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牟田口廉也中将.jpg
牟田口廉也中将

先日、インパール作戦のことを書きました。
インパール作戦と言えば、先日も書きましたが、
「戦場でもっとも大切な兵站を無視した無謀な戦いをした」
「作戦を独断専行で進めた牟田口中将はバカである」
「はじめから意味のない戦いだった」
等々、戦後あらんかぎりの罵声が浴びせられている戦いです。
実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死しています。
負け戦です。
しかし、何万もの将兵を失った戦いというなら、16万の将兵を投じて15万名が戦死に至った東ニューギニア戦や、一方的に倒されたトラック諸島の攻防戦、あるいは敵をして七面鳥撃ちと言わしめたマリアナ沖海戦、相次いだ南方諸島での玉砕船など、インパール作戦以上に悲惨な戦いは他にも多くあります。
そもそも大東亜戦争そのものが、およそ戦闘という意味においては負け戦だったわけで、であれば個々の戦闘において、種々の敗北戦があるのは、ある意味、当然のことです。
にも関わらず、なぜかインパール作戦だけが、なにやら突出して、無謀だとか独断だとか、はなから意味がなかっただとか、口を極めて罵られ続けている。
けれど、これがとっても大切なことなのだけれど、インパール作戦は、すくなくとも中盤戦までは、日本軍の圧勝だったのです。


インパールへの出撃に際して、牟田口中将は、
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ここに諸氏に告ぐ。
河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、駿足にして無敵なる進攻のみが本作戦勝利のカギと知るべし。
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と述べています。
そもそもインパール作戦は、迅速を旨とする作戦であったということです。
日本は初動段階で、インパールの入り口をふさぐコヒマを占領しています。
すぐ近くにディマプールという、英国軍の物資補給基地があります。
そこまでは、わずは2日の距離です。
もし日本が、その段階でディマプールを陥としていれば、補給の問題は解決していたのです。
そうなるとインパール作戦は、日本側の大勝利に終わった可能性すらある。
そのことを敵である英国側が、戦後はっきりと認めています。
戦後の東京裁判史観を原典として、事情も調べずにああだこうだ批判する反日左翼の評釈より、実際に牟田口中将率いる第十五軍と戦った英国軍の言う事の方が、よほど真に迫った現実を物語っています。
まず、アーサー・スウィンソンという英国のインド駐留軍第二師団参謀は、その著書である「四人のサムライ」の中で、次のようにインパールの戦いを記述しています。
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当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。
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インパール作戦における日英の戦いは、毛筋一本で戦局が変わる微妙なものであったと書いているのです。
彼は、さらにこう述べます。
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当時のディマプールは、全地域にわたって、狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから、牟田口は確かに勝っていた。
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双方の兵力は、英国15万、日本は9万です。
しかも、英国軍は、十分な兵站がある。
対する日本側は、毎度のことだけれど、ギリギリの装備しか持っていない。
ギリギリの装備しかなかったのは、牟田口中将の資質の問題ではありません。
日本という国自体が、貧しく、ギリギリの戦いをせざるを得なかったのです。
そこを間違えてはいけない。
日本本土だって食い物がなくて、食管法が施行され、闇米が流通し、人々に生活物資がいきわたらなかったのです。
冬は寒いけれど、石油ストーブさえ炊けなかった。
だからみんな木を燃やしたのです。
都心部では餓死者まで出る状況だった。
日本はそうした事情の中で戦っていたのです。
第15軍だけが、なにも兵站が少なかったわけではない。
それでも牟田口中将率いる第十五軍は果敢に戦い、昭和19(1943)年3月21日には、宮崎繁三郎指揮の左突進隊が、はやくもウクル・サンジャクの英国第49旅団を潰走させています。
日本陸軍は、ほんとうに強かった。
そして続く本隊が、コヒマに肉迫した。
コヒマは、ディマプールからインパールに通じる、補給路の要衝です。
日本軍の猛攻に、3月25日、英国のアジア総司令官であるマウントバッテン卿は、ロンドンにある英国統合本部に次のように打電しています。
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もはやインパール街道と、ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。
第四軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。
唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。
よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい。

