
慶応4(1868)年8月19日、元幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、幕府軍艦「開陽丸」を旗艦に、回天(かいてん)・蟠龍(はんりょう)・千代田形という三隻の軍艦と輸送船、計八隻で品川を脱出しました。
「開陽丸」は、オランダ製の船体にドイツ製の大砲を備えた世界にも通用する最新鋭の軍艦で、「回天」もそれに次ぐ大きさ、これに蟠龍・千代田形を加えた榎本艦隊は、当時としては、まさに世界屈指の艦隊です。
ていうか、日本に黒船がやってきたのが嘉永6(1853)年です。
それからわずか15年で、日本が世界屈指の艦隊を保有する国になっていたというのもすごい話です。

さて、その榎本艦隊は、9月3日、仙台に到着します。
榎本は、落城寸前となった会津若松城の会津の精鋭たちを引き取り、勇躍、蝦夷(北海道)を目指します。
蝦夷に到着した榎本らは、またたくまに函館の五稜郭を奪い取り、明治元(1868)年12月、蝦夷共和国を誕生させた。
ここで榎本は、日本初の「選挙による初代大統領」に就任しています。
これまたすごい話です。この時代に大統領公選制を実現させている。
もし彼の試みが成功していたら、もしかすると日本と蝦夷は別々な国になっていたかもしれない。
この時代は、まだ航空機がないのです。
ですから、海に囲まれた北海道なら、強大な海軍力を保持すれば、陸軍は少数でも、蝦夷共和国は、独立国となりえたのです。
しかしその試みは、失敗します。
まず、陸上で五稜郭や松前城を攻略して、共和国樹立を図っていたさなかの11月15日、江差沖に停泊中の榎本海軍の旗艦である「開陽」が、嵐のために座礁して沈没してしまったのです。
これは痛い。
大東亜戦争でいったら、大和と武蔵という2つの戦艦があったのに、戦う前に大和が沈没してしまったようなものです。

やむなく榎本艦隊は、旗艦を「回天」に移します。
この「回天」の艦長が、あとでご紹介する甲賀源吾です。
この「回天」は、軍艦としての能力は、「開陽」にはるかに及ばないけれど、とにかく艦長である甲賀源吾の力量がすごい。
榎本が幕府海軍を率いて北海道に北上したとき、「咸臨丸」の速力が遅いからと、「回天」がこれを曳航している。
「咸臨丸」だって、福沢諭吉らを乗せて米国まで旅した船です。
それなりの良い船なのだけれど、「回天」の能力は、はるかに「咸臨丸」を上回った。
「咸臨丸」を曳航しているとき、銚子沖で台風がやってきます。
甲賀は、やむなく曳綱を切った。

いまも昔も、台風は北上します。
つまり、榎本艦隊のルートは、まさにこの台風の進路に沿ったものとなる。
曳綱を切られたあと、逆方向に流された「咸臨丸」は、そのまま榎本艦隊とはぐれて下田に漂着します。そこで官軍側に拿捕される。
一方の「回天」は、なんと、暴風の真っただ中を、台風とともに北上します。
これはすごいことです。
そして三本のマストのうち、前と中央の二本を折られながらも、航行を続け、なんと友藩である奥羽越列藩同盟の中心地だった仙台藩の松島港に入港させている。
艦長・甲賀源吾の采配や見事、というほかありません。
松島港でマストの修理を済ませた「回天」は、こんどは大しけの冬の海を、単独で北上。
気仙港では、海賊化していた旧幕府軍艦の「千秋丸」を拿捕し、これを奪っています。
さらに箱館に到着した「回天」は、甲賀源吾艦長の指揮のもと、僚艦「蟠竜」とともに函館港の隙をうかがい、10月25日早朝に水兵を上陸させて、いっきに港湾施設と五稜郭を占領している。
そして27日には、函館港が榎本軍に占領されたことを知らずに入港した官軍の軍艦「高雄」を急襲し、奪い取っている。
また、松前藩との戦いでは、「回天」は、陸軍の応援をし、旗艦「開陽」が江差で座礁したときには救援に向かってもいる。
まさに八面六臂の大活躍です。

一方、強大な海軍力を持つ榎本海軍に対抗するため、官軍側は、幕府が以前、米国から購入した最新鋭の軍艦「ストーン・ウォール・ジャクソン号」を、交渉して官軍のものにしてしまいます。
