物資の供給が途絶えます。
要するに、彼は米英が中国支配、すなわち中国人を奴隷化し、Chinaを植民地にするために、いちばんの障害となる日本への「噛ませ犬」として使われただけなのです。
日本との戦争が終われば、蒋介石は「用済み」です。
一瞬にして、彼の軍団への米英から物資の供給は途絶えた。
一方、大陸にいた日本軍が武装解除に応じたため、旧日本軍の所持していた大量の武器弾薬が、ソ連を経由して中国共産党に与えられます。
武器をふんだんに与えられた中国共産党、
武器の供給が絶えた蒋介石率いる国民党。
国民党は一瞬にしてChina大陸を追われ、台湾に逃げ込み、そこを支配下に置きます。
そのとき、蒋介石と離れて、大陸に留まった宋美齢は、蒋介石のことをボロカスに言っています。
明らかに、蒋介石と宋美齢との結婚は、蒋介石の権力のための偽装に近い結婚だったわけです。

さて、南京政府を陥した蒋介石は、ここで中国国民党「主席」に就任する。
まあ「就任」した、というより、「名乗った」と言った方があたっているかもしれない。
国家主席に就任した蒋介石は、昭和5(1930)年から、中国内部の共産党員に対して、5次にわたる大規模な粛清を展開します。
共産主義者を見つけ次第、片端から殺しまくったのです。
これは一種の魔女狩りで、あの人は共産党らしいという噂があったら、即、ひっつかまえて殺した。
後日、日本の軍人が南京で中国人を射殺している動画として世界的に報じられた映像も、周辺部分を拡大してみると、このとき蒋介石軍が、共産党員狩りをしていたときのものであることがわかります。
とにかく共産党員である、とわかれば、即、蒋介石軍によって逮捕され、射殺されるのです。
いわば魔女狩りに等しいわけで、しかも裁判もなしで、いきなり殺していった。
こりゃタマランと、中国共産党の党首である毛沢東は、中国の奥地に逃げ込んだ。
これが世にいう「毛沢東の長征」です。
どうも、共産主義者とかサヨクとかいう連中は、こうした言葉の遊びがすぎるようです。
「長い征伐の旅」だから「長征」などと言ってますが、自分たちが征伐する旅ではなくて、自分たちが征伐されたので旅に出た「長い逃避行」にほかなりません。
ただ、毛沢東らはこのとき、中国奥地の農村部で、武器も持たず、事情もわからない農民たちに、共産主義思想を植え付け、食糧などを徴発し続けた。
とにかく君たちが貧しいのは、中央で贅沢三昧している連中がいるせいなのだ。打倒ブルジョア!!などとやったものだから、事情をしらない農民たちが、ずいぶんと騙されて共産党員になった。
おかげで毛沢東は次第に勢力を増し、昭和6(1931)年には、江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでになっています。
とにかく、しぶとい連中です。
けれど、蒋介石の国民党軍の追及も、同時にすさまじいのです。
毛沢東の共産党は、ついに壊滅寸前にまで追い込まれる。
このままでは、中国国内に播いた共産主義の種が消えてなくなってしまいます。
このことを案じたのが、ソ連のスターリンです。
あわよくば、中国を共産主義化させて、支配下に置こうと思っているのです。
なんとかして、中国国民党と中国共産党を統合させなければならない。
それには、毛沢東の中国共産党と、蒋介石の国民党軍に、共通の「敵」を与えることです。
そうです。日本です。
ソ連にとっても、日本は邪魔なのです。
壊滅寸前の毛沢東は、もちろんこれにOKです。
ところが、これまで共産党相手に戦ってきた(実際には共産党員を摘発、処刑してきた)蒋介石にしてみれば、おいそれとこれは飲める話ではない。
そこでソ連は、中国共産党をけしかけて、蒋介石率いる国民党と、日本が戦闘状態になるように仕向けます。
ソ連にしてみれば、それしか選択肢がない。
なぜなら、当時の中国は、いまのソマリアのようなもので、要するにいくつかの自称「政府」と称する者たちが、ドンパチやっている内乱状態です。
とりわけ軍事的に中国国内で一歩も二歩もリードしているのが蒋介石率いる国民党で、国民党のバックには、米英がついている。
なかでも米国は、日本の満州経営を見て、何にもない荒れ果てた曠野(こうや)が、みるみるうちに肥沃な農地に変わっていく様子を見ています。
なんの取り柄もないただの荒れ果てた大地が、日本の応援によって、みるみるうちに肥沃な農村地帯に変わっていくのです。
そのやり方を真似て、人口が多くて土地が広い中国で植民地経営をすれば、米国は中国で農場経営をするだけで、世界の食卓を席巻できる。大儲けできる。
太平洋の島々と島々が乱立するフィリピンくらいにしか植民地がなかった米国にしてみれば、中国はよだれが出るくらいに欲しい。
一方、インドを植民地に持つ英国にしてみれば、中国がソ連に侵されれば、インドも危なくなる。
ならば中国に露骨に垂涎を流す米国と同盟し、中国国民党に武器や食料を援助することで、防共の防波堤とすることには、大きなメリットがある。
米英の利害は一致していたのです。
だから米英は共同で蒋介石に軍事物資や糧食を与え続けていた。
その蒋介石軍を、中国内部の共産主義者相手ではなく、日本と戦わせれば、ソ連にしてみれば中国国内の共産党勢力を温存できるだけでなく、日本との戦いで国民党が滅んでくれれば、代わって中国を仕切るのは中国共産党です。
そうなれば、ソ連は、まるごと中国をGETできる。
これは一石二鳥です。
この頃の中国には、世界11カ国が、兵を出しています。
なにせ、ソマリアのような内戦状態なのです。
治安維持のため、各国は軍を派遣しています。
けれど、ソ連にしてみれば、米英やフランス、イタリア、ドイツ等の欧米諸国と国民党を争わせれば、それぞれの国から怨みを買い、下手をすれば欧州諸国がソ連に敵対することになる。