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その第7師団の空輸が始まったのが4月6日です。
その空輸が始まった当日に、日本軍は、はやくもコヒマを占領しています。
まさに疾風怒涛の快進撃だった。
コヒマの目と鼻の先には、英国軍最大の補給基地であるディマプールがあります。
ディマプールが陥ちれば、日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、戦いに必要な一切合財を確保することができます。
ところがここで、予期せぬ出来事が起こります。
一刻の猶予もならないと、督戦をあおる牟田口中将に対し、コヒマ攻略の指揮官が、牟田口中将兵の反発から、敵前で進撃を停止してしまうのです。
これは外敵というより、むしろまったく内部事情です。
ディマプールにいた英国スタッフォード将軍は、
「このとき、もし日本軍が、コヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら、(作戦全体において、英国に勝利はなかった」と述べています。
日本側のコヒマ攻略の指揮官は、その後インパール作戦の日本側の配色が濃くなったとき、補給途絶の故をもって、無断撤退して抗命事件を起こします。
なぜか戦後史観では、この命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が将兵1万の命を救ったと高い評価を得ているのだけれど、実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、あと二日の距離を急進し、ディマプールを陥としていたら、戦況はまったく違うものになっていた、ということなのです。

さらに話を進めます。
たしかにインパール作戦は、困難な作戦です。
しかし、当時、タイに駐留していた牟田口中将率いる日本陸軍は、わずか3個師団なのです。
この3個師団で、英国のビルマへの浸透を抑えることは、前線が広すぎてどうにも困難です。
さらに、China南部の雲南省には、国民党十万の大軍がいます。
この大軍は、通常の寄せ集めのChina兵と異なり、米軍のジョセフ・スチルウェル中将によって、米式で徹底的に鍛えあげられた軍団です。
時間が経てばたつほど、日本側は不利になる。
しかも彼らには、十分な補給がある。
簡単にいえば、東海道を東進する圧倒的大軍の敵を、箱根(インパール)で討つか、関東平野(ビルマ)まで引き入れて迎撃するかという選択が、インパール作戦となっています。
これだけではありません。
インパール作戦の実施は、日本とその同盟国との関係が大前提となっている。
そもそも大東亜戦争というのは、日本によるアジアの植民地からの「解放」戦争です。
特ア三国以外のアジア諸国は、みんなそう理解している。
なぜならそれが本当のことだからです。
異を唱えているのは、特ア三国だけです。
特ア三国は、大東亜戦争においては、日本とも諸外国ともまったく戦闘をしていません。
当時、八路軍と呼ばれた毛沢東率いる中国共産党は、単に中国奥地に隠れていただけだし、金日成は、名前も登場しない小者にすぎない。
韓国を建国した李承晩は、米国亡命中で日本軍には会ってもいない。
彼らは強力で規律正しい日本陸軍を前に、逃げ回っていただけです。
戦後の東京裁判で、日本陸軍だけが裁きの対象となり、海軍にはまったく罪が及んでいない事情がここにある。
要するに、実際には日本軍とまったく相対することのなかった連中が、後年になって、「我こそは抗日戦線の英雄」などと、嘘八百を言い募るものだから、その三国だけが、おかしな歴史認識となっているのです。
それ以外のアジアの国々は、すべて、日本のおかげで独立できたと認めています。
日本は、おおいに自信を持ってよろしい。
実際、大東亜戦争のさなかである昭和18(1943)年11月に、東京で大東亜会議が開催されています。
会議の席上で、ビルマのウー・バー・モウ総理は、次のように述べています。
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インドの独立なくしてアジアの独立なし
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そして特別参加していた自由インド政府首班のチャンドラ・ボーズは、特に発言を求めて烈々たる気迫で、次のように語った。
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他国は、あるいは英国と講和ができるかもしれませんが、インドとしては絶対に英国と講和はできない。
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これを受けて、東条英機総理は、
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日本は、いよいよインド独立のため、全幅の協力をする決意
