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楠木正成

楠木正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将です。
鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称されました。
楠木正成の出自は、まるで謎です。
日本史上、非常に有名でありながら、これほど出自が謎に包まれた人物はほかにいない。
楠木正成が、確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどの間の物語です。


楠木正成は、もともとは河内一帯を中心に、水銀などを流通させていた豪族のようです。この水銀の利権をめぐって幕府と対立したことがきっかけ、という説もあるようですが、真偽は不明です。
時は、鎌倉時代末期です。
元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞の余地はない。幕府の権威も失墜し、執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた。
民は重税に苦しみ、世の秩序も乱れに乱れていたといいます。
元弘元(1331)年、みかねた後醍醐天皇は、幕府打倒を目指して京都で挙兵します。
しかし、世が乱れているとはいえ、まだまだ幕府軍事力は強大です。
世の武家や豪族たちは、世の中の乱れを憂いながらも、倒幕となると恐れをなした。
「世の中をなんとかしたい」
あせる後醍醐天皇のもとに、駆けつけた数少ない武将の中にいたのが、当時37歳の楠木正成です。
後醍醐天皇は、楠木正成に質問します。
「勝てる見込みはあるのか?」
正成は答えます。
「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。しかし知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機は生じます」
そうはいっても正成の兵力はわずかに500余騎です。
これに対し幕府は、数万の大軍を差し向けた。
鎧兜に身を包み、きちんと重武装した幕府軍に対し、正成軍の将兵は、まるで野武士の集団です。
兜なんてありません。
上半身が裸の者も多いです。
粗末な山城を見た幕府軍の武将は
「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ!」と声を荒げます。
幕府兵は、総員総攻撃を敢行します。
兵が攻撃を始め、城の斜面を昇り始めます。
ところが、兵が斜面を埋めた瞬間・・・・
ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れ出します。
幕府兵の頭上に、岩や大木が地響きをあげて転がってきた。
1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲作戦を行ったのです。
この初戦だけで、幕府側は700名も兵を失ってしまいます。
そして、楠木正成軍は、藁人形であざむく、熱湯をかける、熱した糞尿を頭からかける(まさに焼け糞をかけた)など、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄した。
やむなく幕府軍は、力押しをやめて、いったん兵を引き、城を包囲して持久戦に持ち込みます。
山城にとどまる正成軍の食料は、20日で底をついてしまう。
このままでは、飢え死にするほかない、となったそのとき、京で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入ります。
正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出し、行方をくらまします。
猛烈な火災に、鎌倉幕府側の武将たちは、誰もが「正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した」と考えます。
そして、
「敵ながら立派な最期だった」と言い合う。
このように従来の価値観で動かず、舌を出してさっさと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁で、後世、特に江戸期に楠木正成は大人気となります。
ここまでが、有名な「赤坂城の戦い」です。
翌元弘2(1332)年、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現します。天下の大悪党ここに現る!という感じだったようです。
これに対し北条氏は、幕府最強とされる先鋭部隊を差し向けた。
楠木正成側の兵力は、このとき幕府精鋭部隊の4倍です。
臣下は「一気に踏み潰しましょう」と正成に進言します。
しかし正成は、
「良将は戦わずして勝つ」と提案を退け、謎の撤退をしてしまう。
幕府の精鋭部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領します。
ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲されます。
兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える。
しかし夜が明けても正成軍に動く気配はありません。
そして次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲します。
「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」
4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退します。
実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いただけのものだったのです。
正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利した。
翌元弘3(1333)年2月。
幕府は8万騎の大征伐軍を編成し、目の上のタンコブの正成追討を図ります。
迎え撃つ楠木正成の軍団は、わずか千人です。
楠木正成は、山奥の千早城(いまの大阪府南河内郡千早赤阪村千早の辺り)に篭城します。
幕府軍はこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ない。
やばい相手には、やはり2年前の赤坂城と同様、兵糧攻めが一番と、千早城を取り囲みます。
ところが・・・・
今回は勝手が違います。
なまじ8万もの大軍であるがゆえに、先に餓えたのは、包囲している幕府軍だったのです。
正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、
「千早城そのものが囮(おとり)」
という前代未聞のものだったのです。
山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。
やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになりますた。(千早城の戦い)
8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わります。
「幕府軍、恐れるに足らず」
これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始めます。
ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞などの源氏直流の大物豪族たちが公然と反旗を翻し出した。
足利尊氏は、京都の幕軍を倒し、新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取ってしまう。
ちなみに楠木正成は、赤坂城の戦い、千早城の戦いの後日、敵・味方の区別なく、戦没者を弔うための供養塔(五輪塔)を建立しています。
高僧を招いて法要もとり行なっている。
この供養塔で、彼は“敵”という文字を使っていません。
代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使っています。
そして、寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくした。
味方の勝利におぼれ、敵のことなどいっこうに顧みない戦国武将が多い中で、こうした楠木正成の誠実な人柄は、際立っています。
この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。
楠木正成は、同年6月、隠岐へ流されていた後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めます。
翌建武元(1334)年。