新政府軍は、この船に「甲鉄」という名前をつけた。
「甲鉄」は、その名の通り、装甲軍艦です。
当時最新最強だった「開陽」でさえ木造軍艦です。
「甲鉄」は、砲数やトン数では「開陽」に劣るものの、頑強な装甲によって、絶対的な防備性を誇る。
これなら榎本艦隊を打ち破れるかもしれない。
新政府軍は、この「甲鉄」を旗艦に、朝陽(ちょうよう)・春日をはじめとする五隻の軍艦を揃え、これに飛龍(ひりゅう)・豊安(ほうあん)といった輸送船、さらに外国船までチャーターして、万全の態勢を整えて榎本艦隊に相対します。
この時点で、旗艦「開陽」を失っていた榎本艦隊は、完全に分が悪い。
陸上戦力は、多勢に無勢です。
制海権を喪失したら、蝦夷共和国ははかない夢となってしまいます。
これは困った。
明治2(1869)年3月、榎本は、新政府艦隊が岩手県の宮古湾に集結したという情報を得ます。
このままでは、戦に負けてしまう。
榎本は、「ならば、最新鋭艦の敵艦『甲鉄』を奪ってしまえ、と考えます。
これまたすごいことを考るものです。
具体的には、まず、斬り込み隊を乗せた「回天」、「蟠竜」、「高雄(函館で手に入れた秋田藩の軍艦)」の三艦が、外国旗を掲げて宮古湾に侵入します。
そこで「蟠竜」と「高雄」が「甲鉄」の両岸を挟みこむ。
挟み込む直前に、外国旗を降ろして、日の丸を掲げる。
そして「蟠竜」と「高雄」が、周囲にいる官軍側艦隊を砲撃し、敵艦隊の動きを封鎖している間に、「回天」を「甲鉄」に接舷させ、斬り込み隊が、乗り込んで、船を奪取する、というものです。
直前に旗を付け替えるという戦法は、なんだか海賊みたいに思えますが、「アボルダージュ」と呼ばれ、万国公法で認められている、れっきとした海戦戦法です。
絶対に負けられない戦いです。
「甲鉄」への斬り込み隊は、総指揮に新撰組土方歳三を配し、添役には相馬主計と野村利三郎が就任した。その下に、彰義隊から10名、神木隊から36名の歴戦のツワモノを揃えます。
さらに周囲にいる艦船からの攻撃を防ぐ役の「蟠竜」「高尾」両船にも、新選組、彰義隊、遊撃隊、神木隊から、それぞれ計57名の斬り込み隊をしのばせた。
この作戦が成功し、「甲鉄」を拿捕すれば、まさに榎本艦隊は名実ともに世界最強艦隊となります。
そうなると、いかに官軍といえども、最早、蝦夷共和国に手出しはできません。
そして日本は、二つに割れる。
3月21日の夜明け前、ひそかに「回天」、「蟠竜」、「高雄」の三艦が、箱館港を出発します。
互いを大綱で繋ぎ、一列縦隊で、一路、岩手県の宮古湾を目指す。
ところが、ここでも榎本艦隊は「天命」に見放されてしまいます。
出発の翌日に、なんと季節外れの大暴風雨に襲われたのです。
嵐のために、三艦を繋いでいた大綱は切断される。
艦隊は嵐の中を離散してしまいます。
いまの時代のような無線などない時代です。
大海原で離ればなれになったら、最早出会うのは至難の業です。
24日になって、ようやく嵐がやや静まったとき、「回天」艦長甲賀源吾は、執念で「高雄」を見つけます。
「高雄」は、嵐で機関をやられ、漂流していたのです。
やむなく「回天」は、「高雄」を曳航します。
修理のため宮古湾の南の山田湾(岩手県山田町)に入港した。
その頃、「蟠竜」は互いを見失った際の取り決めに従って鮫村沖で待機しています。
当時は無線などありません。だから連絡はとれない。
要するに、この時点で「蟠竜」は放置されていた。
そこへ、山田湾に停泊した二艦に、新政府軍の艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているとの情報が入ってきます。
敵の「甲鉄」が出航してしまったら、計画は水の泡です。
「回天」と「高尾」は、「蟠竜」との合流を諦め、二艦のみでの突入を決めた。
「高雄」が「甲鉄」を襲撃し、「回天」が残りの艦船を牽制すると決め、いよいよ宮古湾に乗り込みます。
決行は25日早朝、夜明け前の午前4時です。
官軍側も、所属不明の艦船が、宮古湾沖に出現したとの情報を得ます。