ねらい目は、欧米列強にとって邪魔な存在、イエロー(黄色人種)のくせに、人種の平等やアジアの植民地支配からの脱却を目指すなどと小賢しいことをやっている日本です。
米国にとっても、中国を植民地にするうえで、日本は邪魔な存在です。
ソ連にとっても、日本をスケープゴートにすることは、メリットのあることです。
世界の利害は、こうして国民党と日本とを戦わせるという方向に一致していきます。
けれど日本は、あくまで八紘一宇のために活動しています。
八紘一宇というのは、「世界はひとつの屋根の下(ひとつの家族)」という意味の言葉で、神武天皇が唱えられた言葉です。
いくら徴発しても、日本は、容易に戦端を開かない。
少々のことをしても日本が戦端を開かないなら、もっとむごい目に遭わせてやれ!
街を車に乗って走行していただけの日本軍人を、いきなり銃で撃ち殺す。
街を歩いていただけの日本人の兵隊を、いきなり裸にし、ボコボコにして残酷に殺す。
こうして、China国内にいる日本人を狙って、ありとあらゆる挑発行為が、なされます。
そして昭和12(1937)年7月7日、盧溝橋爆破事件が起こる。
さらに7月26日、広安門事件が起こる。
広安門事件というのは、国民党軍の依頼を受けて広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されたという事件です。
これなどもまったくもってひどい話で、日本は中国側の市当局の依頼を受けて、日本人居留民保護のために軍の兵士を26台のトラックに分乗させて現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。
すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。
城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。
城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。
つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している・・・そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。
この事件で、日本側は、兵士15名が死亡。
他に民間人の通訳、新聞記者など4名、合計19名の命が失われています。
そしてきわめつけに起こったのが7月29日の通州事件です。
この事件は、China軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を、深夜突然襲って、約230名を虐殺したという事件です。
この事件によって、日本の通州特務機関は全滅してしまう。
女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害されています。
腹から腸を出されて殺害されている婦女子。
針金で鼻輪を通された子供。
両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断された子供など、酸鼻を極めた。
国家対国家の戦闘なら、宣戦布告したうえで、正々堂々とやればいい。
武装すらしていない女子供を捕まえて、あらんかぎりの暴行を加えるなど、言語道断です。
(通州事件については、
≪通州事件・・・「友愛精神」が招いた惨劇≫
≪通州事件を忘れるな(2)≫に詳述しているので、ご参照ください。)
これだけひどい目にあわせれば、日ごろ八紘一宇などと言って、平和を説き、戦闘非拡大方針を打ち出しているさしもの日本も、戦いの腰をあげざるを得ないだろう。そして日本が軍を上陸させるのは、上海に違いない。
蒋介石は、上海市から上海の港までのわずかな距離に、なんと2万か所ものトーチカを作り、そこに機銃を据えて、日本軍の到来を待ちかまえます。
日本は、8月11日になっても、それでもなお中国側に自重を求め、互いに争わないようにしようと粛々と話し合いの場をもとうとします。
ちなみに、「戦争」という言葉の反対語は、「平和」ではありません。
戦争とは、国家対国家の紛争解決の手段です。
であれば、「戦争」の反対語は「外交」であり、「話し合い」です。
「平和」の反対語は「戦火」もしくは「戦禍」です。
日本からの話し合いの要求を、蒋介石はことごとく蹴飛ばします。
そりゃあそうです。
十分に準備して、日本軍が攻めてくるのを、いまかいまかと待ちかまえているのです。
この段階で「話し合い」になど応じる必要は、蒋介石にはまったく、ない。
蒋介石は、公然と上海市内に5万の国民党兵を布陣させます。
8月13日、上海にいた日本海軍陸戦隊4千に向かって、突如、国民党軍が機銃掃射をしてきます。
5万対4千の戦いです。
加えて、国民党の5万の兵は、ドイツ式装備に身を固め、ドイツ人の指揮官に指導と訓練を受けた蒋介石軍の中の精鋭中の精鋭です。
誰が見ても、あっという間に日本側が壊滅してしまうだろうと思われた。
これに対し、兵力が10分の1以下の日本側4千には、貧弱な装備しかない。
圧倒的な火力、圧倒的な兵力をもって攻めてくる国民党軍に対し、日本の海軍陸戦隊4千は、果敢に戦い抜きます。
しかし、このままほっておいたら、果敢に防戦する日本兵4千は、矢弾尽きて全滅してしまいます。
そうしたら、通州事件の再来です。
たいへんなことになる。
ここに至って、やむなく日本は、日本人に非道の限りを尽くす蒋介石軍征伐のために陸軍に出動を命じます。
大将は松井石根陸軍大将です。