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と述べています。
この会議で、日本がその時点ですでに占領していた、インド領アンダマンとニコパル両諸島が、自由インド政府に帰属することになった。
この会議で、日本はインドの独立のための具体的支援行動に出ることを、国際的に約束したのです。
約束は守らなければなりません。
日本は、大東亜会議の二か月後である昭和19年1月に、インパールへの進攻作戦を決定する。
軍は、国家の命によって動きます。
国が、インド独立支援を決めたのなら、それに沿った軍事行動をする。
それが軍隊というものです。
この決定の時点で、牟田口中将以下の第十五師団は、タイで道路工事をしています。
軍隊というと、戦闘以外のときは、なにやら教練をしているくらいしか仕事がないと思っているなら、大間違いです。
諸外国の軍隊はそうかもしれないけれど、日本陸軍は、戦闘以外のときは、地元のために植林事業をしたり、ジャングルに物流の中核となる道路を造ったり、橋をかけたり、地域のために休みなく大土木工事を行っていた。
ぜんぶ、当該地域住民のためです。
とにかく、休んだり、暇にしていることがない。
24時間、365日、休みなく、地域のために働き詰に働いていたのが、日本軍です。
本国から命令を受けた牟田口中将は、具体的なインド独立のためのインパール作戦の詳細を煮詰めます。
当時の日本軍の作戦というのは、巷間、よく言われる「第何々連隊は○○を攻撃すべし」というような、アバウトなものではありません。
予算にも装備にも限界がある日本は、攻撃のルートから手順、目標、経路、必要な装備に至るまで、詳細につぐ詳細な検討がなされ、攻撃活動を展開しています。
その作戦の詳細が煮詰まった、昭和19(1944)年3月8日、牟田口中将によって発動されたのが、インパール作戦です。
ただし、日本のインド独立支援という国家の命題を背負った牟田口中将と、現場の戦線だけを監督する現場指揮官との間には、その意識において、この時点で大きなギャップが生まれています。
つまり、日本国の決定としては、インド独立支援を行う。
ところが、この時点で、すでに日本は全体の戦線を縮小する方向にあったわけで、にもかかわらず、
「なぜいまさら戦線を拡大するインド攻略などしなければならないのか」
という意識が、現場指揮官内に万延していたのは否めません。
しかし、軍は、国家の命に沿って動く。
作戦の詳細を煮詰め、一気にインドに駐留する英国軍を叩く作戦を決定した牟田口中将揮下の第十五軍は、出撃と同時に破竹の快進撃を行います。
そして、起こったのが、コヒマ攻略隊の造反だった。
日本軍は、敵の補給基地の奪取による圧倒的有利な戦いのチャンスを逃し、以降、いっきに敗戦への道を転がり落ちることになる。
しかしそれでも、補給難に陥った状態で、よくぞ二か月間も、ジャングルの中で耐えに耐え、日本の将兵は戦ったものです。
さらに、全軍が総崩れになって、飯も食えずに退却する中にあって、日本の将兵7万人が通った退路で、ただの1件たりとも、民家への略奪や暴行事件が起こっていない。
そして、インパール作戦は、日本側の敗退に終わったけれど、このときの日本の将兵の果敢な戦いが、英国軍の最高指揮官マウントバッテン卿の心を動かし、戦後の東京裁判でのインド人、パル判事の派遣につながる。
そして、インドは英国から独立した。

インパール作戦については、戦後、戦史家の佐藤晃氏が、詳細な史料に基づく検証をされています。
佐藤氏は、陸軍士官学校第61期生です。
軍事の専門家でもあります。
以上の分析は、その佐藤晃氏に学んだ、史実を世界に発信する会の茂木会長から、教えていただいた内容に基づいて、記載させていただきました。
戦後の自虐史観では、インパール作戦の悲惨な撤収ばかりが強調され、そこだけをみたら、まるで日本軍ダメダメ作戦でしかなかったかのようです。
けれども、子細に史料を検証すると、そこからはまったく別な真実が見えてくる。
私たちは、戦後の歴史認識を、いま、抜本的に改める時期にきていると思います。
◆参考記事
≪インパール作戦とパル判事≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1164
≪勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712
≪チャンドラ・ボーズ≫
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≪敵は幾万ありとても・・・拉孟の戦い≫
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≪先人たちの必死の戦いを忘れるな!・・・騰越の戦い≫
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≪いくつかの主張≫
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