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下にご紹介するのは、今週月曜日(2月7日)号でご紹介した「小村寿太郎を迎えた日の丸の旗」の記事です。
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題名:
【小村寿太郎を迎えた日の丸の旗】
本文:
明治時代の日本は、帝国主義列強の脅威の中で、いかに国家の安全と独立を守るかの時代でした。最大の脅威は、不凍港を目指して南下してくるロシアでした。
明治27年(1894)の日清戦争は、朝鮮半島をめぐり、ロシアから迫る脅威に対して、朝鮮の独立を助けたい日本と、同国を属国のままにしておきたい清国との戦争でした。
日本は、日清戦争に勝利し、下関で講和条約が締結されました。
するとその内容に関して、ロシアはフランス、ドイツを誘って干渉してきました。
「三国干渉」です。
やっとこぎ着けた講和条約に第三者が理不尽な要求を突きつけてきたのです。
しかし日本は、この三国を相手に戦争をする力もなく、要求を呑まざるを得ませんでした。
この時の日本人の悔しさを表した言葉が「臥薪嘗胆」です。
ロシアはこれに勢いづき、さらに南下政策を進め、清国から旅順と大連を租借します。
そして旅順には難攻不落の要塞と大軍港を築きます。全満州も急速にロシアの支配が進みます。
朝鮮半島全体が、ロシアの手の内に入るのが目前に迫りました。
その先は、鎌倉時代の元寇の再来です。日本は風前の灯火になりました。
日本は、危機感から必死になってロシアに抗議を重ねますが、そもそも日本を猿と蔑んでいたロシアですから、ことごとく無視されます。
ことここに至って、日本政府はロシアとの戦争を覚悟せざるを得なくなりました。
明治37年2月、日本はロシアに宣戦を布告し日露戦争が始まります。
明治のジャーナリスト黒岩涙香は、開戦の直前にこう書きました。
「この戦争は海軍、陸軍の戦いにあらず、全国民の戦いなり。」
日露戦争では、5万人近くが戦死しました。一家の大黒柱や働き手を失った家族は、その後苦難の道を歩きます。
このような国民の犠牲や死にものぐるいの戦いがあって、日本は北のロシアの脅威を取り除くことができたのです。
日露戦争は、祖国防衛戦争だったのです。
明治38年2月、満州で史上最大の陸戦といわれる奉天大会戦で、日本は大国ロシアを独力で破ります。
同年5月、これも史上最大の海戦といわれる日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊をパーフェクトゲームで破ります。
しかしもう日本には、戦争を続ける余力はありませんでした。
一方ロシアは、タイミングよく開通したシベリア鉄道により、続々と兵力を増強します。
どう考えても次の日本の勝利は考えられません。
講和が急がれました。
勝っている内に有利な条件で講和を結びたい、ロシアはまだまだ継戦能力がある・・・。
日本政府は、密かにアメリカのルーズベルト大統領に、大学時代の学友であった金子堅太郎を派遣して、講和の斡旋を依頼します。大統領は日本に好意的でした。
そして東部海岸のポーツマスで講和会議が開かれることになりました。
講和会議の全権大使になったのが、外相の小村寿太郎です。
政府も小村も覚悟していました。
「ロシアは満州で兵力を増強しつつある、一方日本はもう余力はない、当然講和会議で強い態度に出ることはできない、余力がもうないことなどおくびにも出さず、どこかで妥協せざるを得ない、そうなれば勝利の情報しか聞かされていない国民の怒りを買うことになろう」と。
いよいよポーツマスに出発する時が来ます。新橋駅も、横浜駅も、駅から波止場までの沿道も、歓送の群衆で溢れかえり、国旗や旭日旗が打ち振られました。
前置きが長くなりました。本題はこれからです。
明治38年7月、シアトルに到着した全権団一行は、大統領に挨拶と今後の支援を依頼するために、鉄道でニューヨークに向かいました。
その途中の出来事を、吉村昭著「ポーツマスの旗」から引用します。
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汽車は山林地帯に入り、小駅に停車した。
その時、随行の者が窓の外を指さした。
線路ぎわに5人の粗末なズボンとシャツを着た男が寄り集まっていた。
彼らは、日の丸が描かれている布をつけた太い枝をたてて、こちらに視線を向けている。
顔は日焼けして赤黒く、体格はたくましい男達で、足は土埃で汚れていた。
「お前たちは?」と小村は声をかけた。
彼らは口ごもっていたが、旗を持った背の高い男が、
「私達は白人に雇われている木樵(きこり)で、駅から人里離れた森林で働いております。
大臣様ご一行が通過する話を耳にし、旗をかついで夜じゅう歩き、この駅でお待ちしていました。」と、途切れがちの声で言って頭を下げた。
他の者もそれに倣った。
「旗を作ったのか」小村は言った。
「はい、ありあわせの布に染料をつけ、立ち樹の枝をはらって竿にしました。」
小村は彼らを見つめ「よく来てくれた。皆も達者で仲良く働いてくれ。」
と静かな口調で言った。
彼らは深く頭を下げてお辞儀をしたが、顔を上げた彼らの頬には、一様に涙が流れていた。肩幅の広い大柄の男は、身体を震わして嗚咽している。
機関車の鐘が鳴り、汽車が動き出した。
男たちは、小村に向かって再び姿勢を正すと頭を下げた。小村たちは、遠ざかる彼らを見つめていた。
小村の眼には、光るものが湧き、随行員たちは、しきりに眼をしばたいていた。
客室に戻った彼らは、黙しがちだった。
小村は、領事から聞いた話を思い出していた。
ある時、貧しそうな日本人労働者が領事館を訪れてきた。
領事は、帰国の船賃でも乞いに来たのかと思ったが、労働者は、ポケットから20ドル金貨1枚を出し、僅かではあるが祖国に寄付したいので送って欲しいと言った。
男は、20里以上も離れた地で鉄道工夫に雇われているが、金貨を届けるために歩いてきたのだという。
小村は、線路ぎわに立っていた5人の男の姿とともに、遠くアメリカに移民としてやってきている彼らが、祖国のことを心から気遣っていることを強く感じた。
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遠く祖国日本を離れ、異国のそのまた辺鄙な地域で働いていた名もなき移民の庶民も、必死の思いで祖国のことを心配し、せめて自分達でできることをと、止むに止まれぬ行動をとったのでした。
ポーツマスの講和会議は、本会議を9回重ねましたが、難航を極め、決裂寸前まで行きました。
死活を賭した息を呑むような駆け引きの状況は、「ポーツマスの旗」に詳述されています。
小村の毅然としたかつ論理的な駆け引きは見事ながら、本国の政治家の決断すべき時の決断、軍人、外交官の水も漏らさぬ一致協力振りがありました。
そして、異国の地の移民の庶民も、祖国日本の勝利への戦いに参加したのです。
正に祖国防衛の国民戦争でした。
しかし、小村の帰国を待ち受けていたものは、内情を知らない国民の、条約を不満とする、日比谷公園焼き討ち事件でした。
今、日露戦争から100年、尖閣諸島がシナの侵略にさらされています。
しかしながら、政府も国会も、何の対応への取り組みがなく、危機意識が全く見えません。
明治の先人に対して現代の日本人は、同じ日本人でありながら、国防意識も国家意識も喪失し、すっかり劣化してしまったのでしょうか。
(資料)吉村昭「ポーツマスの旗」(新潮社)、その他
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