
福井文右衛門(ふくいぶんえもん)のことを書いてみようと思います。
福井文右衛門は、藤堂高吉(とうどう たかよし)の家臣です。
藤堂高吉というのは江戸時代前期の武将で、秀吉の朝鮮征伐のときに加藤清正らと並んで武功をたてた藤堂高虎の跡取りとして養子となった人で、もともとは丹羽長秀の三男です。
ところが高虎に実子高次が生まれたため疎んじられ、さらに家中でささいな騒動を起こして蟄居処分となってしまいます。
その後、慶長11(1606)年、高吉は許されて江戸城の普請を務めます。
そしてこの功績で高吉は、藤堂高虎が治めていた伊予今治の城代に任じられます。
慶長19(1614)年、大坂夏の陣で、徳川方の武将として参戦し、長宗我部盛親隊を相手に奮戦し、武功をたてる。
寛永13(1636)年に、伊賀国の名張に移封され、名張藤堂家1万5千石の祖となっています。
福井文右衛門は、こうして高吉が名張に移封されたとき、伊勢領の出間村(現、松阪市出間村)のあたり一帯を治める代官に任ぜられます。
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当時の出間村は、土地は肥沃(ひよく)です。
けれど水路がなく、農業は天水にたよるほかなかったのです。
こうなると日照り続きの年は米を採ることができません。
だから農民はどの家もオカラ飯を食べて暮らしていた。
代官就任にあたり、村々を視察してまわった文右衛門は、そのことを知ります。
なんとかしなければならない。
いろいろ調べた結果、出間村のあたりは、櫛田川の流域にあたるのだけど、土地が川面より高いということがわかります。
水を引くためには、下機殿(しもはたでん)の東の方から真っすぐに水路を掘る以外にない。
けれど、下機殿は、伊勢神宮の御神域です。
草木一本動かすことはできない。
慶安3(1650)年5月20日、福井文右衛門は、夕方、出間村の村人たちを全員集め、
「下機殿から東へ真っすぐに水路を掘れ」と命じます。
驚きあわてた村人は「それはなりません」とためらいます。
けれど、代官の福井文右衛門は、堂々と笑顔で、
「だいじょうぶだ。村人たちには決して難儀はかけない。おまえたちは安心して工事を実行すればよろしい」と、重ねて水路工事を村人たちに厳命します。
そして村人たちは、一夜のうちに水路を掘り上げる。
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明け方、ようやく水路は完成し、水がせきを切って流れ出します。
水がなく、貧しかった村が、豊富な水に支えられる豊かな村へと出発した瞬間です。
村人たちの歓声が上がります。
ところが、先ほどまで工事の監督と励ましのために笑顔で一緒にいてくれた福井代官の姿が見えない。
何をおいても、お代官に知らせなくてはと、村人たちは代官所向かいます。
するとそこには、代官福井文左衛門の割腹して果てた姿があった。
たとえ、村人たちのためとはいえ、神域を侵すのは重罪です。
本来なら、罰(ばつ)は藩主にまで及ぶ。
福井文右衛門は、その責任を腹を切ることで一身に負い、自害したのです。
近くには文右衛門の遺書がありました。
そこには、
「今朝、流したあの水は、この文右衛門が命に替えて出間村へ贈ったものである。孫子(まごこ)の代まで末長く豊作とならんことを」と書かれていた。
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事件から360年経った今でも、出間村の人々は、文右衛門の命日に、欠かさず村人一同で供養の法要をしています。
そしてまた伊勢神宮も、下機殿の東の隅(すみ)に、大きな顕彰碑(けんしょうひ)を建ててくれた。
文右衛門は、いまも立派に出間村に生きています。
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