松井石根陸軍大将
松井石根陸軍大将

松井石根陸軍大将は、すぐに10万の上海派遣軍を編成し、現地に向かった。
上海派遣軍を待ち受ける中国国民党兵は、なんと60万の大軍です。
たかがChina兵と侮ってはいけません。
国民党軍は、世界最高水準の軍装を持つ最精鋭部隊、88師と87師を基幹とする第4路軍を上海に派遣したのです。
しかも、2万か所ものトーチカを配備している。
要するに、ありとあらゆる準備を整えて日本軍の殲滅のために待ち受ける蒋介石の精鋭60万の真っただ中に、松井石根大将率いる上海派遣軍は突入したのです。
ふつうなら、絶対に日本軍に勝ち目のない戦いです。
ところが、松井石根大将率いる上海派遣軍は強い。
ほんとうに強い!
死者2528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被りながらも大奮戦し、ついに、11月9日までに上海の中国国民党兵20万を倒し、残り40万人の兵を潰走させます。
そして見事、日本海軍陸戦隊4千名を救い出した。事件発生から10日目のことです。
これが、「第二次上海事変」です。
ちなみに、このときの戦いで亡くなられた日本軍の兵士たちも、靖国神社に祀られています。
日本は、そうした多くの先人たちに守られて今日がある。

戦いが終わり、国民党兵士たちが去った後、上海に居住する外国人のための英字新聞は、次のような記事を載せました。
~~~~~~~~~~
国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
~~~~~~~~~~
実際、その通りであったことは衆目の一致するところです。
(第二次上海事変については、http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-780.htmlに詳述していますので、ご参照ください)
そして上海を落とした日本軍は、敵の本拠地である南京へと兵をすすめます。
いよいよ南京戦です。
明日の記事に続く。
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南京陥落当時の貴重な映像(1)

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