しかし、船からあがって警戒を解いていた官軍側海軍には、まるで危機感がない。
薩摩の陸軍参謀黒田清隆が、この情報を聞きつけて、斥候を出してすぐ確認するようにと海軍に促すのだけど、陸にあがっている海軍副参謀の石井富之助は、これを受け付けない。
だって陸には、酒が待っている。
「回天」と「高雄」は、24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かいます。
ところが・・・
途中で、「高雄」が再び機関に故障を起こしてしまいます。
両舷のエンジンのうち、ひとつが完全に動かなくなってしまった。
こうなると、ただでさえ速度の遅い「高雄」は、さらに船速が、半分です。
やむをえず、「甲鉄」に接舷して先制攻撃をするのは、「回天」の役目とし、あとから追いついた「高雄」が、途中で参戦して周囲の敵艦隊を砲撃するという段取りに書き換えます。
夜明けが近づきます。
「回天」は、宮古湾の入り口近くに到着する。
けれど、「高尾」はやってきません。
夜が明けて、あたりが明るくなったら、敵に発見されてしまいます。
やむなく「回天」は、「高雄」の到着を待たず、単独で宮古湾への突入敢行を決めます。
「回天」がアメリカ国旗を掲げて、いよいよ宮古湾にはいる。
官軍の艦隊は、機関の火を落としています。
夜明け前です。静かです。
「回天」がじりじりと、「甲鉄」に近づく。
敵はまだ気付きません。
暴風雨で、回天の特徴であった三本のマストが二本になっていたのです。
薄闇の中、官軍側は、それが「回天」とはわからない。
「甲鉄」に接近した「回天」は、作戦通り米国旗を下ろし、すぐさま日の丸を掲げて、「甲鉄」に接舷します。
ところが、船の向きを変えて「甲鉄」に並ぶように接舷したくても、時間もない。
狭い港湾の中で、「回天」の小回りも利かない。
やむなく「回天」は、「甲鉄」の横腹に、斜め後方から突入します。
大きな物音がして、「回天」の船首が、「甲鉄」の船腹に突っ込んで乗り上げる。
「回天」が上になり、「甲鉄」が下になる。
その高低差、約三メートル。

「甲鉄」の隣で警戒にあたっていた薩摩藩籍の「春日」が、この音で敵襲に気付き、味方に知らせるために空砲を鳴らします。
「甲鉄」の上に、警備の兵隊たちが群がってくる。
「甲鉄」の甲板に乗り上げた「回天」の船首からは、斬り込み隊36名が、「甲鉄」の甲板に飛び降りようとします。
ところが、細い船首からでは乗り移る人数が限られる。
そこへ「甲鉄」甲板上から、最新鋭の機関銃「ガトリング砲」が火を噴きます。
「回天」甲板上では、乗り移る前に、撃たれ、倒れる兵が続出します。
それでも、先に「甲鉄」に乗り移った土方歳三、野村利三郎ら7名は、群がる敵兵を次々に切り伏せるとともに、甲板上のガトリング砲を奪い、次々と敵をなぎ倒します。
そこに「春日」をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も、ようやく戦闘準備を整わせ、「回天」に向かって、集中砲撃を浴びせる。

「回天」の甲板上では、艦長の甲賀源吾が、「甲鉄」から逆に乗り移ろうとする敵兵を、水兵を指揮して、これを撃退し、また周囲から鉄砲や砲撃を加える敵船に対して、別な手勢を用いて、これに撃ち返し、また砲撃を加えます。
多勢に無勢です。
束になって飛んでくる敵の銃弾の中で、甲賀源吾は、左足と右腕を銃弾に撃ち抜かれます。
それでも源吾は大声をあげ、ながらも甲板上で猛然と指揮をとり続ける。
まさに八面六臂の奮迅です。
しかし、群がる敵弾は、ついに甲賀源吾の頭(こめかみ)を撃ち貫き、彼を即死させてしまう。
形勢不利と見た海軍奉行・荒井郁之助は、「もはやこれまで」と作戦中止を決め、斬り込み隊の回収を図ります。
高低差三メートルの壁をよじ登って、切り込み隊が帰ろうとする。
そこに敵の銃弾が襲いかかる。
「甲鉄」に乗り移った野村利三郎ら5名は、撤収できず戦死してしまいます。
「回天」に帰還できた者は、土方歳三ほか1名のみ。