後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートします。
楠木正成は、土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命される。
ところがこのとき後醍醐天皇は、天皇主導の下で戦のない世の中を築こうという理想のもとに、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くします。
また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課している。
その結果、諸国の武士の反発を呼び、建武2(1335)年11月、足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵します。
京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃つ。
尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走します。
しかし楠木正成は、この勝利を単純に喜ばなかったといいます。
なぜなら、逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わり、一緒に去っていったからです。
「天皇方の武士までが、ここまで尊氏を慕っている・・・」
新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に、涙ながらに進言します。
「どうか尊氏と和睦して下さい」
ところが公家達に、正成の誠意が通じない。
「なぜ勝利した我らが、尊氏めに和睦を求めねばごじゃらぬのか。
正成は不思議なことを申すものよの」
正成は、公家たちに嘲笑され、罵倒されます。
建武3(1336)年4月。
いったん九州に疎開した後、多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始します。
後醍醐天皇は「湊川で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
湊川というのは、いまの神戸です。
“討伐”といっても、今や尊氏側の方が大軍勢です。
正面からぶつかっては勝てるものではありません。
楠木正成は、
「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めします。
帝は比叡山に移ってください。
京の都に尊氏軍を誘い込んだ後、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」と進言します。
これに対し公家たちは「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」と反対し、案を却下する。
有事と平時の区別がつかなかったのです。
失意の中、楠木正成は、湊川に向かって出陣します。
このときすでに天皇の求心力は無きに等しかった。
尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700です。
戦力差は何と50倍です。
正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。
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この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。
かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。
民の心は天皇と通じていたのです。
しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。
正成、存命無益なり・・・
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彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ります。
5月25日。
湊川で両軍は激突します。
海岸に陣をひいた新田軍は、海と陸から挟まれ、あっという間に総崩れとなった。
そのため正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいる始末。
最早、戦力の差は歴然としています。
誰もが、即座に勝敗がつくと思われた。
しかし足利尊氏は、正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らない。
尊氏にしてみれば、今でこそ両者は戦っているけれど、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同じ仲間です。
楠木正成ほどの男を失うのは、いかにしても惜しい。惜しすぎる。
足利尊氏は、何とかして正成の命を助けようと、正成へ再三降伏勧告をします。
しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返します。
このままでは自軍の損失も増える一方です。
尊氏はついに一斉攻撃を命じます。
6時間後・・・・
正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃します。
正成は弟・正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺しちがえています。
享年42歳だった。
このとき正成が、弟正季ら、生き残った一族郎党と誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国」(しちしょうほうこく)です。
旧字体では“七生報國”と書きます。
最期をさとった正成が、弟正季に「何か願いはあるか」と問いかけたとき、正季は
「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」と答えたのだそうです。
そして正成は、「いつかこの本懐を達せん」と誓った。
正成の首は、一時京都六条河原に晒されたけれど、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられたといいます。
尊氏側の記録(『梅松論』)には、敵将・正成の死が次のように書かれています。
「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」
尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱います。
正成は、死後300年近くも、朝敵の汚名を着せられたままとなったのです。
たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーとされたのです。
その楠木正成を、再び世に出したのが、水戸黄門で有名な、水戸光圀です。
光圀は、元禄5(1692)年、大日本史を編纂中、水田の中にあった小さな塚に正成の偉業を称え建立し、“嗚呼忠臣楠子之墓”と自書した墓碑を建立しています。
ちなみに工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎です。
光圀は、
「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と、正成の名誉回復に努めました。
墓の傍らには水戸光圀像もあります。
たとえ逆賊の汚名を着ても、主君に忠義を捧げつくす。
楠木正成は、大東亜戦争を戦い抜いた若き日本軍の将兵に「皇国の最大の英雄」と慕われ、
「七生報国」は、「忠君愛国」「滅私奉公」とともに、旧日本軍日本人の精神として受け継がれました。
人間魚雷「回天」出撃の際には、正成の軍旗に記されていた文字「非理法権天」と書いたのぼりが掲げられ、その本体には楠木一族が用いていた紋所の「菊水」が描かれました。
「非理法権天」というのは、”非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味です。
つまり、天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない。だから人は天道に従って行動すべきである、というものです。
人を思いやり、和をもって貴しとなす日本という国の文化や伝統、誇り。
たとえ相手が自分より数十倍上回る敵であっても、勇猛果敢に戦いに臨む精神。
そしてその誇りと精神を守るために「七生報国」を合言葉に大切な命を捧げられた246万の英霊たち。
私たち現代を生きる日本人は、そうした先人たちの心に恥じない日本を、後世のために残して行かなければならないと思います。
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