切り込み隊の回収を終えた荒井郁之助は、自ら「回天」の舵を握って「甲鉄」から船体を離し、宮古湾を離脱します。
この間、およそ30分。
この敗戦によって、本州・北海道間の制海権を失った榎本らは、五稜郭などへ陸戦に備えることになります。
函館戦争の先が見えた。
榎本にとって3月25日は、そんな日であったことかと思います。
それにしても・・・
もし、「回天」が突撃前に出会った船が故障した「高雄」ではなく、無傷の「蟠竜」であったなら、この宮古湾の戦いの帰趨は、まったく別な流れになっていたかもしれません。
もしかすると、「回天」と「蟠竜」は、見事「甲鉄」を奪い、榎本海軍を興隆させ、もしかしたら日本は、蝦夷共和国と大日本帝国の二つの国になっていたかもしれない。
また、もし、最強軍艦「開陽」が、沈没せずに生き残っていたら、榎本艦隊は、宮古湾決戦をすることなく、「回天」の天才艦長甲賀源吾もまた、生き残れたかもしれない。
しかし歴史は、季節外れの嵐を起こし、「開陽」を沈め、「回天」「高雄」「蟠竜」の三艦を切り離し、さらに「高雄」を故障させ、「蟠竜」を孤立させた。
もしかすると、皇国日本を守護する八百万の神々は、榎本が北海道を日本から切り離し、蝦夷共和国を打ちたてようとした段階で、彼を見捨てたのかもしれません。
神国日本は、北海道から沖縄まで、島諸を含めてひとつの国です。
そのひとつの国の領土を、バラバラに切り離すようなことを、日本の神々は絶対に認めない。
そういえば、幕末期、幕府には薩長征伐のために、一時、北海道を質に入れて外国から戦費を調達しようとする動きもあったといいます。
「たった薩長というたった二国が、この国を牛じるなどということは絶対に許せぬ」
「北海道に、我らが理想の共和国を」
そう祈り、大統領公選制という素晴らしい理想を掲げた榎本武楊には、「理」はあったのだろうと思います。
そして土方歳三、甲賀源吾、野村利三郎ら諸氏も、必死の戦いをした。
会津の兵士たち、幕軍の兵士たちは、誰もが獅子奮迅の戦いをしています。
しかし、結果として彼らが官軍に勝てなかったのは、もしかすると「天命」を得ることができなかったからなのではないか。
ちなみに、昨今、竹島や尖閣列島を、平気で韓国やChinaに渡してしまえという亡国のヤカラが政官界に跋扈しているとききますが、神国日本では、そういうヤカラには、決して「天」は味方しない。
そして、どんなに努力をしても、どんなに強い経済力を身につけたとしても、古来、日本の歴史の中で、売国の奴は、最後には必ず「敗北」の二字が待っている。
そう言いきりたいと思います。
そうそう!!
甲賀源吾は、遠州・掛川藩の出身です。
そして築地の幕府軍艦教授所で学び、オランダ語、英語、数学、操船を学んだ逸材です。
寡黙で、思慮深くありながら、度胸も座っていた。また、部下を愛し、慕われた。
荒井郁之助は、
「業を修むるに鋭意にして勤勉倦(う)まず。
少なしく解せざることあれば手に巻を釋(す)てず。
暫(しばら)くにして其事を解するに至りて止む」と、探求心の旺盛であったことを賞賛し、早世を惜しんでいます。
宮古湾の戦いで奮戦し、31歳の若い命を散らせた甲賀源吾について、当時官軍だった東郷平八郎は「今日に至るまで、私の歎賞措く能はざる勇士なり」と書き残しています。
さらに東郷平八郎は、彼をして「天晴れな勇士」と讃え、「回天」を操船した甲賀源吾の生涯から「意外こそ起死回生の秘訣」であることを学び、そのことが日本海海戦の勝利に繋がったと言っています。
歴史は、学ぶもの。それが、軍神・東郷平八郎元帥の考え方です。
そういえば、同志社大学の創立者・新島襄(にいじまじょう)も、若き日に残した和綴のノートの毛筆でオランダ語や計算式が延々書かれた片隅に、「天下英雄、甲賀源吾」という落書をしています。
彼にとっても、甲賀源吾という逸材は、学ぶに足る人物であったのだろうと思います。
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